『ディラン、新作を語る ~ビル・フラナガンとのインタビュー』
ボブ・ディラン、約23,000字に及ぶ最新インタビューを全文翻訳公開!

Q: これでスタンダード作が3作続くことになりました。『シャドウズ・イン・ザ・ナイト』は嬉しくも大きな驚き、『フォールン・エンジェルズ』が愛すべきアンコールだとしたら、今回は基準をさらに高めた気がします。2枚を作られた後で、未完の仕事があると感じたのですか?

 

BD: ああ、自分が思っていた以上にあることに気づいた。つまり2枚のレコードを足しても、まだ全体像の一部でしかないと気づいたので、さらにそのまま進んで、あれを作ったというわけだ。

 

Q: 3枚組でリリースしようと思った理由は?

 

BD: テーマ的に繋がっているから、同じ時期に出した方がいいと思った。互いが互いの続編であり、それぞれが前作を解く作品だからだ。

 

Q: 各ディスク32分という長さすべてを2枚のCDに収めることも可能だったはずです。そうせず、10曲で32分という長さにこだわったのは、何か魅力があったのでしょうか?

 

BD: もちろんだ。完成を意味する数字だ。ラッキーナンバー、光を象徴する数字。32分に関しては、それがLPレコードに収めたサウンドが最も力強く聞こえる限界の長さだ。つまり、一面ごとに15分程度。ちゃんとレコーディングして、マスタリングしようと思ったら、長すぎては無理だ。私の曲は長すぎて、LPのオーディオ・フォーマット向きではなかった。サウンドが薄くなってしまった。レコード・プレイヤーの音量を9とか10にあげないと、ちゃんと聞こえなかった。このCDの形は、私が「作っているべきだったLP」に相当するんだよ。

 

Q: 生のホーン・セクションを従えて歌う難しさは?

 

BD: 難しさは特にない。オーバーダブより良いよ。

 

Q: スタジオ内では偶発的に起きることを大事にされるのがお好きだと思うのですが、ここではしっかりアレンジされた譜面と向き合って仕事をされたわけで、それは考え方を新たにせねばならなかったりしましたか?

 

BD: 最初はそうだったが、次第に慣れたよ。書かれた歌詞の中に、私自身のパーソナリティを十分読み取ることができたから、あとはアレンジされた曲の中のメロディだけに気持ちを集中すればよかった。ヴォーカリストとしては、限定されたハーモニー・パターンの中に制約されているわけだが、限界が何もないよりもむしろ限界あるパターンの中の方が、実はよりコントロールすることができる。あまり考えずに済む、というか、むしろまるで考えずに済むんだ。考え方を新たにしたとしたら、それだと言っていいのかな。

 

Q: レコーディング中、ミュージシャンに「この部分を変えたいので、ついてきてくれ」というようなことを言ったりしたことは?

 

BD: それは一度もなかった。それをやったら曲はバラバラになってしまう。誰もついてこれないだろう。即興性はこの際、曲の妨げになる。道を逸れることは出来ないんだ。

 

Q: ボブ・ディラン・ファンがこういったスタンダード曲をやることをどう思うか、心配ではないですか?

 

BD: そういった曲というのは世間一般の、市井の、ごく平凡な人間の歌だ。それがボブ・ディラン・ファンなのかもしれないし、そうでないのかもしれない。私にはわからない。

 

Q: 実際に演奏することで、聴いている時にはわからなかったことを教えられましたか?

 

BD: 自分なりに曲が意味することを少しはわかっているつもりだった。だが、そこに込められた人生の本質や人間の有りようがこれほどだったとは気づいていなかった。歌詞とメロディがこれほど完璧なまでに絡み合い、今の時代にも意味を持ち、非物質的なことを歌っているか、気づかされたよ。

 

Q: 60年代までは、こういった曲がそこらじゅうにあったわけですが、今やほぼ消えかかっています。今聴くと、よりいっそうの意味をあなたも感じますか?

 

BD: 意味はずっと大きくなったね。これらの曲はレコード化されている「最も胸張り裂けるような曲」なわけだから、それをそのように表さなければと思った。今、こうして(レコーディングを通じて)曲と「生き」「生き抜いた」ことで、以前より理解も深まり、「いかに他と違うか」ということに囚われたメインストリームから連れ出してもらえたよ。だって実は違うと思えるものは本質では一緒だったりするのに、今の時代、音楽も曲も全てが制度化されすぎてしまって、人はそのことに気づかない。これらの曲は冷静なまでに明確で、直接的なリアリズムを伴っている。ごく普通に生きることへの信念。それは初期のロックンロールにはあったものだ。

 

Q: これらの曲を聴く時、否が応でも第二次世界大戦のことを考えるわけですが、あなたは戦時中にお生まれになった。何か、この当時のことで記憶していることはありますか?

