常に何かと対比され勝ち続けてきたオアシス
──まずは、Kazyさんと妹沢さんのオアシスとの関わり合いから聞かせてください。
Kazy:僕は、前の会社ヴァージン・ジャパンで洋楽の編成マンからキャリアをスタートして、そのあと当時のCBSソニーの洋楽に移り、3年後に配置換えでEPICの洋楽に来たんです。それが、ちょうどネブワースの96年でした。僕が最初にオアシスを担当した作品がシングルの「ドント・ルック・バック・イン・アンガー」で、アルバムだと97年の『ビィ・ヒア・ナウ』。そのあと、98年のB面集『ザ・マスタープラン』を担当しました。僕はオアシスを担当する前、パール・ジャムとかサブポップなんかのグランジをやってたんです。グランジとブリットポップっていう、90年代ロックの2大潮流の仕事をできたのはラッキーだったなと思います。
妹沢:私は大学を出たあとロッキング・オンに入ったんです。当時編集長の増井修さんをはじめ、雑誌全体がデビュー当初からオアシスを推してました。私が入社したのが1995年だったんですが、ちょうどセカンド『モーニング・グローリー』が出る直前の2回目の来日のとき、増井さんとかとクラブチッタのバックステージで通訳代わりにメンバーとお話しさせてもらったんです。そのあと、2000年の来日のときに、メンズノンノでリアムが表紙をして、そのときにリアムのインタビューをしたのがオアシスの初めてのインタビューでした。それ以降、いろいろオフィシャルインタビューさせてもらったりライナーノーツを書かせていただいたりという形で、オアシス、ノエル、ビーディ・アイと関わらせていただいてます。
──最初にオアシスを知ったのはいつ頃でしたか。
Kazy:オアシス自体はデビュー当初から話題になってたので、最初の(シングル)「スーパーソニック」からチェックしてました。アメリカのグランジものを担当しながら、イギリスの方で面白いムーブメントが盛り上がってるぞ、自分がやってる方は陰鬱で激しい系だけど、こっちはポップで明るくて楽しそうだなって見てました(笑)。
1994年 デビュー当時のバンドショット - James Fry
妹沢:私は学生の頃、93年から94年にかけてイギリスに留学してたんです。オアシスに関しては、94年くらいに100クラブでライブをしたっていうのがロッキング・オンの児島由紀子さんのコーナーに載ってて、面白そうなバンドが出てきたなって思ってたんです。その年の4月に日本に帰ってきて、池袋のP’パルコで「スーパーソニック」のシングル盤を買ったのを覚えてます。
──では、映画『オアシス:ネブワース1996』でも描かれている90年代のオアシスの歴史をたどる形で話を進めていきましょう。オアシスは、1994年4月にシングル「スーパーソニック」でデビューして、8月にファーストアルバム『デフィニトリー・メイビー(邦題:オアシス)』をリリースしました。その頃のオアシスは、どんな印象がありましたか。
Kazy:94年は、僕はまだグランジ担当で毎月シアトルに行くって感じだったんですが、カート・コバーンが自殺して一旦グランジのムーブメントが下火になるんです。そこでポーンと出てきたのがオアシスって印象でした。自分で命を絶ったカートに対して、「リヴ・フォーエヴァー」で“オレは永遠に生きるんだ”って歌うオアシスという対比がすごく頭に残ってます。
──確かにグランジとは真逆の世界観ですね。
Kazy:そうなんですよ。考えてみるとオアシスって、常に何かと対比され常に勝ち続けてたなって思いますね。そのあとのオアシスのブラーとのブリットポップ戦争もそうですし、未だに兄弟対決が続いてますし(笑)。そうやって、音楽以外のニュースもどんどん入ってくるし、聴き手がワクワクさせられるバンドだったなって思いますね。あと、今の時代にはもう無くなってしまった不良性みたいなものが存分にあったバンドで、それに惹かれた人も多かったんじゃないかなと思います。その上で、ノエルの楽曲にリアムの声ですよね。思うんですが、オアシスってマインド的にはパンク的な精神がすごくあるけど、楽曲的にポップであるってことにすごく堂々としていたなと。恥じることなく、ポップで何が悪い!くらいのガツンとやる潔さがあったと思います。
妹沢:私は、ファーストの『デフィニトリー・メイビー』はその年で1番聴いたくらいだったんです。その頃の体感としては、例えばスウェードはちょっとグラム寄りで、ブラーはインディロックのキラッとした感じがあったり、他にパルプとかいろいろなバンドが出てきてたじゃないですか。当時の私にとってオアシスは、とても距離のある男の世界、ラッドの世界って印象だったんです。男くさくてゴリゴリで、しかも何言ってるかわからないような英語でしゃべってて(笑)、当時の自分のセンスからは距離があっておかしくないものだったんです。でも、力技のポップさだったり、ファーストの一番最後の「マリード・ウィズ・チルドレン」みたいなすごく優しい曲もあったりして、すごく自分にしっくりくるアルバムだなって大学生の自分は聴いてました。
