photo by Adrian Boot

ブリティッシュ・パンクの先駆けとして1976年に結成したザ・クラッシュはその後、時代を代表するカリスマ・バンドへと進化を遂げ、70年代末期から80年代初期という激動の時代において、知的な抗議行動、粋な反骨精神の象徴となる。それと同じくらい重要なことは、彼らが飽くなき音楽の開拓者となり、社会派レゲエからダブ、ファンク、ジャズ、そしてヒップホップを自分たちの音楽に次々と取り入れていったことであり、それが故に彼らは現代のDJやダンス・ミュージック・アーティスト達から最も敬愛されサンプリングされるバンドになったのである。

 

解散する3年前の1982年には全米トップ10入りを果たした彼らは、我々に途方も無い音楽を残していってくれた。4作の1枚組アルバム、『白い暴動』(1977)、『動乱(獣を野に放て)』(1978)、『コンバット・ロック』(1982)、『カット・ザ・クラップ』(1985)、ローリング・ストーン誌が80年代のベスト・アルバムに選んだ伝説の2枚組アルバム『ロンドン・コーリング』(1979)、そして問題作とされる実験的で音楽的に多彩な3枚組『サンディニスタ!』(1980)である。

 

ザ・クラッシュは1976年6月に西ロンドンのアート・スクールを中退したポール・シムノン(ベース)とミック・ジョーンズ(ギター)がThe 101’ersというグループで歌っていたジョー・ストラマーに参加を要請して誕生した。既成概念に捕われない自由な発想を持ったマネージャーのバーナード・ローズに導かれ、バンドはセックス・ピストルズと共にイギリスのパンク・ムーヴメントを起こした。ザ・クラッシュのマニフェストは初期の頃に行ったNMEのインタビューに要約される。『俺たちは反独裁であり、反暴力であり、反人種種差別であり、創造性に賛同する』。

 

ローズはバンドに今社会が直面している問題と向き合い、自分達が個人的に影響を受けたことを曲にするよう促した。ザ・クラッシュはその難題に立ち向かい、高層ビル、ドラッグ、倦怠、人種差別、おざなりなスリル、警察との揉め事などを引き合いに出し、70年代半ばのロンドン都心の荒んで殺伐とした日常を見事にカミソリのような鋭い描写で綴った。ファースト・シングル「白い暴動」 は1976年8月にポールがかつて通った学校の近くの街中で起きた黒人移民が警察と闘ったノッティング・ヒルの暴動にストラマーとシムノンが参加した後に書かれた。

 

1977年1月にバンドはCBSと契約を交わし、ドラマーのテリー・チャイムスと共に「白い暴動」、「反アメリカ」、「ロンドンは燃えている」といった名曲を収録した比類なきデビュー・アルバムの『白い暴動』をレコーディングした。重要なのは、このアルバムに1976年にアンダーグラウンド・レゲエ・ヒットとなったジュニア・マーヴィンの「ポリスとコソ泥」の見事なカヴァーが収録されたことだった。この動きは瞬時にバンドのジャマイカ音楽への造詣(特にシムノンはブリクストンやラドブローク・グローヴといった黒人居住区で過ごした幼少期から自他ともに認める大のレゲエ好きだった)、及び当時警察からの「組織人種差別」の的になっていたと後に認められたロンドンの西インド諸島からの移民との連帯を示唆した。

 

ライヴにおいてもザ・クラッシュは結成当初から激情に満ちていた。ステージ上での彼らの情熱、流儀、迫力はおそらく先にも後にも例をみない。バンドの研ぎすまされたイメージは彼らの魅力に不可欠の要素だった。初期の頃は“Heavy Manners(非常事態宣言)”や“Sten Guns In Khightsbridge(ナイツブリッジに短機関銃を)”や“Passion Is A Fashion(情熱はファッションだ)”といった言葉がくっきりと書かれた彼らのミリタリーカットの衣装がスローガンや思想、歌詞を広める広告塔となった。また、ポールとジョーのギターにも「ノイズ」「ポジティヴ」「圧力」といったバズワードが書かれていた。

 

デビュー・アルバム発表後、ソウルやジャズ・バンドで腕を鳴らしてきたドーヴァー出身の天才ドラマー、トッパー・ヒードンの加入により最強ライナップが完成した。彼の優れたテクニックのお陰でザ・クラッシュは直ぐにガレージ・パンク・バンドから、様々な音楽性に挑戦し続けるバンドへと変貌を遂げた。その最初の実例がレゲエのオールナイト・イベントに行った時の様子をジョーが綴った心揺さぶるロック・レゲエ・トラック「ハマースミス宮殿の白人」である。1978年、バンドはセカンド・アルバム『動乱(獣を野に放て)』のレコーディングにアメリカのAORグループのブルー・オイスター・カルトのプロデューサーのサンディ・パールマンを起用したことで議論を呼んだ。レコーディングはラドブローク・グローヴ、サンフランシスコ、そしてニューヨークで行われ、結果 「トミー・ガン」、「イングリッシュ・シヴィル・ウォー(英国内乱)」や「セイフ・ユーロピアン・ホーム」といった重厚且つ洗練されたロック・チューンを生み出した。その一方で、ザ・クラッシュは揉め事を起こすことに関しても相変わらず天賦の才能を発揮していた。カムデン・タウンのリハーサル・スペースの屋上でレース鳩を拳銃で撃って逮捕され、その後もグラスゴーでクラブの用心棒と喧嘩して牢屋で一晩過ごす事となった。