 

BD: あまりない。生まれたダルースは工業都市だ。当時あったのは造船所、鉄鉱石埠頭、穀物倉庫、幹線鉄道ヤード、操車場。スペリオル湖の湖岸、花こう岩の上に建っている街だ。いつも聴こえるのは霧笛の音、多くの船員や木こりたち、嵐、猛吹雪。食糧不足、食糧配給、ガスもほとんど来ない、電気はとっくに切られ、家の中にある金属という金属は供出させられたと母親から聞いている。昼間でも暗く、外出も禁止され、薄暗く、わびしかった。5歳になる、終戦までそこに暮らしたよ。

 

Q: 大恐慌と戦争、その狭間で人々はたくさんの悲しみを飲み込んで生きていた。だからこそ、当時の人々の共感を得たのだと思います。ただし、それらは今聴くには感傷的すぎるふしもあり、たとえば「願いが叶うという井戸の前で立ち止まったことが一度もない」という歌詞は、人生経験の浅いリスナーにはセンチメンタルすぎると思えるかもしれません。あなた自身、20代〜30代の頃には無理だったが、70代の今だからこそ、曲にご自身を投影できるということもあるのでしょうか?

 

BD: もちろんだ、今は深く投影できるよ。20代、30代まではどこにも行ったことがなかった。それ以降は世界中を訪れ、神殿も願掛け井戸もこの目で見た。実際には若い時から、所々で幾つもの「サイン(合図、兆し)」を目にしていたのだと思う。でもその頃はただそこにある、というだけで、その意味はわからず、ただ不可解なものと捉えていたんだ。今、振り返れば、それらがそこにあること、それが意味することがわかる。当時はわからなかったが、今ならわかる。当時はわかりっこなかったんだ。

 

Q: 40年、50年前のご自身のパフォーマンス映像を見ると、別人のようですか?どう映りますか?

 

BD: ナット・キング・コールの「ネーチャー・ボーイ」さながら「とても変わった、でも魅力ある少年」のように見えるよ。とんでもなく洗練されたパフォーマー、幅広い音楽を聴いている、すでにポストモダン。今の私自身とは別人だ。

 

Q: 戦後20年経ち、映画、テレビ、小説といった娯楽作品は『南太平洋』から「OK捕虜収容所」に至るまで、すべて戦争がテーマになっていました。それが共通言語だったとも言えます。が、今では大衆の記憶からそれが薄れつつある。これらの曲を救い出さねば、という切迫感もあったのでしょうか?

 

BD: ベートベンやブラームズ、もしくはモーツァルトを救い出そうなんて思わないのと同じくらい、そんなことは思ってない。これらの曲は壁の奥に隠れているわけでもないし、海の底に沈んでいるわけでなく、公然とそこにある。誰だって見つけることができる。それらは嘘をつくこともないし、自由をもたらしてくれる。

 

Q: 「青春の思い出」「思い出のたね」では素晴らしい歌を聴かせてくれています。そこで思わずにはいられないのは、あれだけうまく歌えるのなら、なぜいつもあのように歌わないのですか?

 

BD: それがどういう曲なのか、ということにもよるよ。「青春の思い出」や「思い出のたね」は会話のような曲だ。そういう曲で粗雑に言葉を吐き捨てたくないだろう。そんなのは考えられない。強調すべき点がもともと違うのだから、自分の言葉で言い通す必要もない。だって「ロマンティックな場所に向かう航空券」と「俺の体をハイウェイの脇に埋めてくれ」とでは真逆じゃないか、言葉遣いという意味で。当然、イントネーションも違う。一方は概観的だが、一方は内面的だ。

 

Q: 役者が役を演じる様に、ヴォーカルにアプローチするのでしょうか?

 

BD: そうではなく、催眠術の様なものだ。頭の中に植え付けるんだ。そして自分のものにするまで、何度も何度も繰り返す。役者が演じる様に、って例えば誰のことだい?スキャトマン・クローザース?ジョージ・C・スコット?スティーヴ・マックイーン?もしそうだとしたら、メソッドアクター(*役作りやテクニック以上に、より自然でリアルな演技を重んじるメソッド演技法を取り入れた役者)だろうね。メソッドアクターの定義が何なのかはわからないが。過ぎたことの記憶。それならしょっちゅうやっているよ。

 

Q: 「わが人生の九月」だけはパーフェクトに歌っていません。声も割れています。でもむしろ歌詞によく合っている。あれは修正しようとは思いませんでしたか?それともそのままの方がいいと思ったのでしょうか?

