ジョン・デンバー
1943年12月31日ニュー・メキシコ州ロズウェル生まれ。本名ヘンリー・ジョン・デュッチェンドルフJr.。幼少の頃は父親の仕事の関係で各地を転々(一時は日本にも住んでいた)とする生活を送っていた彼は、'56年祖母からギビソン・ギターをプレゼントされたことにより、音楽への興味が高まリ、エルヴィスやエヴァリー・ブラザースに憧れ歌手を夢見るようになる。'64年キャピタル・レコードのオーディション用にデモ・レコードを制作したが契約にはいたらなかったが、この時から芸名をジョン・デンバーと名乗るようになる。

'65年、難関オーディションを突破し、チャド・ミッチェル・トリオのリード・ボーカルの座につく。しかしトリオの活動も停滞してきた'69年、ジョンが2年前にピーター・ポール&マリーに提供した曲「悲しみのジェット・プレーン」がシングル・カットされ全米1位を獲得。ジョンのソング・ライターとしての才能が認められソロ活動ヘ向かうことになる。同年ミッチェル・トリオとPPMのプロデューサーであったミルト・オクンの強い推薦で、RCAとソロ契約、ファースト・アルバム「ライムズ・アンド・リーズンズ」を発表。高い評価は得るもののヒットに恵まれなかったが、'71年シングル「故郷へ帰りたい」が世界的に大ヒット。その後も「ロッキー・マウンテン・ハイ」(`73) 「太陽を背に受けて」、「緑の風のアニー」、「バック・ホーム・アゲイン」(`74)、「すばらしきカントリー・ボーイ」、「アイム・ソーリー」「わが友カリプソ号」(`75) 等、大自然、愛、素朴さなどのイメージと共にヒット曲を量産しスーパー・スターの座についた。アルバムも13枚のゴールド・ディスク、2枚のプラチナ・ディスクを持つ。「警部マクロード」、「オー!ゴッド」「別れの時」等にも役者として出演し評価を得ていた。しかし80年代中頃にはレコード・セールス的に不振になり'87年RCAと契約終了となる。その後自主レーベルを立ち上げ意欲的な活動を続け評価はされるがなかなか実を結ばず公私共に崩れていく。1997年ツアーを終えてオフを楽しんだ後、数日前に買った小型自家用機を試験運転中モントレー沖の海上に墜落。帰らぬ人となった。