デュラン・デュラン
デュラン・デュラン結成以来25年を経て、オリジナル・メンバーであるサイモン・ル・ボン、ニック・ローズ、ジョン・テイラー、アンディ・テイラー、ロジャー・テイラーの5人が再び結集した。それぞれが独自のプロジェクトで活動を開始して久しい。

バンドを一気にチャートのトップへのし上がらせた見事な音楽的相性の良さと、独特なスタイルは相変わらず。再結成してレコーディングしたニュー・アルバムは、すでに最高の出来を予感させる。不思議なほどクセになる楽曲、卓越したミュージシャンシップ、スリリングな編曲、ワイルドでエッジの効いたボーカル・・・この最新作品は、どこを切っても疑う余地なく「古き良きデュラン・デュランの新ミレニアム仕様」である。



デュラン・デュランはこれまでに通算7000万枚以上のレコードを売上げ、その輝かしい活動で’80~’90年代のもっとも成功したグループのひとつに数えられている。ポップ・ミュージックとアートとファッションを前代未聞のレベルへと融合させ、独力でミュージック・ビデオを新たなる時代へと導いた。それ以前には単なるマーケティング・ツールでしかなかったものを、こんにちの音楽業界でもっとも価値の高い財産のひとつにまで変身させたのである。エキゾチックなロケ地、居並ぶ美女たち、そして目の覚めるような映像処理を用いて、デュラン・デュランは、まったく新しいスタンダードを確立。彼らの成功は、長年の努力と絶え間なく続けたコンサート・ツアーのたまものである。見目麗しく、スタイル抜群、それにあふれる自信がそろえば、まさに完璧なバンドのできあがりである。

クラシックとなった不朽のポップ・ソングの数々は、ロック・ギターと耳について離れないメロディ、そして心に残る歌詞の絶妙なコンビネーション。世界中でソールドアウトの会場を埋めたオーディエンスを魅了、行く先々でチケット売上げ記録を更新。舞台の表にも裏にもヒステリックな人気が先行すると、メディアは彼らをビートルズと比較した。時代の流れをうまくつかみ、熱狂的なファンの大軍の心を捉えた。

今、その彼らが再結成し、歴史を繰り返そうとしている。





1978年、英国バーミンガムでキーボードのニック・ローズとベースのジョン・テイラーによって結成されたデュラン・デュランのサウンドは、彼らの青春の音楽、すなわち、’70年代ニューヨークの活気に満ちたアンダーグラウンド・シーン(ニューヨーク・ドールズやベルベット・アンダーグラウンド)、アイドル的存在のデイビッド・ボウイー、そしてロキシー・ミュージックなどのアバンギャルドなバンドに影響を受けていた。当時、ジョンは美術大学の学生、ニックは高校を卒業するという頃である。

同じ美術大学生スティーブン・ダフィーと料理学校の学生だったもう1人の友人サイモン・コリーの参加で、初めてバンドという形態が完成。サイモンはクラリネットとベースが弾けた。ニックは小さなシンセサイザー1大とドラムマシンを持っていた。ジョンはギターを弾き、スティーブンは歌とフレットレスを担当。地元のカレッジ・サーキットで練習を重ねていたが、まもなくサイモンとスティーブンは別のチャンスをつかむためにバンドを去り、ニックとジョンは再びメンバー探しをすることになった。

その後、何ヶ月にも渡って新顔が入っては辞め、という状態だったが、やがてロジャー・テイラーがドラムで参加。地元の人気パンク・バンド、ザ・セント・オーガンズでプレイしていたロジャーは、それまでにバンドに参加した多くのプレイヤーよりも経験が豊富だった。ロジャーが参加、そしてジョンがベースに転向し、新しくデュラン・デュラン(ロジャー・バディム監督の懐かしいSF映画『バーバレラ』に登場するキャラクターにちなんで)と命名されたバンドは、ファンキーなスタイルを確立しはじめ、パンク・ロック色は薄れ、シンプル・マインドやジャパンのような当時の最新サウンドに傾倒していった。

