• 2008.05.01 21:09
  • 仁美 ( 愛知 48歳 )

  • 私の両親は 青春という いちばん輝いている時を 戦争という 争いの中で過ごした。

    私の想像もつかないほどの 苦しみや悲しみを経験してきたと思う。でも そのほとんどを 胸の中にしまいこんできたのです。

    今から二年前の春 珍しく母と二人きりで 私の大好きな桜を見に行きました。そして 私の大好きな桜の木の下で立ち止まり その桜を見上げながら呟きました。
    「今 こうして生きているというだけで ありがたいし 幸せだね。あの頃(戦争中)は 生きたくても生きられない人が沢山いた。
    戦争はいかん! 絶対にいかん! 大切な人の命を奪い… 大切な人たちから笑顔を奪ってしまった。
    この世の中から 戦争や争いが無くなればいいのに… そして… みんなが穏やかに暮らせたら それでいいのに… 」と
    母の顔をそっと見たら頬に涙が光っていた。
    しばらく 黙って桜を見ていたら
    母が私に
    「あんたは笑顔が一番だよ。あんたの笑顔を見ていると 私まで元気になる。きっと あんたの笑顔を見たらみんなが笑顔になると思うよ」 そう言ってくれた。なんだか嬉しかった。

    それが 母と見た最後の桜でした。

    お母ちゃん。私は あなたの子供に生まれてきて 本当に幸せでした。あなたの 言葉は私の宝物です。だから 辛い時も悲しい時も もちろん嬉しい時も いつも笑顔で頑張っています。
    お母ちゃん 空の上から私が見えますか?

    私は 今年も大好きな桜に会えました。
    あと何回会えるのかな?
    桜を見ると思います。「もう少し あなたの子供でいたかったな」と…
  • 2008.05.01 21:09
  • 小日向かえる ( 新潟 35歳 )

  • 桜が咲く頃までなんて無理です…父が入院して最初の医師からの説明を聞いた時、選択肢がないことに愕然とした私。
    そして、5日後に父は逝ってしまいました。
    父は最後まで私には辛い姿を見せず、私が手を握った時だけ反応を示してくれました。
    けれど、最後の言葉は私にはくれませんでした。
    あれから2年…私の中には言葉では説明できない思いがずっとあの日と変わらずに残っています。

    父が逝ってしまってから3ヶ月後、私は交通事故にあい、脊髄を壊してしまいました。
    危険な手術を何度も経験しながら、父を思い出しています。そして、父が何故私に言葉を残さなかったのかも…
    泣いた日も多かったけれど、父は私に強く生きろと言いたかったのではないかと思えるようになりました。
    まだ、問題は山積しているけれど、この病気になり、手術をして唯一良かったことは術後、視覚が鮮明になったこと。
    色彩がこんなにも美しいと感じることができます。

    絵が好きだった父に見せてあげたいと桜を見ながら今日も思います。
  • 2008.05.01 21:08
  • シンメイ ( 愛知 24歳 )

  • きっと、つぎ会える時はまたちがったを見てもらいたいから

    だからがんばる 前をむいて ひとりでも 歩いてゆける....
    そう思えるわたしをずっと支えて見守ってくれたひとりひとりのやさしさにかんしゃしたい。

    どれだけ大切な存在も いつまでもそばにあるとはかぎらない。 それとなく背中をおしてくれたあの人あのひとことに
    “ありがとう”と伝えたい。でもすぐに伝えられないときだってあるかもしれない。きっとわたしの背中をおしてくれたその手はいつか私自身の手となり自分をささえ、ほかの誰かの背中を押してあげられる手となれるかなぁ…

    ポップシンガー中孝介の唄う姿にそんな想いがめばえた春

    失敗するのをおそれ、踏み出すことをためらい、ぐじゃぐじゃ涙のわたしは最後まで手の掛かる生徒だったでしょう。「ほっとけるかよ。」転勤前の先生はいつも気にかけてくれました。

    どこへ行くのかより そこで何をしたか の方がずっと大切だって教えてくれた。どこかで持ってたあきらめの気持ち どうせ...
    でもとにかくやってみること。やってみてダメならほかの道を進めばいいよ おまえの考えてる事たいてい間違いないんだから心配する必要なんかない。何やってもどこ行っても一緒。自分で選んで歩き始めた未知(道)をゆっくり歩めばいい そこでの出会いをたいせつにしなさい って。

    もうひとりでも大丈夫だよ。それでもどうしてもだめになったら、どうしようもなくなったら、そんときは先生とこ来いって。
    そしたらまたその時どうしたらいいか相談のっていっしょに考えてやるから。。。

    その言葉にずっとささえられて生きてきたよ。失敗しても自分を許せるようになったよ。どんなにつらくても、ふり向けばいつだってそこに先生はいる。どんな崖の端っこにつかまってて力尽きても、またそのやさしい笑顔でこの思いつつんでくれる。受けとめてくれる。そう思えるだけで肩の力抜いて 「どうしよう」が
    「どうにかなるさ」に変わったんだ。悩みためらって失うものはあっても前に進もうとして失うものは何もないってふるいたたせてくれた。立ち止まってもいい どんなにゆっくりでもいい 動きだすことを忘れずに貯えたこころの栄養は、この先また傷つきつまづいたときも私をたすけてくれるから。まわりのスピードに戸惑い自分の居場所を見失いそうになったら、ちゃんと足元みて自分の根っこ大地におろすね。
    0.01を争う秒針のようにめまぐるしく空回りをしてたあの頃
    先生に会えてよかった。
  • 2008.05.01 21:07
  • シンメイ ( 愛知 24歳 )

