ウワディスワフ・シュピルマン
ウワディスワフ・シュピルマン:1911年ポーランド生まれ。ワルシャワのショパン音楽院でリストの弟子ヨゼフ・スミドヴィッチ、のちにミハウォフスキに師事。31年ベルリンに留学、ベルリン音楽大学でアルトゥール・シュナーベル、レオニード・クロイツァーに師事、フランツ・シュレーカーのもとで作曲も学んでいる。このとき、「ヴァイオリン協奏曲」、ピアノ組曲「機械の一生」をはじめピアノ曲、管弦楽、ポピュラー・ソングを作曲し、33年ポーランドに戻るとピアニスト、作曲家として名をなした。35年ポーランド国営ラジオ局での仕事につく。39年9月、放送局がドイツ空軍に攻撃されたとき、彼はショパンの夜想曲嬰ハ短調をライヴ演奏しているところだったという。その後6年間にわたって戦禍のなかを奇跡的に生き延び、戦争の末期に隠れ家でシュピルマンが演奏するショパンの夜想曲嬰ハ短調を聴いたドイツ軍将校ホーゼンフェルトにより命を救われる。46年には戦争中の体験を出版。ゲットーでの生活、犠牲者・加害者の姿を描いた記録は共産党当局により発禁措置を受けた。45年の放送局再開後再びラジオでの生演奏の仕事を始め、やがて同局の音楽監督になる。欧米でコンサート活動も行い、国際的ヴァイオリニストのブロニスラフ・ギンペルとのデュオで2500回をこえるコンサートを世界中で開いた。ギンペル以外にも、トーテンベルグ、イダ・ヘンデル、タデウシュ・ヴロニスキ、ヘンリク・シェリング等とも共演している。作曲活動にも積極的でシュピルマンが作った歌の多くはポーランドの人気スタンダード・ナンバーに。50年代には子供向けの歌も発表、55年にポーランド作曲家協会より賞を授与された。64年にはポーランド作曲アカデミー会員に選出される。98年に息子アンジェイが父の回想録の草稿を発見し、ドイツで出版されるとたちまち評判になり海外でも翻訳が出版された。日本では2000年に春秋社より刊行。2000年7月6日、シュピルマンは88歳で亡くなった。