まだ新参バンドではあったが、ジョン、ロジャー、ニックはレコード・レーベルとの契約を熱望、ただちに行動を開始してデモ・テープを送り、ロンドンに拠点を置くレコード会社を訪れ、またステップアップに役立ちそうなレベルの高いギグを見つけた。こうした活動の中で、彼らは地元で大人気のおしゃれなナイトクラブ、ラム・ランナーにアプローチ。3人はここなら受けるだろうという自信があった。

彼らのデモを聞いたラム・ランナーのオーナー、ポール&マイケル・ベローは、バンドにキラリと光るものを見出し、必ず成功するだろうと考えた。バンドはすぐにクラブの専属となり、日中は誰もいないホールでリハーサル、夜はクラブでDJやスタッフとして働いた。

その後は新メンバーのオーディションが続いた。メロディ・メイカー誌に掲載した広告で応募してきたアンディ・テイラー、そして、すぐ後に加わったサイモン・ル=ボンは、クラブで以前にバーテンダーをしていた元ガールフレンドの紹介だった。サイモンは、バンドでただひとり南部の出身だったが、バーミンガム大学で演劇を学んでいたのだった。



それからの数ヶ月というもの、バンドは疲れを知らずに活動を続けた。作曲、レコーディング、そして、いつでもどこでも、チャンスがあればライブを行なった。へーゼル・オコーナーの前座を務めて以来、1980年までには努力が実って評判が立ち、レコード会社による獲得戦争が勃発。最後に残った東芝EMIは、プロデューサーとしてコリン・サーストンをつけてバンドをすぐにスタジオへ送り込んだ。

バンド名を冠して1981年に発表されたデビュー・アルバムは250万枚を売上げ、なんど118週間連続してチャートに名を連ね、ヒット・シングル「プラネット・アース」を生み出した。同じ年、ポップ・アーティストとして初めての12インチ・リミックス(同じく「プラネット・アース」)、そして「ガールズ・オン・フィルム」のダンス・ミックスのスキャンダラスなビデオ(監督:ゴッドリー&クリーム)を発表。このビデオはその後MTVとBBCの両方で放送禁止となる。 



今から思えば、このバンドがあれほど急速に新世代ティーネイジャーのグラビア・アイドルとなったのは奇妙にも思える。というのは、アルバム『デュラン・デュラン』は伝統的なポップ・アルバムとは正反対の作品だったからだ。歌詞のテーマは明らかにオトナだし、楽曲も、ポップな香りとダンサブルな勢いはあったが、えてして暗さがただよう。自分たちでも当初発言していたように、サウンドには初期のダムド風な部分もあった。陰のある、ヨーロッパ的ひねりに、暗い空気のたれこめた雰囲気がアルバムを満たしていたのである。

「ケアレス・メモリーズ」をはじめファースト・アルバムのB面は、全体に、ザ・キュアー、ザ・サイケデリック・ファーズ、エコー・アンド・ザ・バニーメンなどのポスト・パンクのバンドや、その他多くのゴス・ムーブメントの先駆者のムードからさほど遠くなかった。しかし、デュラン・デュランを生ける屍から救ったのは、踊りたくさせるリズムと、ローズによる非常に実験的な電子楽器の活用だった。



デュラン・デュランは1980年代の「第2次ブリティッシュ・インベージョン」の波にのって名声を博した。同じようなバンドには、スパンダー・バレエ、ヒューマン・リーグ、ウルトラボックス、カルチャー・クラブなどがあったが、彼らとは常に一線を画し、電子楽器を駆使したライブを行ない、新しいテクノロジーの守備範囲を押し広げ、そして一番長く生き残っている。

チャートのトップを飾った懐かしいシングル「ハングリー・ライク・ザ・ウルフ」「リオ」「セイヴ・ア・プレイヤー」を含む、マルチ・プラチナ・アルバムとなった2枚目の『リオ』では、エキゾチックで革新的なビデオで、さらにステップアップを遂げた。ダイアナ元妃がデュラン・デュランをお気に入りのバンドと公言したのはちょうどこの頃で、友人のアーティストのアンディ・ウォーホルやキース・へリングらも支持を惜しまなかった。この頃までには、彼らの音楽は英国を飛び出し、世界中で成功に浴していた。