『デフィニトリー・メイビー(邦題:オアシス)』ジャケット写真
──彼らのマンチェスター訛りは驚きでしたね(笑)。
Kazy:当時アメリカの友だちが、オアシスの映像が流れると英語のテロップが入るって言ってました(笑)。そういう意味でも、言葉も含めて堂々としてたんですよね。マンチェスターってそんなに煌びやかな街じゃないし、よくノエルがインタビューで「工場で働くかサッカー選手になるかしかないところ」って言ってたけど、みんなが抱えるフラストレーションをオアシスが一気に突破していったっていうのはありますね。
妹沢:マンチェスターはオアシスのキーワードですよね。マンチェスターって、産業革命が起こった場所だから労働者階級が多くて、労働者階級の好きなロックだったりサッカーが盛んになったっていうのを読んだ記憶があります。あと、オアシスが出てきた94〜95年のタイミングって、80年代のニュー・オーダーやザ・スミスが暴れてた頃のサッチャリズムとは違うけど、まだ保守党政権で世の中が押さえ込まれてたんです。そこにマンチェスター訛りでマンチェスターの感じそのまんまのオアシスが出てきたっていうのはすごく面白いなって、イギリスの状況を学ぶきっかけになりましたね。
有言実行でほんとにロックンロールスターになった
──95年10月にセカンド『モーニング・グローリー』が発表されましたが、この時点でオアシスは大人気でしたね。
『モーニング・グローリー』ジャケット写真
妹沢:デビューから1年で、あっという間でした。ここまで短期間でグワっと大きくなる感覚って、私はオアシス以前にも以降にも体験したことなくて、ほんとにすごい勢いでした。
Kazy:有言実行で曲の通りほんとにロックンロールスターになったっていう。 『モーニング・グローリー』は、完全に全世界的に待ってました!って下地が出来てましたし、いい楽曲ばかりが詰まった作品でした。ブラーとの対比だったり、オアシスの全てがニュースになるって感じでしたね。あと、映画『トレインスポッティング』も同じタイミングだったり、ファッションから何から全てイギリスのポップカルチャーが世界的にも注目を集めていました。政治の世界でもトニー・ブレアの労働党が出てきて、クール・ブリタニアと結びついていったっていうのも状況としてはありましたね。
──日本には、94年、95年と連続で来日してるんですね。
Kazy:はい、94年の初来日は東名阪のクアトロツアー。95年が東京大阪でライブがあって、東京だとクラブチッタ、新宿リキッドルーム、ガーデンホールでやったんです。
妹沢:私は1回目の来日はチケットが取れなくて行けなかったんですが、2回目の来日のときはもうお客さんの熱がすごかったです。なんでこんなに人気があるのに大きな会場でやらないんだろう?ってことを言ってたら、当時ロッキング・オンの先輩方が「バンドの方がライブハウスレベルにこだわってるらしい」って言ってたのを覚えてます。『モーニング・グローリー』の話をすると、最初に聴いたときからすごいアルバムだっていうのは思いました。この先ライブハウスとかを超えて、大きい会場で響かせるアルバムを作ったのかも?って思った記憶があります。
──96年のネブワースの話題はあとで聞かせてもらうことにして、97年にはサード『ビィ・ヒア・ナウ』がリリースされます。
『ビィ・ヒア・ナウ』ジャケット写真
Kazy:アルバムとしてはここから僕が担当になったんですが、すごく売れましたね。発売初日に6万か8万のバックオーダーになったんですよ。タワーレコードがオアシスの旗だらけになったり、オアシス一色でした。当時65万枚のセールスだったので、今は70万枚くらいは行ってると思います。サウンド面でいうと、「ドゥ・ユー・ノウ・ワット・アイ・ミーン?」がヘヴィだったり、全体的にやたら音がデカいアルバムでしたね。のちにノエルが、「前作が売れてレコーディングにお金かけられるようになって、なぜ?ってくらいバカデカい音で作っちゃった」って言ってましたけど(笑)。
妹沢:サードはアレンジこだわりにこだわり抜いた感じがしますね。「オール・アラウンド・ザ・ワールド」とかいい曲だなと思うし、「マイ・ビッグ・マウス」なんかは、やっぱりリアムに歌わせると最高だなって思います。
Kazy:「ドント・ゴー・アウェイ」とかもいい曲ですね。そのあと、98年に武道館3デイズがあったんですが、正直思ってた感じとちょっと違ったなっていうのはありましたね。
