世は、バブル。流行りは、ロック、なバンド全盛期。「5万のデニムとか1万のTシャツがバンバン売れてた時期」のアメリカ村で、PUSHIMは初めてレゲエと出会う。
 「当時のアメ村は、今よりももっと"悪いヤツしか立ち入らない"みたいな大人な場所で。パンクな兄ちゃんたちがいて、ライブハウスやクラブもあって。ほら、"オマセ"やったから、中学生の頃からそこに服を買いに行っていたんです。そしたらよく行く服屋の店長に、高校生になったらバイトしにこいよって言われて。さらっと。でも私は真剣に受け取った(笑)」
 流行りの歌を聴きながらも「もっと黒いもの」を求めていた、15歳。PUSHIMは「高校に入った瞬間から」服屋の販売員としてアルバイトを始め、海外の音楽がいたるところで流れている"アメ村の空気"をどんどん吸収していった。
 ボブ•マーレーを知り、のめり込むように聴き始め、レゲエにハマった。そしてある時、近くの店でかかっていた曲に「なんやこのおもろい歌詞は!」と衝撃を受け、その場で店員に曲名を聞いた。
 「それが、ランキンさん(※1)で、ジャパレゲとの出会いやった」。
 歌が好きで、歌うことには根拠のない自信があった。ただ、家での自主練を続けながらも「どうやったら、どこにいったら、人前で歌うことができるのか分からんかった」。「その術がなかった」ところから、18歳。セレクターをしていた同級生の男の子に"歌わへんか"と声をかけられ、二つ返事で飛びついた。
 「でも、なにをどう歌えばいいのかも最初は分からなくて。リディム(※2)の入ったカセットテープをもらって、その音源を聴いてみて初めて、あぁこれにメロディをつけて歌えばええんやな? って感じで」という言葉通り、一から手探りで自分のスタイルをつくっていった。PUSHIMの歌唱力はすぐに評判になったが、それを決定づけたのは『素人セレクター大会』。
 「本来はDJを対象に行われていた大会だったんです。誰が一番お客さんを盛り上げることができるか、を競うもので。そこに、私はなにを思ったのか歌で出場(笑)。しかも、優勝してしもうた」
 ——と言って笑うとすぐに、
「でも、そんな大きなオーディションみたいなもんやなくて、歌でも出れちゃうくらい、ユル〜いイベントやったんですけどね」
 と付け加えて、また、ふわっと笑う。
 当時のことを語るPUSHIMは、とても若くて少し苦い、でも、ものすごく眩しいものを見つめる時の、目をしてる。
 「とにかく夢中やった。歌うことにまつわるすべてが、楽しくってしかたがなかった」。子供の頃から続けてきた"絵を描く"という行為とは、同じ表現とはいえ"ひとりじゃない"ことが何よりも大きく違っていた。「歌ったらすぐにお客さんから反応がある、ライブ&ダイレクトな感覚や、そばにいつも仲間がいることが、たまらんかったんやと思います」。
 少女時代からの、寂しい気持ち。それを受け止めてくれる場所をやっと見つけた子供のような、純粋さで、PUSHIMは現場を心から愛した。大阪のアンダーグラウンドなレゲエシーンに、どっぷりと魅了され浸っていった。22歳の時にメジャーデビューのはなしがきても、迷うことなく断った。
 「えっ!?」と驚いた私が思わず、「もしや、メジャーなんてバビロン(※3)、セルアウト(※4)はダサい、みたいなアングラ価値観からですか?」と聞くと、「それもある(笑)」と懐かしそうにフッと笑う。
 「でもそれ以前に、大阪やから。東京に行くなんて魂を売る行為や、みたいなところがあって。それに、まだまだ自分は学ぶべきものがたくさんあると思ったし、なによりも、ここで歌うことが楽しかった」。

『今ここに立って
 なにを思うんだろう
 大人になって何を失ったろう
 まだ子供だなんて甘えて来た my road』

 24歳。SONYレコードからのデビューを決めたのは、「もう大人やし、就職するような気持ち」からだったという。普通なら舞い上がってもおかしくない状況なのに、彼女はとても冷静だった。世の中ではHIP HOPが流行りはじめた頃で、DIVAブームに乗っかるようなかたちでのデビューとなった。
 最初の一年は大阪に住みながら、仕事が入る時だけ東京に通った。大阪の音楽シーンに後ろ髪をひかれるような気持ちもあったが、地元で組んでいたクルー(※5)が事実上解散したことを機に、吹っ切れた。アングラとメジャーのあいだで「モヤモヤとしていて辛かった気持ちが、ここでグッと私の背中を東京へと押した感がすごくある」。
 25歳。拠点を東京に移し、本格的に活動し始めてからのPUSHIMの活躍は、周知の通り。次々とリリースが決まり、お客さんも増えてきたところで、ジャパニーズレゲエというジャンル自体が、ひとつの巨大なトレンドのように爆発的な盛り上がりをみせる。