1983年までに、「ハングリー・ライク・ザ・ウルフ」(ロケ地:スリランカ、監督:ラッセル・ムルカイ)がMTVで最もオンエア回数の多かったビデオのひとつとなった。同じ年、「プリーズ・テル・ミー・ナウ」が英国で初登場第1位、米国でもチャート4位に輝いた。

3枚目のアルバムとなる1984年の『セブン・アンド・ザ・ラグド・タイガー』では、シングル「ザ・リフレックス」で初の全米ナンバー・ワンを獲得。同じ年、シングルカットされた「ユニオン・オブ・ザ・スネイク」が世界中で爆発的ヒットとなり、ローリング・ストーン誌から“ファブ・ファイブ”〔訳注:ビートルズが“ファブ・フォー(素晴らしき4人組)”と呼ばれたことから〕との異名を与えられた。

この頃までに、デュラン・デュランの行くところではどこでも、アリーナはソールドアウト、チケット売上げは記録更新。受賞やヒット曲や世界的名声は当たり前のこととなっていた。シングルを出せば、次から次へと大ヒット、はずすことなどあり得ないかのように思われた。

わずか3年の間に3回のワールド・ツアーを敢行、空前の回数のインタビューやテレビ出演をこなした。このスケジュールの間、一瞬たりともプレス、プレッシャー、そしてファンの要求から逃れることはできなかった。メンバーはさすがに休息を必要としていたが、問題は、絶え間なくオファーが続き、しかも必ず前のよりも良い条件の仕事だったのである。



1985年、映画『007/美しき獲物たち』のテーマ曲を書くという依頼を受け、バンドはまたひとつ“初”記録をものにした。この曲がボンド映画のテーマ曲として初めて、チャートで1位に輝いたのである(こんにちでも、この記録は破られていない)。



デュラン・デュランが成功の波に乗っている間に、レーベル側はもう1枚アルバムを、と考えた。しかし、この数年間で初めて、バンドは“NO”と答えた。息を整えて、創造性を充電する必要があったのだ。だが、完全休業を取る間もなく、ジョンとアンディは、ロバート・パーマー、元シックのドラマー、トニー・トンプソン、ベーシストのバーナード・エドワーズと組んで、ザ・パワーステーションを結成。一方、ニック、サイモン、ロジャーの3人は、ゲストにグレース・ジョーンズ、スティング、デイビッド・ギルモア、ハービー・ハンコックを迎えて、サイド・プロジェクトのアーケイディアに着手した。

パワーステーションの、ファンクとグラムロックをかけあわせたグルーブのアルバム『パワーステーション』で、アンディとジョンがデュラン・デュランの独特のサウンドから離れて行く一方、アーケイディアの『情熱の赤い薔薇』は、母体デュラン・デュランのスタイルを荘厳に再確認したサウンドとなった。アルバム『デュラン・デュラン』の暗さの糸を引きつつ、『リオ』や『セブン・アンド・ザ・ラグド・タイガー』のポップの香りを加えた作品で、最初のシングルカット「エレクション・デイ」は、暗いエレクトロ・ダンス・ポップの最高峰となった。

1985年7月、しばらく離れていたデュラン・デュランの5人のメンバーが、フィラデルフィアで行なわれた歴史的コンサート、ライブ・エイドのために再び集まった。このときは知る由もなかったが、これがオリジナル・メンバーによる最後の演奏となり、ひとつの時代が幕を下ろした。



‘86年初頭、ジョンは映画『ナイン・ハーフ』のテーマの作曲依頼を受ける。4月には、この映画のためにソロで完成させた『アイ・ドゥ・ホワット・アイ・ドゥ』を発表、大西洋の両側でチャート入りしたが、同じ頃、デュラン・デュランとして再び一緒にスタジオ入りしようという計画が持ち上がっていた。そこへ爆弾が落ちた・・・ロジャー・テイラーが、もう1年休暇を取って、将来の生活の見通しを立てるためにグロスターシャーの農場に引っ込みたい、と発言したのである。

