ジギー・マーリー
本名デヴィッド・マーレー。1968年ジャマイカにてボブ・マーリーと妻であるリタとの間に長男としてうまれる。幼いころから父、ボブ・マーリーにギターやドラムなどの楽器を習い、10歳のころにはボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズのライブやセッションに参加するようになった。ジギーという名前は彼がデヴィッド・ボウイを敬愛していたことから付いたニックネーム。ジギーは妹のセデリア、弟のステファン、異母姉妹であるシャロンとともに父親と「Children Playing In The Street」をレコーディング、そのメンバーがメロディメイカーズとなった。彼らはボブのイベントなどでパフォーマンスするようになり、ボブの葬儀でもパフォーマンスした。

ジギーが17歳になろうかというとき、ジギー・マーリー&ザ・メロディメイカーズとしてEMIと契約、『Play The Game Right』でデビューを果たす。続いて1986年には『Hey World』をリリースするが、ジギーは自分が声、ルックスともにあまりにも父親に似すぎていることからレゲエを脱却しポップ・ミュージックへと方向性を変えるが商業的に成功しなかった。EMIがジギーをソロへと転向させようとしていたこともあり、彼らはVirginに移籍。そこでトーキング・へッズのクリス・フランツらをプロデューサーに迎えた名作『Conscious Party』を発表。シングル「Tomorrow People」が大ヒットし、この作品は大成功をおさめることとなる。さらにリリースした「One Bright Day」も大ヒットし、グラミー賞も獲得と順調に成長を続けていった。

その後『Jahmeyka』『Joy And Blues』などのアルバムを経て1995年にはElektraに移籍し『Free Like We Want 2 B』などをリリースするが1999年の『The Sprit Of Music』を最後に活動を休止2000年にはライブアルバムがリリースされた)。そんなジギーがはじめて挑むソロ・アルバムがこの『Dragonfly』だ。ソロ・アーティストとして活動することについて彼は「ゆっくり時間をかけていろいろと試すチャンスだったよ。アルバムを作るのに1年間かけたんだ。いままでで一番時間をかけたアルバムだね。自分ひとりでやるっていうのは今までとは全然違うんだ。ちょっと怖い面もあるけど、さらにフォーカスできるっていう面もあるね。」と語る。

環境を変える必要を感じたジギーは曲作りはジャマイカで行ったもののレコーディングはマイアミとロス・アンジェルスで行った。「アーティストとして色々と違ったことを経験して世界を見て違ったエネルギーをもらわないとね。人間としてもさらに成長できたと思うよ。」そう彼は言う。そんな彼の成長はアルバムにも強く反映されている。アップビートなリズムに乗せて人類が地球上の動物たちにしてきたことを歌ったタイトル・トラック「Dragonfly」や型にはまらずに自由になろうと歌ったファンキーな「I Get Out」、自分自身をもっとリスペクトしようという内容でレゲエとヒップホップの融合とも言える「True To Myself」など強いメッセージにあふれている。

さらにはノン・バイオレンスを訴える「Don’t You Kill Love」やラスタファリアン(ジャマイカン・ブラックの人々に広く浸透している思想・宗教)への信念を歌った「Never Deny You」などレゲエのルーツでもある政治的・思想的メッセージも強く反映されている。

ジャマイカのキングストンというレゲエの聖地に生まれ、ボブ・マーリーの息子というイメージだけに囚われないように挑んできたジギーがついにソロ・アーティストとして活動を開始する。