妹沢:小さな会場から一気に武道館になって、私もなかなかアダプトできなかった感覚はありました。やっぱり大きな音で凝ったアレンジのアルバムだと、ライブも違ってくるんだなって思いました。それは、次のフェーズに行ったオアシスなんだなって気はしました。
Kazy:『ビィ・ヒア・ナウ』や武道館のあとボーンヘッドとかが抜けて、ゲム・アーチャーやアンディ・ベルとか、その後のビッグバンドの編成になってくじゃないですか。たぶん、そのイメージで作った武道館ライブだったからちょっと違和感があったのかもっていうのを、映画を見て思いました。やっぱりネブワース前と後で分かれますよね。
妹沢:私も思いました。ネブワースの達成感を経ての『ビィ・ヒア・ナウ』、武道館のライブっていうのが、映画を見て、25年経って自分の中で辻褄が合った感じがしました。当時そういう気持ちもあったので、98年にB面集の『ザ・マスタープラン』が出たときに、ファンとしては救われた思いがありましたね。
──98年のコンピアルバム『ザ・マスタープラン』は、B面曲を集めたいい作品でしたね。
『ザ・マスタープラン』ジャケット写真
妹沢:これから大きなバンドになっていく中で、初期のB面曲たちが忘れ去られたら嫌だなって思いがあったけど、名曲が消えずによかったって思いましたし、これはいまだに聴きますね。
Kazy:イギリスのレーベルのクリエイションが99年にクローズしたので、オアシスがクリエイションから出したのが『ザ・マスタープラン』が最後だったんです。そのあと、ビッグ・ブラザーって自分たちのレーベルを立ち上げたりと、その時期が変化のタイミングだったなと思います。
リアムの肉声を録るために、ホテルの一室を○○で埋め尽くした
──確かにそうですね。さて、お2人は仕事でオアシスと接していたわけですが、メンバーに直接会ったときの印象をお聞きしたいです。
Kazy:僕がオアシスのメンバーと初めて会ったのは『ビィ・ヒア・ナウ』が出たあとです。U2のPopMartツアーでオアシスがオープニングアクトをやったときに、サンフランシスコで初めてメンバーに会いました。ノエルには、前日の昼間にノースフェイスのお店で偶然会って、そこで挨拶しました(笑)。「今度日本で担当します」「あ〜、そう」って(笑)。リアムは楽屋で挨拶しましたね。じっくりメンバーと会ったのは、武道館で来日したタイミングでした。
『ビィ・ヒア・ナウ』アーティスト写真 - Jill Furmanovsky
──では、98年来日のときのエピソードをお願いできますか。
Kazy:リアムは、あの頃メディアでよからぬことを言うんで取材が一切禁止だったんです。「とにかくリアムには直接話しかけるな」ってマネージメントやソニーUKのスタッフから言われてたんですが、なんとかリアムとコンタクトを取れないか考えたんです。それで、InterFMの人とリアムの声を録ろうって計画を立てたんです。そのとき彼らはビートルズが泊まったキャピトル東急に滞在したんですが、ホテルの2階に「アディダスルーム」を作ったんです。
──当時、彼らはアディダス大好きでしたよね。
Kazy:当時日本でハンドリングしてたアシックスのアディダス担当の方に、「世界的な人気のオアシスが取材するときに使う部屋をアディダスの商品で埋めたい」「1日何度もアディダスって言うんで宣伝になるので商品貸してください」ってお願いしたんです。それで、靴から服から部屋いっぱいにお店のように飾りつけして、そこにラジオ収録ができるマイクとかも全部置いてたんです。当時アディダスの商品って各国で発売されてるものが違ったので、日本でしか売ってないオレンジ色のアディダスの靴は響くんじゃないかなと思って僕が履いてたんですよ。キャピトルのロビーでメンバーを待ってたら、リアムがツカツカ寄ってきて、挨拶交わす前に靴を脱がされて「これはなんだ?」って(笑)。「日本製のアディダスで2階にあるよ」って言ったら、すぐリアムが行ったんです。部屋に入ってきたリアムにマイクを向けたら、ひと言よからぬことを言うって展開でした(笑)。
──なんにせよ、リアムの声は録れたと(笑)。
Kazy:ハイ(笑)。しょうもない言葉だけど来日したリアムの貴重な音声が録れたってラジオで流したら、それがマネージメントにバレてえらい怒られました。「だからあいつにしゃべらせちゃダメなんだ」って(笑)。
妹沢:当時ニュースになりましたよね(笑)。
Kazy:ハイ(笑)。リアムはそんな感じなのでまともな会話はしてないですけど、ノエルは取材もあったので真面目な話とかもしましたね。
──ノエルはどうだったんですか?