 

BD: 声が割れてしまうのは苦にしないが、音を外したり、コードが間違ってることの方が気になるね。「わが人生の九月」では何一つ修正していない。いずれにせよ、ヴォーカルだけを抜き出そうとしても不可能だ。全員が1つのスタジオで同時に録音していたので、マイクが漏れた音をたくさん拾ってしまっていた。修正できるのは、ヴォーカルを別録りしたものをオーバーダブした時だけ。でもそういう録り方はしていないんだ。今回の様なレコードで、歌詞をメッタ切りにしてしまったら、一から全部やり直さきゃダメだ。ライヴ・レコーディングだからね。私の声がここかしこで割れているとしたら、レコーディングするのがちょっと朝早すぎた、ってことだ。でもそのことでトータルに何かが傷つくわけじゃないので、気にはならないよ。

 

Q: 『シャドウズ・イン・ザ・ナイト』は一般的にフランク・シナトラへのトリビュートだと言われていますが、あれを出された時、全曲シナトラがレコーディングした曲だったことはご存知でしたか?

 

BD: ああ、知っていた。でも他にも大勢が歌っていた曲だ。たまたま、彼のバージョンがベストだったというだけでね。レコーディングの時は、シナトラなんていう名前すら知らない、彼が存在していることも知らない、と自分に思い込ませねばならなかった。彼は入り口まで、道を示してくれて、先導してくれるかもしれないが、そこから先は自分1人きりなのだから。

 

Q: あなたとスプリングスティーンがシナトラの自宅のディナーパーティに招待されたという有名な話がありますね?シナトラ・トリビュートのTV番組をやった頃だと思いますが。それ以前にも、彼には会っていたのですか?あなたの曲を彼は知っているようでしたか?

 

BD: それほどは知らなかった。「時代は変る」と「風に吹かれて」は知っていた。「いつまでも若く」が好きだというのは、フランク本人から聞いたよ。ファニーな人だった。夜、彼の家のパティオに立ってる時、「お前も俺もブルーの目をしてる。俺たちはあそこ(上)からやってきたんだよ」そう言って星を指差した。「ここ(下)の連中とは違ってね」。もしかすると彼の言ってたことは正しかったのかも、と思い出すことがあるよ。

 

Q: あの番組で、他の出演者はシナトラの曲をやったのに、あなただけが「レストレス・フェアウェル」を歌ったのはなぜですか?

 

BD: フランク本人からのリクエストだったからだ。プロデューサーの一人が曲を彼に聞かせ、歌詞を見せた。

 

Q: シナトラと最後に会ったのは?

 

BD: そのあと1度だけかな。

 

Q: 初めて見たのは?

 

BD: 67年か68年、ピッツバーグのシヴィック・アリーナで。「サマー・ウィンド」や「デイ・イン・デイ・アウト」「バーモントの月」なんかを歌っていたよ。

 

Q: シナトラは「老い」をテーマにした曲を数多く歌っていますが「ザ・ベスト・イズ・イエット・トゥ・カム」だけは、年齢を拒む曲であり、彼が最後にステージで歌った曲でした。この曲にはどのように取り組みましたか?どうやってあなたの曲、と呼べる曲にしたのでしょう?

 

BD:難しくはなかった。特に変わったことをしたわけじゃない。あの曲には何度もキーチェンジ、つまり転調があるので、何度も横から出たり入ったりしなきゃならなくて、多少チャレンジではある。でも一度、コツをつかめば、案外簡単なんだ。基本はストレートアヘッドなブルース基調のバラードだが、他にはない1曲だ。「マック・ザ・ナイフ」みたいに。でも「マック・ザ・ナイフ」とは当然、全然違う。あまりに古風すぎて、誰にも手を出せないフレーズだ。「もっと素晴らしいことはこれから」というのは、脅かしでもあり、約束でもある。歌詞がほのめかすのは、世界が崩壊しつつあったとしても、さらに良い世界がそこに控えているよ、ということ。曲が曲自体を浮き上がらせてくれるので、こちらが取り立てて何もしなくとも、順調に軌道に乗るんだ。キャロリン・リーが書く歌詞はどれも好きだ。「ステイ・ウィズ・ミー」の歌詞も彼女だよ。

 

Q: 「時の過ぎゆくままに」を聞き『カサブランカ』を思い浮かべない者はいないと思いますが、他にあなた自身の曲にインスピレーションを与えた映画はありますか?

