J.D.サウザー

 JDサウザー(本名ジョン・デイヴィッド・サウザー、1945年11月2日生)は1970年代を通じてアメリカのウェスト・コースト・ロック・シーンにおける重要なシンガーソングライターとして、イーグルス、ジャクソン・ブラウン、リンダ・ロンシュタットといった当時のスーパースター達のヒット曲の数々を手がける一方、自らもいくつかのグループに所属した後、1970年代後半にソロ・シンガーソングライターとして脚光を浴びたアーティストだ。1980年代以降はミュージシャンとしての大きな商業的成功には恵まれていないものの、様々な映画やテレビ番組に自らの楽曲を提供しながら、マイペースで自分の作品を発表し続けている、ウェストコースト・ロック・シーンのレジェンドの一人だ。

 生まれはアメリカ北部のミシガン州デトロイトながら、南部のテキサス州アマリロで少年時代を過ごしたJDは早くからミュージシャン兼ソングライターとしてのキャリアを夢見ていて、60年代一世を風靡した同じテキサス州出身のカントリー・ポップ・スター、ロイ・オービソンから多大な影響を受けたという。ミュージシャンとしてのキャリアの始まりのきっかけは、そのロイ・オービソンやロックンロール創世記の大スター、バディ・ホリーなど地元テキサス出身の数々のスター達の名プロデューサーとして知られるノーマン・ペティとの出会いだった。当時仲間と「シンダーズ」というバンドを組んで活動を始めていたJDは、隣のニューメキシコ州クローヴィスに住むノーマンを訪ねて支援を要請、ノーマンはメジャーのワーナー・ブラザーズとの契約にこぎつけシングルを2枚ほどリリースしたがヒットにはつながらなかったという。

 1960年代後半、ロサンゼルスが音楽産業の中心地であった時代、JDはロスに移りそこで後にイーグルスの主要メンバーとして大成功し、JDの重要なソングライティングパートナーとなるグレン・フライとの運命の出会いを果たす。意気投合してルームメイトとなった二人は「ロングブランチ・ペニーウィッスル」というフォーク・デュオを結成、1970年には唯一のアルバムをリリース。このアルバムはJDとグレンの初期の貴重な作品として、今も70年代ウェストコースト・ロック愛好家の間ではつとに有名だ。

 1970年代に入ると、当時のロスの音楽シーンの大立て者、デヴィッド・ゲフィンがジャクソン・ブラウンを核にして立ち上げた新レーベル、アサイラムと契約、出身地の南部の香りを漂わせるカントリー・ロック作品となった初のソロ・アルバム『ジョン・デイヴィッド・サウザー・ファースト』(1972)をリリース。相棒のグレンや同じくアサイラムと契約したネッド・ドヒニーら、後の大物アーティストらをバックに録音されたこのアルバムはヒットこそしなかったが、その後のJDの成功につながる作品としてシーンの評価は高い。JDはソロ活動の一方1974年には、60年代にカントリー・ロックの先鞭を付けたバーズやフライング・ブリトー・ブラザーズのメンバーだったクリス・ヒルマン、同じく60年代にバッファロー・スプリングフィールドで活躍後、ポコを結成していたリッチー・フューレイと、ザ・サウザー・ヒルマン・フューレイ・バンドを結成。当時クリスとリッチーの名が既に広く知られていたこともあり、バンドはヒットシングル「Fallin’ In Love」を放ち、デビューアルバムはゴールドディスクに認定、JDは初めてミュージシャンとしての成功を味わうことになる。

