ジョリー・ホランド
ジョリー・ホランドは、アメリカ音楽という媒体の中で古いものを取り込み、新しいものを超越しようと試みるシンガーだ。いみじくもラルフ・スタンレーが彼女に話している「ブルーグラスなどという音楽は知らんね……。わしは自分をソウルシンガーだと思っとる」。その通り。それがブルースであり、祖父母の時代、まだ舗装されていないハイウェイで口ずさんでいた歌なんだ。そんな古臭い歌なのに、バーにたむろするパンクロックの兄ちゃんでさえ、つい涙ぐんでしまう。淑女たちがメロディに身を任せ、ストリートでイキがる連中が目を輝かせて歓声を上げる。ヒップホップのソングライターも思いがけず胸にきゅんとくる。お袋も足で拍子を取る。古めかしくて新しい、ちょっと怖いアメリカのおとぎ話。

独特のヴォーカルとニュアンスに満ちたフレージング(時にビリー・ホリディを思わせる)を持つジョリー・ホランドは、素朴なアメリカ音楽にジャズの雰囲気といかがわしい歌詞を加え、一味違う音楽に仕上げる。『Catalpa』は、元々自分のバンドのデモとして書いた曲を収録したアルバム。彼女の飾らない素顔と本音が表れている。荒削りな作品で極めて少数しかリリースされていないにもかかわらず(コンサート会場、オンライン、3つのレコード店でのみ販売)、そのあまりの強烈さに、仲間のアーティストも批評家もすでに心を奪われてしまっている。元ローリングストーン誌シニアライター兼編集者マイケル・ゴールドバーグは言う。「このとらえどころのないジョリー・ホランドのアルバムは、ひょっとして今年の最優秀アルバムかもしれない」。トム・ウェイツは『Catalpa』をショートリスト・アウォードにノミネートした。

ニューオリンズのクレオールをルーツとするジョリーは、テキサス州で生まれ育つ。6歳の頃にはおもちゃのピアノで曲を作り始めた。当初から、あたかもかつてどこかで手がけていたことを、今の人生でやり続けたいと願っているかのようだった。10代の初め、フィドルとギターも弾くようになる。やがて、学校にいてもアーティストとして成長することはできないと悟る。家を出たジョリーは芸人の一団に加わり、テントはないがサーカス一座のようにあちこち旅して回るようになった。オースティンからニューオリンズあたりを回り、南部の音楽にどっぷり浸る。その後ウェストコーストへ向かい、バンクーバーまで北上。ビー・グッド・タニヤズというフォーク・グループを仲間と結成。ファーストアルバム『Blue Horse』を作った後、自分のプロジェクトを立ち上げるためにサンフランシスコへ移った。
『Catalpa』は一般向けに販売する気がまったくなかったので、まず身近な友人にあげ、それからやっとライヴでも販売することにする。ところが、この大胆なアルバムの真価が認められ、たちまち世界の注目を集めるようになったのだ。サロン・ドット・コムは次のように評している。「彼女は、ビリー・ホリディがブルースを歌ったように、フォーク、フィドル、カントリーを歌う。その忘れがたいヴォーカルが一音一音を包み込み、思いもしなかったような音楽にしてくれる」

サンフランシスコにいてもロードでも、ジョリーはコンスタントにライヴを行っている。独立ラジオ局のKALXとWFMUのサポートを受け、口コミが広がり続けている。BBCラジオ3とスピナー・ドット・コムにも登場した『Catalpa』は、さらに多くの人の耳に届き始めた。
『Catalpa』がジョリーのウェブサイトとCDベイビー・ドット・コムで販売されると、米国各州はもちろん、カナダ、西側ヨーロッパ、北欧、日本からさえ注文が来た。

11月11日、エピタフ傘下のANTIレーベルが『Catalpa』をリイシュー。ジョリーは現在、自分のコアバンドとスタジオ入りしている。メンバーはベテランのジャズドラマー、デイヴ・ミヘイリー、禅ギタリストのブライアン・ミラー[注:1]、それにジョリーがギターとフィドル、ヴォーカル。レコーディングしているのは2004年中頃リリースの、「正規」デビューアルバムだ。

[注:1] Zen Guitarという言い方は、「全身全霊をささげたギター」というような意味合いで使われている