【追悼】ビル・ウィザースの音楽とその影響力
2020.04.09
INFO
「Ain’t No Sunshine」、「Lean on Me」、「Just the Two of Us」・・・など数多くの名曲を生んだ歌手のビル・ウィザースさんが、2020年3月31日に心臓の合併症で亡くなったと家族が発表しました。81歳でした。心から故人のご冥福をお祈りいたします。
2015年にNYで行われたビル・ウィザース トリビュート・コンサートの会場にも足を運んだ音楽ジャーナリスト:林剛さんに、現在も脈々と受け継がれるビル・ウィザースの音楽とその影響力について寄稿していただきました。貴重なライヴ・レポートと共にお読みください。
アコースティック・ギターを担ぎ、素朴で無骨なヴォーカルに魂を込めて歌うビル・ウィザースは、本当に朴訥という言葉が似合うシンガー/ソングライターだった。よく語られるように、プロとして音楽活動を始める前のビルは航空機の便器などを取り付ける工事士で、その経歴や朴訥とした歌声のイメージもあってか、ブルーカラーのミュージシャン、ワーキングクラスのヒーローとも言われていた。もっとトレンドを意識するよう指示してきたレーベルのA&Rに怒りを覚え、結果として80年代中期にパフォーマーとして引退したのも、音楽に対して常に正直で、誠実であろうとした気持ちの裏返しだろう。
引退前には商業的な成功から遠ざかりつつあったビルだが、面白いことに引退後、クラブ・ヌーヴォーがゴー・ゴー風のビートでリメイクした“Lean On Me”(86年)を大ヒットさせてから、空白となったビルのキャリアを埋めるかのように、様々なアーティストがカヴァーやサンプリングなどでビルの音楽を蘇らせてきた。音楽的な後継者としては、近年ならマイケル・キワヌーカなどを思い浮かべるが、フォーキーとも称されるビルの音楽を手本としたり、自分の楽曲の一部にしたいと考えるミュージシャンは後を絶たない。
ビル生誕80周年の2018年にトリビュート・アルバム『Lean On Me』をリリースしたホセ・ジェイムズもそんなひとりだ。イントロがブレイクビーツの古典となっていることを踏まえて“Kissing My Love”をカヴァーするなど技ありの作品だったが、そのホセが「ビルのアルバムを一枚選ぶなら?」という問いに対して挙げたのは、『Bill Withers Live At Carnegie Hall』(73年)。いわく「当時ビルが人々といかに結びついていたかがわかる。魔法のような一夜だったと思う」という、72年10月6日、ニューヨークのカーネギー・ホールで行われたライヴの実況盤だ。
そんな魔法のような一夜から43年後、2015年の10月1日に、当時と同じカーネギー・ホールでビル・ウィザースのトリビュート・コンサート〈Lean On Him : A Tribute To Bill Withers〉が行われた。ニッティング・ファクトリーの創設者であるマイケル・ドーフの主催で、ビルの妻マルシアやソニーミュージック/レガシー・レコーディングスのレオ・サックスらがコ・プロデュースを務め、様々なアーティストがビルの曲を歌うスペシャルな企画。72年のライヴ当日は雨だったというが、この日のニューヨークも開場前から雨。その時点でもう完璧だった。
まずビル本人がステージに現れ、意外にもラップを披露してスタートしたショーは、オープニング・パート、『Live At Carnegie Hall』を曲順通りにカヴァーする本編、そしてアンコールの3部構成。休憩を含めて2時間半に及んだライヴをミュージカル・ディレクター/ホストとして仕切ったのはグレッグ・フィリンゲインズ(key)。バンドも、フェリシア・コリンズ(g)、スティーヴ・ジョーダン(ds)、ウィリー・ウィークス(b)、バシリ・ジョンソン(per)といった熟練の名手が顔を揃え、バック・ヴォーカルにはシンディ・マイゼルらに加えてビルの実娘コリーも名を連ねる。マイケル・マクドナルドが歌った“Hello Like Before”などでの、カーネギー・ホールの音響を活かした8名のストリングス隊による美しい弦の音色も忘れられない。
