デボラ・コックス
1995年3月9日朝、ニューヨークはマンハッタン、セブンス・アヴェニュー52丁目に位置するオーディトリアム・ホールには足早に入り口をめざす多くの人々がいた。この日開かれるアリスタ・レコードの1995プレゼンテーション・ミーティングに参加する全米のセールス、マーケティング、プロモーションの担当者たちである。

 この日、この場所でアリスタの社長であり、アメリカ・ミュージック・ビジネス界の顔役ともいえるクライヴ・デイヴィス氏自らによる今年一年間の方針と、プライオリティー・アーティストのプレゼンテーションが行われるのである。否、アメリカのみならず世界的にその手腕と影響力を知られる音楽人と呼んでも過言ではないだろう。なぜならそこには私を含めた世界各国のBMGから、彼の一言をも漏らさず聞き取り自国でのビジネス・チャンスに結びつけようとする多くのスタッフが集まっていたのだ。アレサ・フランクリンとともに歩み、ホイットニー・ヒューストンを育て、ケニーGを見いだしたその音楽センスとコネクションに誰もが全幅の信頼を寄せているのである。「クライヴが本気になったものは必ず売れる」と。

 この日、大方の参加者の話題は、今年後半に期待されているホイットニーのニュー・アルバムとエイス・オブ・ベイスのセカンド・アルバムが、いかにプレゼンされるかであった。クライヴ自身がステージに立ちスタートしたプレゼンテーションも、昨年後半から今年の頭にかけてすばらしい実績を残したアーティストの紹介が快調に進み、終盤にさしかかったときであった。会場が瞬間暗転し、クライヴの声だけが会場に響きわたった。

 「今年我々アリスタが大きな自信と期待を込めて送り出す一人の女性アーティストを紹介させてください」と。

 それだけを告げると正面のスクリーンに愛らしい表情を浮かべた女性(と言うよりは女の子)のスライドが投影され、次々と計6曲のナンバーがステージ両サイドに設置された大型のスピーカーから流された…それはホイットニーでもエイス・オブ・ベイスでもなかった。



 彼女の名前はデボラ・コックス。カナダ、トロント出身の20歳。プロフェッショナルとして初めてお金を得て歌を歌ったのは11才、地元のクラブでだった。以来地元のテレビ局の出演を重ねながら、マクドナルドやオデオン(映画館のチェーン)のCMジングルの仕事をこなす高校時代。確実に音楽の世界に踏み込んでいく彼女だった。

 高校を卒業したデボラは初めてコンサート・ツアーに参加する経験を得る。カナダの中堅アーティストROCH VOISINEのツアーメンバーとしてベルギー、オランダ、フランス、他ヨーロッパ各国を巡る数カ月の旅である。この経験は彼女にとって、自分自身がアーティストとして活動したいと思わせる大きなきっかけの一つになったに違いない。

VOISINEとのツアーを終えて程なくして、デボラはバック・ヴォーカルとして新たなツアーの誘いを受ける。そのアーティストの名は……セリーヌ・ディオン。「パワー・オブ・ラヴ」の大ヒットでも知られるカナダが生んだ世界に誇るトップ・シンガーである。

それはカナダ国内にとどまらず、再びヨーロッパに渡ることとなる。今度は、セリーヌとともに。

 高校を卒業してわずか1年で2つのヨーロッパ・ツアーをこなしている彼女はそのツアー終了目前にしてアメリカへ向かうこととなる。1992年ワシントンDC、JFKセンターで開かれるビル・クリントン大統領就任記念コンサートのステージに立つためである。また、彼女はセリーヌとともに「トゥナイト・ショウ」「アルセニオ・ホール・ショウ」といった人気テレビ番組にも出演を果たしている。そして、あの運命的な出来事がなかったら彼女はまだセリーヌのツアー・メンバーとして各国を飛び回る毎日を過ごしていたかもしれない。プロデューサーであり彼女のよき理解者であるラッセルズ・ステファンズとともにレコーディングした4曲入りのデモ・テープが廻り廻ってクライヴ・デイヴィスのデスクに辿り着くという幸運がなかったら…

 そのテープを聴くや、クライヴはある種の衝撃を受けた。デビュー以前のホイットニー・ヒューストンに巡り会ったときに感じたものと全く同じあの衝撃を。すぐにラッセルズにコンタクトをとると、デボラに会った彼は彼女を見てその場で契約を決定する。

デビュー・アルバムからは『SENTIMENTAL』『WHO DO YOU LOVE』などが大ヒット。1998年にはセカンド・アルバム『ONE WISH』をリリースし、『NOBODY'S SUPPOSED TO BE HERE』がR&Bチャート1位に輝く大ヒットとなり、トップR&Bシンガーの仲間入り。2002年アーティストとしても円熟味を増したデボラの3rd Album「ザ・モーニング・アフター」が発売になる。