呆然としつつも、残った4人のメンバーは6月にスタジオへ戻り、作曲とレコーディングを始めた。しかし、ほどなくアンディ・テイラーも、再び同じようなアルバム・サイクルに戻る前に、あと数ヶ月プロジェクトから離れていたい、としてロジャーに続く。アンディは後になって、ソロ活動をしたくてバンドを離れたのではない、と言っている。しかし、実際はそういう結果になった。ロサンジェルスへ引っ越したアンディは、元セックス・ピストルズのギタリスト、スティーブ・ジョーンズと共にアルバム『サンダー』をレコーディング、さらにプロデューサーとしても、ロッド・スチュワートのカムバック・アルバム『アウト・オブ・オーダー』など、次々とヒット作を生み出した。



 アンディの脱退、その直後のロジャーの正式引退は、デュラン・デュランにとって非常に深刻な下り坂の入り口かのように思われた。しかし、その年の8月、バンドを解散したばかりのギタリスト、ウォーレン・ククルロから連絡が入り、再びバンドとしての形を取り戻し始めた。

この年、“第二期”デュラン・デュランはナイル・ロジャースと組んで、ファンクをベースとしたアルバム『ノトーリアス』をレコーディング。タイトル曲はチャートのトップに輝き、アルバムをマルチ・プラチナ・レコードへと導いた。14年後、この曲をショーン・“パフィ”・コムズがサンプリング使用し、ノトーリアスB.I.G.の、死後にリリースされたアルバム『ボーン・アゲイン』に収録した。

バンドの成功の歴史はこれで終わりではない。『ノトーリアス』に続いて『Big Thing』(1988)、そして、自らの10年間の活動を讃えるベスト・アルバム『ディケード』が1990年にリリースされた。さらに同年、6枚目のスタジオ・アルバムとなる『リバティ』を発表。2作品に渡って参加したスティーブ・フェロンに代わって、ドラムにはスターリング・キャンベルが起用された。



1993年、ニック、サイモン、ジョン、ウォーレンは再びスタジオに入り、新アルバム『Duran Duran 2』をレコーディング。通称『ザ・ウェディング・アルバム』(アルバムのアートワークに、メンバーの両親の結婚式の写真を使用したため)として知られるCDからは、賞に輝いたスマッシュ・ヒット「オーディナリー・ワールド」や、負けず劣らず高い評価を得た「カム・アンダーン」が生まれた。翌94年に発表され、キャリア中で最高とも言えるレビューが次々と書かれ、名誉あるアイヴァ−・ノヴェロ賞の作曲部門を受賞した『ウェディング・アルバム』は、世界中で400万枚を売上げ、熱烈な“デュラニーズ”の新世代をもたらした。



続く『サンキュー』はデュラン・デュランがカバー曲ばかりを披露したアルバムで、長年に渡り彼らにインスピレーションと影響を与えた偉大なるアーティストたちへのトリビュートとなっている。このアルバムには、グランドマスター・フラッシュ&ザ・フュリアス・ファイブ、レッド・ツェッペリン、イギー・ポップ、ルー・リード他、大勢のアーティストの作品が収録され、ファンからも当のアーティスト達からも大絶賛された。

この年、ル=ボンは、イタリアで行なわれたWar Child〔訳注:戦争遺児を助ける世界的組織〕のチャリティ・コンサートでテノールのスーパースター、ルチアーノ・パバロッティと競演。その後もフェスティバルやツアーが続いたが、その間にもジョン・テイラーは、元セックス・ピストルズのスティーブ・ジョーンズ、ガンズ&ローゼスのベーシスト、ダフ・マッケイガンとドラマーのマット・ソーラムと共に4人組ニューロティック・アウトサイダーズを結成。元々はLAでのチャリティ・コンサートのために集まり、ステージ上での即興ギグを行なうだけだったはずが、正式なプロジェクトに発展し、マーヴェリック・レコーズと契約してバンド名を冠したアルバムを1996年に発表した。



