J-クウォン
 初めてステージで賞を受賞するとき、きっとJ-Kwonには感謝の言葉を捧げる人々が大勢いることだろう。

 だがそれは、彼を信じ力づけた友人や家族との思い出などという、うんざりするスピーチにはなり得ない。代わりに彼は、夢を手に入れるために戦っていた13歳のころ、セント・ルイスのサウス・サイドの寂しいストリートを行き交っていた人々に対してありがとうと言うだろう。彼の夢をとりあってもくれなかった人々のおかげで、J-Kwonのヴィジョンはさらに大きく確たるものになったのだし、みんなが信じようともしなかったおかげで、彼は必ず証明してみせると誓うことができたのだから。

「12、3歳のころは良い生徒だったんだ」とJ-Kwonは思い起こす。

「でも あるときママに“僕はラップをやりたいんだよ”って話をした。おれはよくTVでラッパーたちを見ていて、これだけのことなら自分にだってできる、って思っていたからな。 “僕に必要なのは女のコたちとちょっとしたアクセサリーと身体を清潔に保つことさ。そうすれば僕もできるんだよ”って言ったら、ママはこう言ったんだ。“OK、そんなにやりたいって言うなら、家を出て行きなさい。やる気を見せてごらん”って」

 そして彼はすぐその通りにしたのだという。

「家を出たけど、行くところなんかなかったからサウス・サイドへ走ったんだ。知り合いがひとりいたし、その場所が一番安心だろうと思ったのさ。“あんたの車の後部座席で寝てもいいかな?”なんてよくみんなに尋ねたよ。一年半くらいはそんなことをしていたっけ。それからドラッグを売ることを思いついて・・・そんなこんなでおれ自身のライムをゲットしていったんだ」

 彼は夜の暗闇のなか車の後部座席にうずくまり、ライターの明かりだけを頼りに、後に彼に契約をもたらすことになるライムをコンポーズしていた。

 そしてセント・ルイスの音楽興行主であるショーン・コールドウェルの目に留まったのだ。J-Kwonが“ダディ”と呼ぶようになる男だ。コールドウェルは彼の音楽に興味を持ち、ストリートから彼を連れ出した。

「最高の住処とは言えなかったけど、今までいた場所に比べたら文句も言えなかったよ」とJ-Kwonは言う。

「ショーンのママの家で床の上に寝られるようになったんだからね。少なくとも寒さはしのげた。床に敷いた寝袋のなかで寝たから」

 そして2年が過ぎたある日、J-Kwonの執拗な願いに後押しされるように、コールドウェルは楽曲「パーソナリティ」を、すでにネリーとナッピー・ルーツで名を成していたホットなプロデューサー、ザ・トラック・ボーイズに渡すことにした。すると彼らはJウォンの才能に驚き、契約のために1000ドルをオファーしたのだ。

「すげー大金だったよ。だっておれは何にも持ってなかったからね。おれは16歳でまもなく17になるとこだった。金なんかなかったさ」

 ここから事態は素早い展開をみせるようになる。彼のことはトラック・ボーイズからMeMpHiTz、そしてアリスタのA&Rエグゼクティヴへと知れ渡り、アリスタ・レコードのトップでCEOのアントニオ“LA”リードやソー・ソー・デフのCEOでアリスタのシニア・ヴァイス・プレジデントのジャーメイン・デュプリ、そして彼のA&Rエグゼクティヴ・チームといったそうそうたるメンバーの前でパフォーマンスを披露することになったのだ。

 「MeMpHがおれの楽曲を聴いたとき、彼は言ったよ。LAとジャーメインは君が大好きになるだろうし、契約したいと思うだろう、って。でもおれは本気にしなかった。嘘には慣れっこだったからな。目標を達成できたと思っても実はそうじゃなかったなんてことばっかりだし、そういうことには注意しないと自分がダメになっちまう」

 Jウォンは浮いた話に一喜一憂することはなかった。NY行きのチケットを受け取った後でさえ、彼は用心を怠らなかったのだ。

「LAリードのオフィスに続くドアが開き、そこにはA&Rが全員いた。そんな彼らの前でおれは自分のラップを披露したんだ・・・ジャーメインとLAに向かってもライムを投げかけたよ。そのなかにはこういうのがあったんだ“LA、おれのことが気に入らないなら、消え失せろ!”そしてズボンを下げて後ろを向き、ケツを見せてやった。すると彼らは手を叩いたんだ。みんなが手を叩いたんだよ」

