ヒラリー・ハーン
アメリカのヴァイオリン奏者ヒラリー・ハーンは、早くも22歳という若さにして、世界のコンサート・ステージで最も腕達者で魅力的な演奏家の1人として定評を得ている。1995年にロリン・マゼール指揮のバイエルン放送交響楽団と共演してデビューしたハーンの演奏を評して、ミュンヘンの「南ドイツ新聞」の批評家は「100年に一度出るかどうかの稀な才能」と書いた。2002年10月、ハーンはドイツの「エコー・クラシック賞」で年間最優秀器楽奏者に選ばれ、彼女が記憶されるべきヴァイオリン奏者であることを証明した。

 ハーンの将来性を認めたソニー・クラシカルは1996年に専属録音契約を結び、ハーンはソニー・クラシカルの100年に及ぶ歴史の中で最も若い専属アーティストの1人となった。ヒラリー・ハーンのソニー・クラシカルでの最新録音は、2002年秋に発売されたメンデルスゾーンとショスタコーヴィチ(第1番)のヴァイオリン協奏曲のディスクで、ヒュー・ウルフとマレク・ヤノフスキがオスロ・フィルハーモニー管弦楽団を指揮している。このディスクは2001年に発売されて絶賛されたブラームスとストラヴィンスキーのヴァイオリン協奏曲のアルバム(ネヴィル・マリナー指揮のアカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズと共演)に続くものだ。

 1999年9月、ヒラリー・ハーンはアメリカの作曲家エドガー・メイヤーが彼女のために委嘱されて書き下ろした新作協奏曲の世界初演を行った。その翌週、ハーンはメイヤーとサミュエル・バーバーの協奏曲を、ヒュー・ウルフ指揮のセント・ポール室内管弦楽団と録音した。ソニー・クラシカルより2000年3月に発売されたこのメイヤー/バーバーのディスクは「ビルボード」誌のクラシック・チャートに数週間とどまり、ドイツ音楽批評家賞や英国「グラモフォン」誌のカバーストーリーに取り上げられるなど、たちまち好評を博した。

 1998/99年のシーズンにはソニー・クラシカルでの2枚目のアルバムが発売された。ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲とバーンスタインの《セレナード》をカップリングしたこのディスク(SK 60584)が録音されたのは1998年の春。オーケストラ演奏はデヴィッド・ジンマン指揮のボルティモア交響楽団、プロデュースはトマス・フロストだった。ハーンが18歳の時に録音されたこのディスクは、「グラモフォン」誌で“今月のCD”に選出され、仏「ディアパゾン」誌の“年間ドール賞”を受けるなど批評家からも一般聴衆からも好評を博し、また、このディスクでハーンは初めてグラミー賞にノミネートされた。さらにドイツの「フォノフォーラム」とオーストラリアの「24 Hours」がハーンを大きく取り上げ、ディスクは世界各国のクラシックCDチャートでベストセラーとなった。

 ヒラリー・ハーンのソニー・クラシカルでの初録音となったバッハの無伴奏パルティータとソナタ集のCDは1997年の秋に発売された。ちょうどその頃、ハーンはリンカーン・センターのアリス・タリー・ホールで初のニューヨーク・リサイタルを開いていた。このディスクは、フランスで最も権威あるレコード賞である「ディアパゾン・ドール賞」の“ヤング・タレント賞”に輝き(1998年)、アメリカでは「ステレオ・レヴュー」誌の“今月の特選盤”に選ばれるとともに「ビルボード」誌のクラシック・チャートで何週間にもわたってベストセラーを続けた。

 ヒラリー・ハーンの2002/03年のシーズンで一番のハイライトはメイヤーのヴァイオリン協奏曲だろう。この作品をハーンはまずフランクフルトで、ついでドイツおよび中央ヨーロッパ・ツアーでサンフランシスコ交響楽団と共演することになっている。リサイタルはニューヨークのカーネギー・ホール、モントリオール、ヴェネツィア、チューリヒ、ミュンヘン、イスタンブール、リヨン、ウィーン、デュッセルドルフ、さらにアメリカの数都市で開かれる。また、バッハのヴァイオリン協奏曲の演奏のためにルツェルン、ウィーン、ザルツブルク、米国内ではミルウォーキー、ホノルル、デラウェア州ウィルミントン、ロスアンジェルスに出かける。さらにハーンはエルガーのヴァイオリン協奏曲をバイエルン放送交響楽団と演奏することになっており、リスボンとコペンハーゲンではシュポアのヴァイオリン協奏曲第8番を演奏する。