Kazy:僕は以前ヴァージン・ジャパン時代にPILを担当してて、来日したときにジョン・ライドンをアテンドしてたんです。彼はメディアに対して“ジョン・ライドン”を演じるんですけど、こちら側にはすごく紳士なんです。ノエルにはそれと同じものを感じました。メディアには棘の立ったことを言っても、僕らにはきちんと接するし、取材も真面目にやってくれる。なんなら、ギターを弾いてもらうテレビ収録の空き時間に「ドント・ゴー・アウェイ」のコード進行を教えてもらったりもしました。
妹沢:それは羨ましいです。
Kazy:あと、篠原ともえさんとの対談があって大丈夫かな?と思ったんですが、彼女がワーって大騒ぎすると、ノエルが「お前砂糖が足りないんじゃないか?」「コーヒーに砂糖入れてやるから飲め」とか言ったり面白い取材になりました(笑)。最初の話だと、テレビに出るとか取材もほとんどできないって言われたんですが、ノエルが「せっかく日本に来たんだからオレがやる」って言ってくれたんです。それはすごくありがたかったですね。まあ、リアムはあのまんまでしたけど(笑)。
妹沢:リアムって、ほんと一切ウソが無いし隠し事が無いくらいですよね。見た目もやってる音楽も全部がイメージ通りだなと思いました。
Kazy:それがかわいいくらいですよね(笑)。
──(笑)。あと、日本でのプロモーションはどんなことをされたんですか。
Kazy:InterFMと組んで、武道館のライブが始まると同時にセットリスト順に曲を流すっていうのをやりました。武道館にいるInterFMのスタッフが「今この曲やってます」って連絡してラジオで同じ曲をかけてたんです。そしたらスマッシュ(イベンター)の人から「勝手にライブ流してますか?」って間違われて、「そんなことしてないですよ」って説明しました(笑)。それくらい電波ジャックもしてましたね。
取材ではいつも紳士的だったノエルとリアム
──では、妹沢さんがオアシスに取材したときの話を聞かせてください。
妹沢:私、ありがたいことに、ノエルにもリアムにも取材でよくしてもらった記憶しかないんです。最初に増井さんの通訳でクラブチッタに行ったときも、客席でサッカーしてるノエルとかメンバーたちに、「リアムどこにいます?」「あっちだよ」とか気楽に話してくれましたし。増井さんがリアムに「君の声はジョン・ライドンとイアン・ブラウンとジョン・レノンを足して3で割った感じだ」って言ったら、そのときリアムは兄弟ゲンカしたみたいで泣きながらワインをがぶ飲みしてたんですよ。なのに「オレはイアン・ブラウンほどオンチじゃない」って言ったりして(笑)。そのあとも怖い思いはなかったですね。2000年の横浜アリーナの楽屋で、リアムにメンズノンノの取材をしたときは、インタビュー15分撮影5分で、インタビューは普通に話してくれたんです。ただ、撮影が気が乗らなかったみたいで、3カット撮ったら裏ピースして帰って行くってことがありました。それ見て、彼はそのときの気分で変わるんだなっていうのは思いましたね。もしかすると、彼らが女性に対して紳士的だったというのはあるかもしれないです。
──取材で特に印象深いエピソードを挙げるとすると?
妹沢:6枚目の『ドント・ビリーヴ・ザ・トゥルース』を出したときに、イギリスのリンカンシャーにある、ノエルがいくつか持ってる家のひとつで取材だったんです。そのときは、ミッチ池田さんが撮影して、私がインタビューする結構長丁場だったんですが、取材の合間に、急にノエルがピアノを弾き出してハミングで歌い出したんです。それが即興で作り出したもので、そのときに、この人はこんな感じでふっとした瞬間に音楽が降りてきて、こんなにきれいなメロディが作れるんだなって思いましたね。
『ドント・ビリーヴ・ザ・トゥルース』ジャケット写真
──天性のメロディーメイカーぶりを目の当たりにしたと。
妹沢:しかもノエルが弾き始めると、それまでわちゃわちゃしていた他のメンバーが急に静かになって、出てくる音楽を聴き入るって感じになったんです。その光景を見れて感動しました。あと、先ほどのKAZYさんの話を聞いてて思い出したのが、リアムに取材するときに、まず靴を褒めるようにしてたんです。彼は靴を褒めると1日機嫌がいいんです(笑)。実際素敵な靴を履いてるんで、いつしか「お久しぶり、今日も素敵な靴ですね」「そうか」って機嫌がよくなって、終始いいムードで取材ができるっていうのがありました。
──褒めポイントわかってると、取材や仕事がスムーズに進むってことはありますね。
妹沢:ほんとにそうなんですよ。
Kazy:その点では、リアムは一番わかりやすい人ですね(笑)。