 PUSHIMは、時代の追い風を受けたジャパレゲシーンの、女王となった。

 でも、そんな彼女の中にあったのは、「現場に(この盛り上がりを)還元せなあかん」という強い使命感と、フェスなどでの「息ができひんくらいの」プレッシャー。
 誰が一番お客さんを盛り上げるか、が大きな評価基準になるカルチャーだということもあり、自分の前に出ているアーティストが会場を沸かしているのを舞台袖からみるたびに、言葉に出来ぬほどのプレッシャーに襲われた。
 その、想像を絶するほどの「緊張」の裏には、デビュー当時から今まで、ずっと、胸の奥底に抱えてきた悩みがある。
 それは、信じられないほどに意外な、告白だった。

「歌、下手なったなぁ、て。大阪時代と比べて。ずっと思っています。今も、その思いから完全には抜けてへん。ただ、こうやって人に言えるようになったってことは、少しずつ抜けてきてる証拠かもしれん。ずっと、こんなことは誰にも言えへんかった」。

 ずっと、情緒が不安定だったという、20代。CDを出して、ライブをして、表向きにはキラキラと輝いているように見えていても、実際には、よりかかる場所が何処にもなかった。やっと見つけたと思っていた居場所を、失ったような感覚を引きずっていた。
 「19歳で大失恋して以来、彼氏もいなかったし、恋をしても、実らへんことが多かった」。
 どんなに仕事で成功していても、誰にも触れられていない自分は女として、存在する意味があるのかも分からなくなった。遊んでみようと思っても結局は、女である自分の方が相手よりずっと、空しい気持ちになって終わるだけだった。だからそれも、すぐにやめた。
 「恋愛は、上手くないです。たくさん恋をしているイメージがあるかもしれないけど、数は多くない。でもその分、重い。気持ちも大きくて、それで(関係が)壊れてしまうことも多かった」。

『I talk about love
お金じゃまず買えない数じゃないかけがえのない愛』

「私は、尊敬できる男の人が好きで。でも相手からしたら、私が強すぎる、というか。女の人より上に立っていたいっていう男の人の気持ちを、つぶしてしまうところがある、と言ったらこれは、自慢やろか?」
 苦笑いする彼女に、私は黙って首を横に振る。これは、"強くありたいと願う、でもその分脆いところもある、けど実際には本当にけっこう強い(苦笑)"私たちタイプの女が陥る、恋愛ジレンマ。
 「前に現場で、スタラグ(※6)でグワァ〜〜歌う女とかつき合いたくないわぁ〜ってアーティストの男友達が言ってて。そりゃそうだよな〜ってほんとに思って一緒に笑って。私、よく、歌うんですけどね(笑)」
 そんな風にして、普段は明るくて面白い"イメージ通り"のPUSHIMでいられても、ふいにガクンと落ち込むことも多かった。浮き沈みする感情の波に、誰よりも自分が一番振り回された。それを上手くコントロールできなくて、たくさん喧嘩もしたし、怒られた。

『愛を知って余計かなしくて
 孤独を嫌って いつわってみたりして
 わかるでしょう? 』

 27歳の時、ニキビが顔中にできた。肌荒れというものに初めてとことん悩まされ、皮膚科に通った。帽子をかぶりマスクをして、顔を出すことができなくなった。女としての自信が、ますますなくなっていった。
 PUSHIMのイメージと、ほんとうの自分との距離が、どんどん離れていくように感じていた。
かっこつけている自分と、素の自分。どちらも自分で、混乱した。でも、プロとしてやっていく中で「今思うと無駄なプライドや意地」も生まれていて、「そのくせ誰かと比べて凹んだり」。負のループにはまっていた。スランプだった。

『時を越え人は何を求めるんだろう
 壊し合う中、虚しさ覚えたろう
 大切なものを 忘れかけたoh my soul
 気づけばここで思うのさ I need love』