レディシや即席デュオを組んだグレゴリー・ポーターとヴァレリー・シンプソンらが登場したオープニング・パートから快演が続いたが、ジョナサン・バトラーが歌う“Lovely Day”でスタートしたのには、全世代から支持を集めるビル屈指の人気曲だけに最高の掴みで心が躍った。スキップ・スカボロウとの共作でモダンな感覚を打ち出した“Lovely Day”はカヴァーやサンプリングも多く、何年経ってもフレッシュに響く。ロバート・グラスパー・エクスペリメントのカヴァー(2013年)も記憶に新しい。とりわけジル・スコットのカヴァー(2005年制作)は、ジャジー・ジェフ&フレッシュ・プリンス時代の98年にラップ版リメイクを出していたDJジャジー・ジェフのプロデュースで、ビルのトリビュート・アルバムが企画された際、妻マルシアと娘コリーがジルに歌って欲しいとお願いして実現したファミリー公認のカヴァーだけに贔屓にしたい。
コンサートは、2014年末に『Black Messiah』で復活したディアンジェロの出演にも注目が集まっていた。『Live At Carnegie Hall』を再現する本編の1曲目で彼は“Use Me”を歌うはずだったのだ。ディアンジェロはかつてTV番組で、デイヴィッド・サンボーンやマーカス・ミラー、エリック・クラプトンらを従えてこの曲を歌って話題となったが、それを踏まえた人選でもあったのだろう。
ところが急遽出演をキャンセル。代役を務めたのは、後から“For My Friend”を歌うことになっていたドクター・ジョン。ニューオーリンズ流セカンドライン・ファンクに変換された“Use Me”は、ドクター亡き今となっては彼の歌とピアノで観られたことを喜びたい。
本編では、オープニング・パートにも登場したグレゴリー・ポーター、ジョナサン・バトラー、マイケル・マクドナルドのほか、エド・シーラン、エイモス・リー、アンソニー・ハミルトン、ケヴ・モ、アロー・ブラックらもビルの名曲を各々のスタイルでカヴァー。招集されたシンガーのほとんどが、フィールドは違えど、ビルのような朴訥とした歌声でオーガニックな曲を歌うシンガー/ソングライターであったことも、伝説のライヴの再現をよりリアルにした。アンソニー・ハミルトンが歌った“Better Off Dead”と“Harlem/Cold Balcony”は、ブッカー・T.ジョーンズがプロデュースした『Just As I Am』(71年)の収録曲+αだが、思えばブッカー・T.が2013年に出したリーダー作『Sound The Alarm』にはコリー・ウィザースらとともにアンソニー・ハミルトンが参加。ブッカー・T.もアンソニーにビルの姿を重ね合わせていたのかもしれない。
ライヴ盤で初披露となった“I Can’t Write Left Handed”を、ブルース・フィーリングを込めて弾き語るケヴ・モにもビルの魂が乗り移っていた。ヴェトナム戦争で右腕を失った帰還兵が、左手では字が書けない自分の代わりに、弟の徴兵猶予を求める手紙を書いてくれと願う歌。ジョン・レジェンド&ザ・ルーツが『Wake Up!』(2010年)でカヴァーしていたことも思い起こさせる。また、アロー・ブラックによる“Hope She'll Be Happier”は、モハメド・アリvs.ジョージ・フォアマンの対戦前に行なわれた音楽祭〈ザイール'74〉におけるビルのパフォーマンス(映画『ソウル・パワー』に収録)も想起させ、オペラ歌手よろしく天井知らずのヴォーカルで歌い上げたアローにはスタンディング・オヴェーションが数分にわたって続いた。
アローはアンコールでも、ブランフォード・マルサリスが故グローヴァー・ワシントンJr.のサックス・パートを担当した“Just the Two of Us”を歌い、こちらも拍手が鳴り止まず。あの夜のMVPは間違いなく彼だった。オールキャストによる“I Wish You Well”で大団円を迎えたコンサートは最後まで多幸感に包まれ、新旧のアーティストが感謝と祝福の気持ちを込めてビルの名曲を本人の前で歌った生前葬のようだったと今にして思う。
新型コロナ・ウィルスで外出制限されている人々に向けてザ・ルーツのクエストラヴが連日DJプレイの動画を配信している。ビルの訃報を受けた日は亡きソウル・グレイツへのトリビュート・セットとなり、911の時にも救いの歌となった“Lean On Me”からスタート。時代を問わず心に響くのは、ビルの歌に企みや嘘がないから。音楽に誠実であろうとする後進のアーティストたちがビルを慕うのもそこだろう。「ビルは100%で歌っていた」というホセ・ジェイムズの言葉が改めて心に沁みる。
文:林剛(音楽ジャーナリスト)/2020年4月9日
▾ビル・ウィザースが残した多くの名曲をプレイリストでお聴きください。