 1990年に10歳でフィラデルフィアのカーティス音楽院に入学したハーンは、翌1991年の12月にボルティモア交響楽団と共演して本格的なオーケストラ・デビューを果たした。1993年にはフィラデルフィアでもオーケストラと初共演し、その後すぐにクリーヴランド管弦楽団、ピッツバーグ交響楽団、ニューヨーク・フィルハーモニックとも共演した。15歳の時にはドイツで初めて演奏し(ミュンヘン)、ロリン・マゼール指揮のバイエルン放送交響楽団とベートーヴェンの協奏曲を演奏したこのコンサートの模様はヨーロッパ中にテレビ放映された。

 1998年1月にはパリに初登場し、マレク・ヤノフスキ指揮のフランス国立放送フフィルハーモニー管弦楽団とのコンサートはフランス中に生放送された。1998年の春にはバイエルン放送交響楽団およびロリン・マゼールとツアーを行い、ロンドン、バーミンガム、グラスゴー、ハンブルク、シュトゥットガルト、チューリヒ、ウィーンでコンサートを開いた。米国内ではリンカーン・センターで初のニューヨーク・リサイタルを開き、カーネギー・ホールでもソリストとしてハンス・フォンク指揮セントルイス交響楽団と共演した。1998/99年のシーズンにはニューヨーク・フィルハーモニック、ロスアンジェルス・フィルハーモニー管弦楽団、ナショナル交響楽団などと米国内とヨーロッパにツアーを行い、5週間のオーストラリア・ツアーでこのシーズンを締めくくった。日本には2000年11月にベルリン・フィルと共演して初登場し、その時のコンサートはのちにNHKによって全国に放送された。

 ヒラリー・ハーンの初リサイタルは、1994年の秋、シカゴ・ラヴィニア音楽祭の“新星”シリーズおよびワシントンD.C.の“フィリップス・コレクション・コンサート”シリーズの一環として行われた。以来、ボルティモア、シカゴ、ダラス、ロスアンジェルス、ニューヨーク、ワシントンD.C.、アムステルダム、フィレンツェ、ミラノ、ロンドン、リヨン、パリ、ミュンヘン、チューリヒ、ジュネーヴ、ヴィリニュス(リトアニア)をはじめ、米国とヨーロッパの各地でリサイタルを行ってきた。ハーンは室内楽奏者としても活発に活動しており、リンカーン・センターの室内楽協会とヴァーモントのマールボロ音楽祭で定期的に演奏している。1997年10月にはロッテルダム、パリ、ハノーファー、ミュンヘンでも初リサイタルを行った。日本では2001年12月にリサイタル・デビューを飾り、東京、愛知、大阪で演奏して一般聴衆とメディアを魅了した。

 のちにヤッシャ・ブロツキーの弟子となったヒラリー・ハーンは4歳の誕生日を迎える1か月前からピーボディ音楽院のスズキ・プログラムでヴァイオリンを学んだ。5歳からカーティス音楽院に入るまでは、オデッサ生まれでレニングラード音楽学校で25年間の教育経験を積んだクララ・ベルコヴィチに師事。10歳から17歳まではカーティス音楽院でヤッシャ・ブロツキー(当時、ベルギーの偉大なヴァイオリン奏者ウジェーヌ・イザイの弟子の中で生き残っているのは彼だけだった)に学び、両者の密接な師弟関係は89歳でブロツキーが他界するまで続いた。ハーンはさらに2年間カーティス音楽院にとどまり、ハイメ・ラレードと定期的に演奏し、フェリックス・ガリミールとゲイリー・グラフマンに室内楽を学んだ。1999年5月、ヒラリー・ハーンは音楽学の学位を得てカーティス音楽院を卒業した。