 30歳になった頃、恋をした。レコーディングで訪れた、ジャマイカで。
 「いくらなんでも遠過ぎるし、ジャマイカと日本の遠距離(恋愛)なんてムリやってずっと思ってたんです。でも、好意を持ってくれてるし、つき合ってみようかな」とぼんやり思ったところから、5年という時間をかけて大恋愛へと発展していった恋だった。
 「ちょっとでもスケジュールが空くと、すぐ(ジャマイカに)飛んで行ってました。3ヶ月行って、また2週間行って、次は彼が(日本に)着てくれて、みたいな感じで。
 どんな恋愛でも、互いにドキドキする期間って永遠には続かないと思うんやけど、普段会えない分、そういう時期が長く続いて。会えない時間は寂しいから、そういう意味では歌を書くのにもってこいやったし。あ、私そういう"ゲンキン"なとこあって(笑)。
 遠距離のいいところは、向こうも今、頑張ってるんやしって、本当にそうかは分からなくても勝手にそう設定して、自分も頑張れるところというか(笑)。とにかく、離れているあいだはとことん仕事に打ち込めて。スランプから少しずつ抜け出していったのも、この時期で。
 彼と付き合いはじめたことで、グラグラしていた情緒がやっと落ち着いてきたんです。彼と出会ったことで、人と向き合う、ということをまた覚えたんやと思います」
 もしかして——、と思ったのとほぼ同時に、彼女は私の目を見て、それから少し反らして、そっと言った。「そう。それが、子供の父親です」。

『新しい希望を
 あの日々の絶望も
 I pray I pray
 小さな心で
 また一歩を踏み出して
 歩いていく

 生まれだす力を
 訪れる試練を
 I pray I pray
 小さな心で
 また一歩を踏み出して
 歩いていく 』

<Ch.3 最終章につづく>

※1
ジャパレゲ界のFATHER、ランキン・タクシー。ちなみにPUSHIMが最初に耳にした彼の曲は「ロック・ザ・スクール」。"学校"の問題点に言及し、レゲエならではのコンシャス(社会的)なネタを面白おかしくDeeJayしている。
※2
レゲエではリズム・トラック(オケ)のことをリディムと呼ぶ。それぞれのリディムに名称があり、ひとつのリディムに複数のアーティストが歌詞をのせてリリースしている。
※3
権力をもつ側や搾取する側のことを指す、レゲエ用語のひとつ。バビロンの反対語はザイオン。どちらもボブ・マーリーの曲を聴いていると頻繁に登場する言葉だ。
※4
物事の本質を捨て去り、売れることだけを目的とした商業的成果を求める行為。
※5
TOKIWA DEM CREWのことで、90年代後半にRYO the SKYWALKER、NG HEAD、MIGHTY JAM ROCKらと共に組んでいた伝説のクルー。
※6
80年代に登場して大ヒットしたリディムで、テナー・ソウ「リング・ザ・アラーム」やシスター・ナンシー「バン・バン」など名曲多数。スタラグとはドイツの捕虜収容所を意味する、ハードコアなマイナー調のリディムだ。



「I pray」
 90年代後半、PUSHIMが大阪でTOKIWA DEM CREWの一員として活動していた頃、ジャパレゲのシーンはまだまだ黎明期だった。とは言え、アンダーグラウンドでスキルを磨き、後のシーンを牽引する実力者たちが着実に火種を起こしていたのも事実だ。PUSHIMのメジャーデビューに続き、2000年代に突入するとRYO the SKYWALKERやFIRE BALLもメジャーフィールドへ進出。「横浜レゲエ祭」や「HIGHEST MOUNTAIN」といったレゲエだけの野外フェスが成功を収め、メディアがレゲエを積極的に紹介する時代が訪れる。PUSHIMが「I pray」をリリースした2006年も、シーンはバブル期の真っ只中。それでも彼女は決してブレることなく、自分と冷静に向き合うことで名曲を残してきた。名曲とは普遍的であること――。
2011年3月11日。日本が未曾有の震災に見舞われたとき、ラジオから流れた「I pray」が多くの人を勇気づけた。新たなストーリーが加わった名曲を、PUSHIMは今も大切に歌い続けている。(文/馬渕信彦)

LiLy
作家/コラムニスト
81年神奈川県生まれ。蠍座。音楽専門誌やファッション誌でのライターを経て、恋愛エッセイ「おとこのつうしんぼ」でデビュー。最新刊は女の自意識をテーマにした小説「ブラックムスク」(小学館)
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