 ジャーメイン・デュプリはJ-Kwonに、この4年間の努力を世界中に発信するための機会を与えた。その結果誕生したのがデュプリのソー・ソー・デフ/アリスタ・レーベルからのデビュー・リリースとなる「フード・ホップ」である。

初期の信奉者であるトラック・ボーイズに加え、デュプリとE-Poppi(ミッシー・エリオット、ディスティニーズ・チャイルド、トゥルース・ハーツで知られる)らがプロデュースを務めたこのアルバムのリード・シングルは、ヘヴィなベースの「ティプシー」であり、Jウォンが「オールド・スクールっぽいクレージーなパーティ系」と語る楽曲だ。トラック・ボーイズがプロデュースしたこのトラックは、ティーンたちの飲酒に対する警告でスタートし、非常に魅力的なビートとフックに支えられている。

「ビートはおれの顔の真正面にあったんだ」とJ-Kwon。「ちゃんと感じることができたよ。おれはただこの楽曲を台無しにしたくなかったんだ」リリックは心の赴くままにフローしたという。

 またそれ以外の楽曲を聴いても明らかなように、Jウォンは誰かの二番煎じになろうなどとは考えていない。彼は単に自分の感情を上手く表現しているだけなのだ。だがギアはたちまち変化するので、リスナーたちは気を抜かないほうがいいだろう。

 ギターの柔らかな旋律でスタートする「ティプシー」や「アスク・ミー」は、飾り気の無さとのコントラストが特徴のメロディックな楽曲だ。

「これはおれのストーリーさ。おれのことが知りたければ、これを聴いたらいい」

 彼はこうラップしている。

“ハードな時期だった、もっと辛くならざるを得なかった/取り戻させてくれ/利口にならざるを得なかったんだ”

 また「ユー・エイント・ガッタ・ライク・ミー」というトラックでは、J-Kwonは以前の彼のように騙されている人々のことを語ろうとしている。

「ときには人々の感じていることを語るべきなんだと思うし、それをこの楽曲でやってみたんだ。おれはこうラップしている。 “おれもうんざりしてるし疲れたよ。おまえはずっとそんなクレージーなことばっかりやり続けるつもりなのか?おれもそうなんだ”」

 しかし彼はそんなリリックのなかでもあまり説教くさくならないように注意しているという。

「やりすぎないようにすることで、さらにディープになったよ。おれはまだヒップ・ホップを続けるつもりだけど、次に何をするのかリスナーたちに考えて欲しいんだ」

 また彼は「アイス・アンド・ノー・ベントレー」ではダメになって行く人間関係を追及している。これは愛に根ざしたところからスタートし、だが物質主義によって汚れてゆくパートナーシップを深く掘り下げる楽曲だ。 “金は幸せを運ぶ、だがおれたちは悲しくなった”

 そしてR&Bのフレーバーが散りばめられた「エイント・ノー・パーティ」は、ダンス・ソングだ。

「ただ人々を気持ちよくさせるトラックさ。落ち込んでいるときだってこれを聴けば大丈夫」

 こういった様々なトラックを収録した「フード・ホップ」は、若いころに多くを見すぎた17歳の少年の体験や喜びや恐れ、そして思考の真実の描写である。しかしまた同時に現実の世界で日々起こる出来事でもあるのだ。つまりそれは人々の考えや感情、行動に他ならない。このアルバムは人々の間のギャップを埋め、心を開かせ、足をムーヴさせ、音楽的にも感情的にもあらゆる土地の人々に理解できるものなのだ。

「フードをポップへ、ホップへフードを導入したいんだよ」

 Jウォンは自分の音楽についてそう語る。

「おれは大勢の聴衆を求めて行きたいし、みんなにおれ自身を感じて欲しいと思う。だっておれは何も持っていないんだぜ。おれはジャーメイン・デュプリでもないし、そんな生活をしているヤツでもないんだから」

 Jウォンは彼を崇拝する人々を求めているわけじゃないという。彼が欲しいのは、彼をちゃんと理解してくれる人々だ。

「ファン・ベースなんていらないよ。愛情が欲しい。おれだって君らのなかのひとりなんだって感じて欲しいし、常に対等でいたいと思う。だからおれはみんなのために作っているんだよ。人々におれを理解して欲しい。おれは愛情とリスペクトが欲しいし、人々をリスペクトしてゆきたい」

 今のところこれがJウォンのすべてだ。彼が4年前にママの家を離れたのは、家では見つけることのできなかったリスペクトと理解を捜すためだった。それは彼の夢の最も手ごわい部分にしがみつき、格闘し降伏させることでもあったのだ。