エッセイ一般公開 第1弾「宇宙の水槽」
肌に当たる風がひんやりとした午後、病院帰りに古着屋で、珍しい銀色のセーターを買うなどした。決してセーターが欲しかったわけではなく、もうすぐやってくる次の冬を楽しく越す理由を作るために、買ったまでだ。都会は、安くてデザイン性の凝った服が安く売っている。
高校卒業、そして大学入学と同時に、一人東京に出てきて、丁度十年が経つ。楽器とわずかな衣類だけを持って、身一つで、家出同然、上京した。高校生までの生活も、色んなことがあったが、大学生になってからは、それ以上に、心臓の脈拍が乱されるような不幸があったし、幸福もあった。
苦学生ならではの貧乏の中で、自分の心の中にたまった希死念慮を、花火にして打ち上げるかのように音楽を作る生活。誰かに愛されたり、愛したり。かと思えば、中傷に胸を痛めたり、治癒の気配のない病気や入院と戦ったりした。
死生観について語り合って、長生きしたいと言っていた友達が死んだ。お酒を飲んだ後、一緒に見た朝の新宿の空を、今も覚えている。彼は嬉しそうに、空の写真を撮っていた。私のMV撮影の様子をふらっと見に来てくれた時、似顔絵を描いてくれて、コンプレックスだった猫背を褒めてくれた。その変なセンスが嫌いじゃなかった。
でも、今も生きているし、一度は心を許し合ったはずなのに、もう二度と会えなくなってしまった人が、何人もいる。
風が吹く。川が流れる。水流によって岩が削れる。そんな自然の淘汰と同様に、過去は段々とザラつきを失い、形を変えるものだ。人間と人間が関わると必ずと言っていいほど出来る心の傷は、白血球のような忘却の力によって、映像から印象になる。そしていつかは寿命に捕食される。
時々思う。私の傷は正しいのだろうか。自己完結するこの慈愛は薄っぺらいものだろうか。
悲しみとは、自分のことを哀れに思うことと、等しいような気がする。そして、感情というものは、世界を見るときに通すフィルターであり、事象は、それに対峙する者が居なければ、ないものと同然である。どこかで枯葉が落ちても、花が咲いていても、それはただの出来事に過ぎないのに、人間は勝手に季節の移ろいを知らされて、宇宙の水槽を泳いでいるような気分に浸る。
私の涙だって、誰かに見られなければ、乾く必要がない。
本当は世界なんてバラバラなのに、文明中毒者は、曖昧なそれを、くっ付けようとしたり、分類しようとしたり、名前を付けたりする。そうして、俯瞰できた思う勘違いの成れの果て、感じなくてもいい鬱屈に悩まさながら、この世に蔓延る不可思議を慈しむ悪趣味に夢中だ。
怖い。豚は豚。交尾をして生まれるのは豚。子豚に命の神秘を感じて写真に収めるカメラマン。それを眺める動物園に来た恋人たち。祝杯をあげる時には殺して食べて、胃袋の中で豚が踊る。それも次第に薄れてゆく。時間が巻き戻ったかのように。
全て仕方のないこと。
月が急に惑星になる日はこの先も来ないし、生きることも死ぬことも意味のないこと。だから笑って、身体の力を抜いて、自分勝手に生きていくのだ。気持ちの揺らぎや、伝えたい思いは、携帯電話の絵文字に閉じ込めればいい。それは送っても送らなくても、確かに存在しているけれど、日が経てば、鮮度が落ちて不味くなる。秘密は多ければ多いほど、未来に着せるコーディネートが楽しくなる。好きな香水を買って、どうでもいい会話に風情を足せばいい。
身体は一つかもしれないけれど、心は一つじゃない。誰だって心は百個くらいある。百人分くらいの心で体験する人生を一つの身体で生きている。一つの心じゃ抱えきれないほどの、たくさんの痛みや失いたくないものがあるから。その中で自らの罪に気付いたり、他人の流す涙をみたくなったり。そして毎日必ず眠りにつく。
朝起きた姿は、髪がぼさぼさで、顔も皮脂が乗っていて、大抵醜い。どんなに美しい夢を見た日も、悲劇的な夢を見た日も、肉体は一つしかなく、段々衰えていく。そしてその肉体と思考は、雀卓の中や、小説の中や、フライパンの中や、様々な場所に移動する。そして最期には何処にも行けなくなってしまう。
私は何処に行きたいのだろうか。音楽を作るためのパソコンの前で、鍵盤を叩きながら、呆然とする。行きたい場所があるとしたら、過去に幸せだった記憶の中かもしれない。願いは叶わず、時間は止まらず、前にしか進まない。人生、必ず終わりが来る。
人との出会いと別れの数は必ず等しい。この世界で本当に等しいのは、これしかないと思う。
いつ来るのか分からないが、命の電源が切れる時、ちゃんと化粧をして、お洒落をしていたい。立つ鳥跡を濁さずという諺が好きだ。
今日、二十八歳を迎えたことを記念して、衣替えをした。新しい服を来て、大切な人に会いにいく。この先いつなにが起きても思い出が生贄にならないことを願いながら。
誰かの記憶に残る存在になりたい、誰かの夢に出てくる存在になりたい。そんなことをぼんやり考えて、対人関係を紡いでいるけれど、誰かの記憶の断片を分けて欲しいとか、誰かの見ている夢を一緒に見てみたいとか、まだ思ったことがないため、とても独りよがりな願望であると自負する。中でも、他者との間に、テレパシーみたいな、電波みたいな、目には見えない力を、信じていられたら幸せだと思う。思い込みや偶然にしか過ぎないのだろうが。
所持できる記憶の数は無限ではない。最近、そんな言葉で片付けられないほど、健忘症になってしまった。一度寝てしまうと、昨晩あったことを忘れてしまうのだ。決してお酒を飲んだわけではなくても、記憶のない食事をした形跡が部屋に残っていたりする。仕事先に電話をして業務を遂行したと安心していたら、それは夢の中での出来事で、現実ではなかったり。
自分の音楽的器量と、肉体的器量が、反比例しているのを感じる。それはきっと、肉体的寿命よりも、音楽的寿命が長くなったことを表しているのかもしれない。私がくたばっても、きっとわたしが作った曲が、誰かの生活の中で鳴っていてくれたら本望である。
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2023.11.29(水)リリース
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