  • きっと、つぎ会える時はまたちがったを見てもらいたいから

    だからがんばる 前をむいて ひとりでも 歩いてゆける....
    そう思えるわたしをずっと支えて見守ってくれたひとりひとりのやさしさにかんしゃしたい。

    どれだけ大切な存在も いつまでもそばにあるとはかぎらない。 それとなく背中をおしてくれたあの人あのひとことに
    “ありがとう”と伝えたい。でもすぐに伝えられないときだってあるかもしれない。きっとわたしの背中をおしてくれたその手はいつか私自身の手となり自分をささえ、ほかの誰かの背中を押してあげられる手となれるかなぁ…

    ポップシンガー中孝介の唄う姿にそんな想いがめばえた春

    失敗するのをおそれ、踏み出すことをためらい、ぐじゃぐじゃ涙のわたしは最後まで手の掛かる生徒だったでしょう。「ほっとけるかよ。」転勤前の先生はいつも気にかけてくれました。

    どこへ行くのかより そこで何をしたか の方がずっと大切だって教えてくれた。どこかで持ってたあきらめの気持ち どうせ...
    でもとにかくやってみること。やってみてダメならほかの道を進めばいいよ おまえの考えてる事たいてい間違いないんだから心配する必要なんかない。何やってもどこ行っても一緒。自分で選んで歩き始めた未知(道)をゆっくり歩めばいい そこでの出会いをたいせつにしなさい って。

    もうひとりでも大丈夫だよ。それでもどうしてもだめになったら、どうしようもなくなったら、そんときは先生とこ来いって。
    そしたらまたその時どうしたらいいか相談のっていっしょに考えてやるから。。。

    その言葉にずっとささえられて生きてきたよ。失敗しても自分を許せるようになったよ。どんなにつらくても、ふり向けばいつだってそこに先生はいる。どんな崖の端っこにつかまってて力尽きても、またそのやさしい笑顔でこの思いつつんでくれる。受けとめてくれる。そう思えるだけで肩の力抜いて 「どうしよう」が
    「どうにかなるさ」に変わったんだ。悩みためらって失うものはあっても前に進もうとして失うものは何もないってふるいたたせてくれた。立ち止まってもいい どんなにゆっくりでもいい 動きだすことを忘れずに貯えたこころの栄養は、この先また傷つきつまづいたときも私をたすけてくれるから。まわりのスピードに戸惑い自分の居場所を見失いそうになったら、ちゃんと足元みて自分の根っこ大地におろすね。
    0.01を争う秒針のようにめまぐるしく空回りをしてたあの頃
    先生に会えてよかった。

    もっと もっと…
    そんな急がなくても ひとつ また ひとつ

    ゆっくりでいいんだね。
    自分のきもちに素直にむきあえるの

    定時制高校で たくさんかんがえる時間くれた

    待ってるから
    またバスケットで汗流せる日を!
  • 2008.05.01 21:06
  • o~mayu ( 兵庫 46歳 )

  • 春。会いたいけれど、二度と会える事が、不可能になりました。
    中孝介さんの『花』を聞いた時に、大変落ち込んで心も凍りつく程、『失声症』になってしまうかも知れないと思うほどに落ち込んでおりました。
    ただ、中さんの余りにも美しく歌われている声、そして内容に大変でしたが、何とか!?乗り越えようと思いました。

    実は、わたくしの父は、わたくしには過ぎた父でした。真面目で仕事をしそして一日24時間が足りない程、働く(ニンベン=人 重=おもく 力=リキ)そのとおりの父で、ひたすら真面目に働き通しの父でした。にも拘わらず、立場上会社の社長をしておりました。が生憎神戸市の消防の対応が悪く、転送転送転送でもうかえらぬ所へ逝ってしまいました。その後、父は人を殺めたり又会社のお金をつかい込みもしておりませんのに、業者また会社の社員の裏切りにより遺族の意思を無視し、勝手に倒産までさせ、わたくしたち遺族の悲しみなどそっちのけで、落とし込む事のみをして来られました。早く云えば裏切りです。

    家族も必死に家の資産を投資し続け漸くたどりついてこの不景気に黒字経営までたどりつきました。

    真面目に生き、そしてわたくしには過ぎた父でしたから、あまりに人の醜さをまじまじ見たり聞いたりで疲れている一方でした。

    今!会えれば父に本当に父の娘で良かった。ありがとうって申し上げたいです。

    ただ、話をしていたにも拘わらず、突然に亡くなってしまい。唖然とした状態にそして私自身死んでしまうかとも思いました。

    真面目に生きてこんなにも裏切りを受けるのであれば、正直言って真とは一体なんだろう!?偽ばかりがこの世を制覇するようでは、戦争はおろか!泥棒天国になってしまします。


    人は、生きてる間悪を何度も繰り返しておりますが、それでも人を思いやる精神こそ人であると思います。
    人は唯一言葉=コミュニケーションを取る事の可能な動物でもあります。

    中孝介さんの美しい天性のそしてオリジナルな中さんにしか出来ない個性ある声は、表現はわたくしのこれからも糧になる事でしょう。

    中孝介さん。ありがとう♪