1996年、デュラン・デュランと共に約20年を過ごしたジョン・テイラーが、様々なソロ・プロジェクトに力を入れるため正式に脱退。翌年、バンドは映画版『ザ・セイント』のサントラに「アウト・オブ・マイ・マインド」を提供、テイラーが脱退前に録音に参加したアルバム『メダザランド』をリリースした。このアルバムに収録された「エレクトリック・バーバレラ」は、インターネット上でダウンロード・フォーマットとして販売された初めての楽曲となった。



2000年、2枚のデュラン・トリビュート・アルバム(1枚はカイリー・ミノーグ、ベン・リーなど幅広いアーティストによるもの、もう1枚はデフトーンズとゴールドフィンガーによるもの)が発表されると、ハリウッド・レコーズはCD『ポップ・トラッシュ』を発表して大評判を呼び、バンドは各国でのツアーで最高レベルの成功を収め、さらに盛り上げた。このツアーでは、ライブ・コンサートとしては初めて “強化現実”技術(Augmented Reality technology)が使用された。ツアーの終了と同時に、ウォーレンがバンドを脱退、ミッシング・パーソンズへ戻った。

このワールド・ツアーが終了すると、サイモンは新ミレニアムのスタートと共に長年の疲れを癒す休業に入り、ニックは長年の友人であり、同僚でもあるスティーブン・ダフィーと共にザ・デビルズを結成、デビュー・アルバム『ダーク・サークルズ』に取りかかった(2002年末リリース)。



長年に渡り、たくさんの人々がデュラン・デュランのオリジナル・メンバーに、再結成して誰の目にも明らかな5人の相性の良さを活かすべきだ、と説得を試みてきた。しかし、5人がそれぞれ別の、個人的な興味を追及する間、これは決して実現しなかった。そして2000年、バンドの25周年が足早に近づく中、それぞれのタイミングが合い、会話が活発になってきた。最初の話では、再結成ツアーのみ、ということであったが、一度メンバーが一堂に会すれば、たちまちクリエイティブな蜜があふれ出てきた。2003年が近づく頃、デュラン・デュランの元祖“ファブ・ファイブ”は、なんと18年ぶりとなるアルバムを産み出すためスタジオ入り。“栄光を取り戻す”という課題への挑戦に勢いを得たサイモン、ニック、アンディ、ロジャー、ジョンの5人は、翌年初頭のリリースを目指して、新しい楽曲の完成に精を出した。



彼らのヒット・チャートでの成功、数々の受賞、アルバムとシングルの売上げ、コンサート・チケットの売上げ枚数、満員にしたスタジアムの数、前代未聞のビデオ、何世代ものミュージシャンに与えた影響などをすべて積み上げてみると、彼らほどの歴史を語れるアーティストは、U2、ザ・ローリング・ストーンズ、マドンナなど、片手ほどにしかならない。世界で最も強い影響力を持つポップ・グループの創造主でもあり、構成メンバーでもある5人は、常に守備範囲を広げ、新しいスタンダードを世に紹介してきた。彼らにとって、流行は追うものではなく作るもの。そうして、他の人々なら尻ごみするようなリスクを背負ってきたのだ。その結果は、言わずもがな、である。

どんなバンドにもある好調と不調を、デュラン・デュランも、公私に渡って味わってきた。しかし、他のバンドと違うのは、彼らが常にデュラン・デュランという存在をはっきりとしたビジョンで捉え、長く人々の記憶に残り新たな世代のファン達をも魅了するであろう、すばらしいポップ・ソングを書き続けたことである。これまでに味わってきた驚異的な成功と、未来への固い決意を持ったデュラン・デュランの立場は独特といえる。世界中の誰もが彼らの名前を知っている・・・何世代にも渡る音楽ファンにとって、ひときわ目立つ、尊敬に値するブランド名なのである。彼らは、豊かで色とりどりな過去を持つ。しかしまた、同じくらいエキサイティングでダイナミックな未来が彼らを待ち受けているのである。