 

1979年、バンドは全米ツアーを2度行い、この時9月にニューヨークのパラディアムで行われたライヴでシムノンがベースを怒りでステージに叩き付けたのが後に彼らの次作アルバムのジャケットに使用されるペニー・スミスの写真となり、ロック史上最も有名なイメージの一つとなる。この年の終わりに傑作アルバム『ロンドン・コーリング』を発表。アナログ2枚組のこの作品で彼らはロックンロール、ソウル、ジャズ、スカ、レゲエ、そしてファンクを探求し、全てに切れのいいギターと心に訴える歌詞というクラッシュならではの捻りを加えている。またこのアルバムにはシムノンの初となる書き下ろし曲(そして後に何度もサンプリングのネタとして使われることになる)「ブリクストンの銃」も収録されている。ローリング・ストーン誌が後にこの名作2枚組LPを80年代のベスト・アルバムに選んだのは有名で(アメリカでは1980年1月にリリースされた)、同誌の史上ベスト・アルバム・ラインキングでも8位の座を守っている。

 

しかし、トラブルは絶えることなく、1980年の夏ストラマーはハンブルグでザ・クラッシュのパンク以降の音楽的進化に不満を持つスキンヘッド達がライヴを妨害しにきた際に観客の頭をギターで殴り逮捕される。だが当然、そんなことで怯むザ・クラッシュではない。1980年、ザ・クラッシュは新しい音楽性への飽くなき探求を続け(ダブ、ジャズ、ロカビリーもここで加わる)、ジャマイカ、ニューヨーク及びロンドンで3枚組アルバムに十分な素材を蓄え、『サンディニスタ!』を完成させる。アルバムは1980年のクリスマスに発表され、初の英国アーティストによるラップ・ソングとなった「7人の偉人」等が収録された。

 

皮肉なことに、ザ・クラッシュが音楽的に大胆になればなるほど、その人気は増し、1981年5月から6月にかけてニューヨークのタイムズ・スクウェアのボンズ・カジノで行われた新聞でも大きく取り上げられた17連続公演を含む献身的なツアーの甲斐あって彼らはアメリカをも制覇していった。この頃には、シュガーヒル・ギャングやグランドマスター・フラッシュといったヒップホップ・アーティストを前座に抜擢するようになり、彼らを初めて白人ロック・ファンの目に触れさせ、ロックとラップの相互交流を促した。

 

その年バンドは5作目となる『コンバット・ロック』に向けてニューヨークでヒップホップ/グラフィティ・アート/ベトナム戦争の傷跡を存分に吸収し、西8番街にあるエレクトリック・レディ・スタジオでレコーディングを行った。されど、ザ・クラッシュの不安定なライナップに軋みも出始めてきていた。ドラマーのトッパー・ヒードンがヘロイン中毒となり、その年の5月にバンドをクビになる。その数ヶ月後、マルチ・プレイヤーのトッパーが音楽的な部分をほとんど書き下ろした「ロック・ザ・カスバ」が全米チャートのトップ10入りを果たした。同年バンドは「ステイ・オア・ゴー」で世界的大ヒットを連発したものの、国際的なチャートの成功は彼らの理想主義とパンクの出自に合わず、1983年4月にカリフォルニアのUsフェスティバルで15万人の観客を前に大トリを務めたのを最後にミック・ジョーンズがバンドを去った。奇しくも、その年のノッティング・ヒル・カーニバルの開催前夜のことだった。ポールとジョーは有終の美を飾るために新しいライナップで活動を再開し、感動的な「ジス・イズ・イングランド」を収録した不運な『カット・ザ・クラップ』をレコーディングしたが、アルバムが1985年に発売された時には既にバンドはバラバラになっていた。

 

その後、ジョーンズはビッグ・オーディオ・ダイナマイトを結成、ストラマーは俳優業を試みつつラティーノ・ロカビリー・ウォーを結成し、90年代末にはザ・メスカレロスを結成する。ストラマーとジョーンズはビッグ・オーディオ・ダイナマイトの2作目『No.10, アッピング・ストリート』で共演を果たしている。ポールはロカビリー・バイカー・バンド、ハバナ3amで1枚アルバムをレコーディングした後、油絵の道で評価を得、2006年にデーモン・アルバーンのザ・グッド・ザ・バッド&ザ・クイーンのメンバーとして再び音楽活動を再開し、ミックと共にゴリラズの『プラスティック・ビーチ』にも参加した。一方トッパーはこの10年間ドーヴァーに戻り、静かに健康的な暮らしをしている。

 

悲しいことにジョーは2002年に先天性心臓疾患により突然他界してしまったが、ザ・クラッシュが我々に残していった音楽的、そして文化的遺産は計り知れない。彼らの頑なまでの反骨精神と驚異的な音楽は世界中の何百万もの人々の人生を変えてきた。今日、1976年のノッティング・ヒルの暴動は遥か昔のことのように感じられるかもしれないが、ザ・クラッシュの生き様、そして音楽は永遠に我々を感化し続けるだろう。 

海外バイオより