 その後またソロ活動に戻ったJDは、アサイラムに移籍してきたリンダ・ロンシュタットのアルバム『ドント・クライ・ナウ(Don’t Cry Now)』(1973)にタイトル曲を含む3曲を提供、共同プロデューサーとしてバックの演奏に参加。リンダのブレイクアウト作(全米45位)となったこの作品の仕事で、ウェストコースト・シーンでのJDの存在感は更に大きなものとなった。これをきっかけに一時期リンダと交際していたJDは、続く『悪いあなた(Heart Like A Wheel)』(1974)や『哀しみのプリズナー(Prisoner In Disguise)』(1975)といったヒット・アルバムにも参加して曲を提供している。またこの頃、ジャクソン・ブラウンの名盤『レイト・フォー・ザ・スカイ(Late For The Sky)』(1974)や『プリテンダー(The Pretender)』(1976)、ボニー・レイットの『ホーム・プレイト(Home Plate)』(1975)、ダン・フォーゲルバーグの『囚われの天使(Captured Angel)』(1975)といった数々の西海岸のロック・アーティスト達のアルバムにも参加、様々なミュージシャン達との交流を深めていった。

 1976年、リンダのアルバムで共同プロデューサーだったピーター・アッシャーを迎えた、名盤の呼び声高いセカンド・アルバム『黒いバラ』は、ピーターの極上のプロデュース・ワークや、リンダを始めグレン、アンドリュー・ゴールド、デヴィッド・クロスビーなど当時のシーンを代表する一流ミュージシャン達をバックに洗練されたサウンドで、彼に取って初のチャート・ヒット・アルバムとなった。この頃までには、JDとフォーク・デュオとしてキャリアをスタートしたグレンも、ドン・ヘンリーらとイーグルスを結成。イーグルスはリンダのバックバンドを経てファースト・アルバム『イーグルス・デビュー(Eagles)』(1972)での鮮烈なデビュー後、『ならず者(Desperado)』(1973)や『呪われた夜(One Of These Nights)』(1975)、そして『ホテル・カリフォルニア(Hotel California)』(1976)といった大ヒットで押しも押されぬスーパーグループとなっていたが、JDは「我が愛の至上(Best Of My Love)」(1974年全米1位)「ニュー・キッド・イン・タウン(New Kid In Town)」(1976年全米1位)といった彼らの主要曲を共作するなど、彼らとの交流は変わらず続いていた。そんなある日、グレン達とのジャム・セッションで生まれた「ハートエイク・トゥナイト(Heartache Tonight)」が、イーグルスのアルバム『ロング・ラン(The Long Run)』(1980)からの全米ナンバーワン・ヒットとなり、改めてJDの名前がシーンで注目を集めることに。

 そんなタイミングでアサイラムを離れてコロンビアに移籍したJDが自らのプロデュースでリリースしたのが、彼の少年時代のヒーロー、ロイ・オービソンを彷彿とさせるようなシャッフル・リズムのロック・バラード「ユア・オンリー・ロンリー」を含む同名アルバムだった。イーグルスのメンバーや、ダニー・コーチマーら西海岸の腕利きのミュージシャンらをバックにレコーディングされたこのアルバムは、タイトル曲共々彼最大のヒットとなり、「シンガーソングライター・JDサウザー」をシーンに鮮烈に印象づける作品となった。日本でも、70年代終わりから80年代初頭にかけてのAORブームを背景にJDの人気は一気に盛り上がり、1980年には初来日を果たしている。当時の人気の高さは、この時代にJDを聴いた世代が後の90年代以降に「ユア・オンリー・ロンリー」を映画の挿入歌やTVCMにも使ったことでも証明されている。

 しかしそれほど盛り上がった彼の人気も、翌年1981年のジェイムス・テイラーとのデュエット・シングル『憶い出の町(Her Town Too)』のヒットを最後にやや陰りを見せることになる。ナッシュビルで録音した次のアルバム『ロマンティック・ナイト』(1984)は、後にディキシー・チックスが収録曲「ただ君のために(I’ll Take Care Of You)」を彼女達の大ヒットアルバム『ワイド・オープン・スペーシズ(Wide Open Spaces)』(1998)で取り上げるなど一定の評価を得たものの、前作の成功には及ばず。この後、JDの80年代後半からの活動は、ドン・ヘンリーのソロ・アルバムへの曲提供や、ロイ・オービソンのトリビュートコンサートへの参加などを通じての従来の音楽活動の他に、演劇の方面へと広がっていくことになる。1989年の人気テレビドラマ『Thirtysomething』や、メリル・ストリープ主演の映画『ハリウッドにくちづけ(Postcard From The Edge)』への出演で俳優としてのキャリアをスタートしたJDは、その後もいくつかのTVドラマや映画に出演。2002年にロスからテネシー州ナッシュヴィルに拠点を移した後、2012年からはカントリー音楽とその業界を描いた音楽TVドラマシリーズ『ナッシュビル(Nashville)』にレギュラー出演するなど、ミュージシャンならではの演技力とパフォーマンス力を活かしてなかなかのキャリアを積み上げているようだ。

