ラス・バラード

ラスことラッセル・バラードは1945年10月31日にロンドンのすぐ北に位置するハートフォードシャーのチェスナットに生まれている。現在もイギリス・ポップス・シーンの国民的シンガー、クリフ・リチャード(ラスより5歳上)はセカンダリー・スクールの先輩に当たるという。



イギリスでは56年にスキッフルのブームが起き、多くの若者がギターなどを手にして演奏を始めているが、バラードもそうした少年のひとりだったようだ。そして、14歳の時にはリック・ニコル&ザ・レベルズというバンドに加わり、エレクトリック・サウンドのロックンロールを始めている(スキッフルは生ギターが中心)。



その後、学校の友人たちとバスター・メイクル&ザ・デイブレーカーズを結成し活動を始め、その時にEMIでデモテープを録音したこともあったようだ。このバンドにはのちに活動を共にするボブ・ヘンリット(ds)も在籍していた。しかし、バラードが16歳の頃(1961年?)にこのバンドは解散をし、バスター・メイクルは4人組のフォーク・グループ、ユニット4を結成している。



そして、62年に仲間のひとり、ボブ・ヘンリットが、当時イギリスの人気ロック・シンガーだったアダム・フェイスのバック・バンド、ルーレッツで活動を始めている。そして、ルーレッツからギタリストが脱退した時に、バラードが誘われ、ルーレッツのメンバーとなっている。彼は63~66年の間、アダム・フェイス&ザ・ルーレッツで活動を続け、ルーレッツ単独でもシングルを6枚リリースするなどブリティッシュ・ビート・ブームの中で活動を続けている。その間には、バスター・メイクルのユニット4のレコーディングにヘンリットと共に参加し、ユニット4+2として発表された「コンクリート・アンド・クレイ」(バラードのギターをフィーチャー)は65年に全英1位(米28位)の大ヒットにもなっている(その後、別のメンバーが“+2”としてツアーをした)。



アダム・フェイス&ザ・ルーレッツも“The First Time”(63年、英5位)、“We Are In Love”(63年、英11位)、“Someone's Taken Maria Away”(65年、英34位)などのヒットを放っているが、67年になるとフェイスは俳優の仕事を中心にするようになり、ルーレッツはTVショーで他のシンガーのバックをするようになっていった。フランスの人気シンガー、リシャール・アントニーとイギリスのTVで共演したのをきっかけに彼のヨーロッパ・ツアーのバックも務めるが、ツアー終了後にルーレッツは解散を迎えている。



バラードはセッション・ミュージシャン兼作曲家として仕事を始めるが、ユニット4+2のセッションに参加したことをきっかけに、ヘンリットと共にユニット4+2の準メンバーとなり、2枚のシングルも制作している(その前のセッション作も3枚程あるようだ)。そして、69年になると、元ゾンビーズのロッド・アージェントから新グループ結成に参加しないかという電話を受け取っている。



ゾンビーズは、同郷のハートフォードシャー出身のバンドの中では最も成功していたバンドだったが、67年に解散をしていた。しかし、解散前に録音していたアルバムの中からシングル「ふたりのシーズン」がアメリカで69年初頭にヒット(米3位)となり、ロッド・アージェント(kbd)らオリジナル・メンバー3人と、アージェントのいとこであるジム・ロッドフォード(b)ら2人で再結成を行なっていた。しかし、アージェントはゾンビーズとしてよりも、別のプログレッシヴなサウンドを指向するようになっており、ロッドフォードと新しいグループを結成する計画を立てていたのである。アージェントは地元出身で歌えて、ギターを弾け、作曲もできるバラードに目を付け、新グループに誘っている。こうして、ロッド・アージェント(kbd,vo)、ジム・ロッドフォード(b)、ラス・バラード(g,vo)とバラードの長年の仲間であるボブ・ヘンリット(ds)という4人で、アージェントを69年に結成している。



アージェントは、ロッド・アージェントとクリス・ホワイトの元ゾンビーズ組による楽曲とラス・バラードの楽曲を織り混ぜたレパートリーを、プログレッシヴなポップ/ジャズ・ロック的なアプローチで展開させた独自のサウンドで人気を集めることになった。そして、「ホールド・ユア・ヘッド・アップ」(72年、英米5位)、「トラジェディー」(72年、英34位)、「ゴッド・ゲイヴ・ロックンロール・トゥ・ユー」(73年、英18位)といったシングル・ヒットも放っている。この内、「トラジェディー」と「ゴッド・ゲイヴ~」はバラードの作品である。また、アージェントのデビュー・シングルとなったバラード作の「ライアー」は、スリー・ドッグ・ナイトが逸早くカヴァーし、71年に米7位のヒットにしたこともあった。また、元ゾンビーズのコリン・ブランストーンのソロ・デビュー作『1年間』にアージェントがバックで参加したこともあり、次作『エニスモア』ではバラードが「アイ・ドント・ビリーヴ・イン・ミラクルズ」を提供。これはブランストーンの代表曲にもなっている。



バラードは、アージェントでは“Argent”(70年)、“Ring Of Hands”(71年)、“All Together Now”(72年、英13位、米23位)、“In Deep”(73年、英49位、米90位)、“Nexus”(74年)、“Encore (live)”(74年)という6枚のアルバムに参加しているが、74年にソロとなる為に、バンドから脱退をしている(アージェントは新メンバーを加え2枚のアルバム発表後に解散した)。



バラードは、アージェントと同じエピック・レコードとソロ契約を結び、ソロ・アクトとして活動を始めている。彼が今までに発表したソロ作をリストアップしておくと…



①Russ Ballard(1974,Epic)

②Winning(1976,Epic)

③At The Third Stroke(1978,Epic)

④Barnet Dogs(1980,Epic)

⑤Into The Fire(1981,Epic)

⑥Russ Ballard(1984,MCA)

⑦Fire Still Burns(1985,EMI)

⑧The Sheer(1993,Bullet Proof)



以上のオリジナル・アルバム以外に2枚の編集盤がある。



また、バラードの楽曲は多彩なアーティストによって取り挙げられているが、代表的なものでは、「シンス・ユーヴ・ビーン・ゴーン」(レインボー、ブライアン・メイ、クラウト他)、「アイ・サレンダー」(レインボー)、「ユー・ウィン・アゲイン」(ホット・チョコレート)、「ニューヨーク・グルーヴ」(ハロー、エース・フレーリー)、「風のマジック」(アメリカ)、「ウィニング」(サンタナ)などがある。他にもアバのアグネタとフリーダの各ソロ作、ザ・フーのロジャー・ダルトリー、ユーライア・ヒープ、ポインター・シスターズなどに楽曲提供したり、アージェント時代の「ゴッド・ゲイヴ・ロックンロール・トゥ・ユー」はキッスがリバイバル・ヒット(92年、米26位)させたこともある。また、昔のボスのアダム・フェイスがマネージメントして売り出したレオ・セイヤーの作品や、フェイスがプロデュースしたロジャー・ダルトリーの作品などに、ボブ・ヘンリットとセッション参加したり、ダルトリーの“Ride A Rock Horse”をプロデュースするなど、幅広い活動も行なっている。