 といってもJDがミュージシャンとしてのキャリアを捨てたわけではない。ナッシュヴィル移住も一つのきっかけだったのか、2008年25年ぶりに発表した全曲オリジナル・アルバム『イフ・ザ・ワールド・ワズ・ユー』では、ジャズ・アンサンブルをバックに円熟した歌声を聴かせてくれ、2011年には他のアーティスト達で有名になった自作曲のセルフ・カバー・アルバム『Natural History(ナチュラル・ヒストリー)』をリリース。その後も2009年と2015年には久々の来日を果たし、2009年のビルボード東京でのパフォーマンスは『Midnight In Tokyo』というライブ盤でリリースされている。2015年には現在のところの最新作『テンダネス』を引っさげて、日本のファンの前で久々の達者なパフォーマンスを見せてくれたことは記憶に新しい。

 2013年にソングライターの殿堂入りを果たしたJDのコロナロックダウン以降の動向はあまり伝わってきていないが、今年2023年は久々のアメリカ国内ツアーも敢行するとのニュースも伝わって来ており、きっとまた忘れた頃にひょっこりあの歌声で、更に円熟した楽曲の数々を届けてくれることを期待しよう。

 

 

[ディスコグラフィ(カッコ内は原盤レーベル、- 以降はアメリカでのチャート実績)]

1.主なアルバム

1970年  『Longbranch Pennywhistle』(ロングブランチ・ペニーウィッスルとして)(Amos)

1972年  『John David Souther(ジョン・デイヴィッド・サウザー・ファースト)』(Asylum)

1974年  『The Souther, Hillman, Furay Band(ザ・サウザー・ヒルマン・フューレイ・バンド)』(サウザー・ヒルマン・フューレイ・バンドとして) (Asylum) – 11位(ゴールド)

1975年  『Trouble In Paradise(トラブル・イン・パラダイス)』(サウザー・ヒルマン・フューレイ・バンドとして) (Asylum) – 39位

1976年  『Black Rose(黒いバラ)』(Asylum) – 85位

1979年  『You’re Only Lonely(ユア・オンリー・ロンリー)』(Columbia) – 41位

1984年  『Home By Dawn(ロマンティック・ナイト)』(Warner Bros.)

2008年  『If The World Was You(イフ・ザ・ワールド・ワズ・ユー)』(Slow Curve/Sony)

2009年  『Rain – Live At The Belcourt Theatre』(ライブ盤)(Slow Curve)

2011年  『Natural History(ナチュラル・ヒストリー)』(セルフ・カバー集)(eOne)

2012年  『Midnight In Tokyo』(東京ビルボード・ライブでのライブ盤)(eOne)

2015年  『Tenderness(テンダネス)』(Sony Masterworks)

 

2,主なシングル(AC=USアダルト・コンテンポラリー・チャート、C=カントリー・チャート)

1974年    「Fallin’ In Love」(サウザー・ヒルマン・フューレイ・バンドとして)- 27位

1979年    「You’re Only Lonely(ユア・オンリー・ロンリー)」- 7位、AC 1位、C60位

1980年    「White Rhythm And Blues(ホワイト・リズム&ブルース)」- AC 46位

1981年    「憶い出の町(Her Town Too)」(ジェイムス・テイラーとの共演)- 11位、AC 5位

1982年    「Sometimes You Just Can’t Win」(リンダ・ロンシュタットとの共演)- C27位

 

*  USでは、アルバム・シングル共にゴールド=50万枚、プラチナ=100万枚(2x=200万枚)の売上によりRIAA(アメリカレコード協会)が認定。2023年4月現在。