 

BD: 『聖衣』、『キング・オブ・キングス』、『サムソンとデリラ』、他にも何本か。『ピクニック』とか『群衆の中の一つの顔』などもそうかな。

 

Q: 「イマジネーション」のような曲は、ロックンロールのドラムとは全く違うドラミングが必要とされますよね。ソリッドなグルーヴよりは、ビートの周りを飛び回るようでなければならない。そういったリズムで歌うのに、慣れる時間は1分ほど必要でした?

 

BD: ああ。ただしきっかり1分だけだったが。トミー・ドーシー楽団のリズムは常にこういうリズムだよ。君が言う通り、ドラムはビートの周りを飛び回る。そうでなければならないからだ。時計が時を刻むみたいに、心臓が鼓動を打つみたいに、リズムを刻むウォーキング・ベースから、ドラマーは一瞬たりとも目が離せない。その奥底にあるストンプ感っていうのもある。サン・ハウスのようでもあるが、すごく深いところにあるんで、気付かないくらいだ。音だけを聞いていると、ドリーミーで、ピュアなバラードのように聞こえるので騙されがちだがね。この曲をこう聞こえさせているのは、必ずしもドラミングではなく、メロディなんだよ。

 

Q: あなたのバンドにやってきて、ドラマーになる人間は何を知っていなければならないのでしょう?避けるべきことはありますか?

 

BD: 誰もバンドにやってくる予定はないけど。今のドラマーが気に入っているし、最高のドラマーの一人だよ。もし何らかの理由で彼がバンドを抜け、ローリング・ストーンズかどこかに加入するっていうなら、彼に替わる誰かを入れなきゃならないが。避けるべきこと?バンドの連中と仲良くならなきゃと焦りすぎるな、か?曲が「アイ・ゲット・ア・キック・アウト・オブ・ユー」だからといって”kick”という言葉が出てくるたびにシンバルを叩くな、か?ドラマーは曲をリードするのではなく、曲の変わらぬビートとリズミックなフレージングを追う者でなければならない。それができて、物事シンプルに抑えることができるなら、避けるべきことは何もないよ。

 

Q: 好きなドラマーは誰ですか?

 

BD: 大勢いる。ジーン・クルーパ、エルヴィン・ジョーンズ、フレッド・ビロウ、ジミー・ヴァン・イートン、チャーリー・ワッツ。ボブ・ウィルズのドラマー、ケイシー・ディッキンズも好きだ。素晴らしいドラマーはたくさんいる。

 

Q: ソングライターが自ら歌い、シンガーが曲を書くことにおいて、あなたの影響は大きかったわけですが、分担仕事のままにしておいた方が良かったのではないかと思ったことはありますか?

 

BD: 何人かいるね、誰とはすぐには言えないが。歌は素晴らしいのに書く曲はたいしたことない者もいるし、素晴らしい曲を書くが、歌えないソングライターもいる。彼らにとって問題なのは、かつてあったアウトレットがないことだ。かつては映画、ラジオ、テレビのバラティ番組、レコーディング・セッションなど、常に曲が求められていた。だから書いた人間は自分で歌うしかなかった。ソングライターには曲を書く理由がなければならなかったし、それを演奏する目的もなければならなかった。でも時にそれがコネクトしないことがある。それをうまく行かせる魔法の公式があるわけではないんだ。『トリプリケート』に収められたスタンダード曲は全て、一人以上のソングライターが、いろいろな組み合わせで書いた曲だ。オリジナルを歌った歌手自身がその曲を書いたという例は1つもない。自分の曲を書けるなら、それは理想的だろうが、書かなかったとしても誰も責めたりしない。バーブラ・ストライサンドもトム・ジョーンズも書かない。

 

Q: 「メイク・ユー・フィール・マイ・ラヴ」はアデル、ガース・ブルックス、ビリー・ジョエルらにカバーされ、新たなスタンダートとなりました。どのバージョンに打ちのめされました?

 

BD: ああ、これでもかこれでもか、と全部に。

 

Q: 「ブラッギン」はデューク・エリントンが1938年に発表した、ビッグバンド・スウィング風ブルースで、直接ロックンロールへとつながることになったナンバーですが、子供のあなたにロックンロールは新しい音楽だと感じましたか?それともすでに起こっているものの延長だと思えましたか?

 

BD: 間違いなく、ロックンロールはすでに起きているもの、つまりビッグなスウィンギング・バンドの延長だった。プレスリーを聴く前から、レイ・ノーブル、ウィル・ブラッドリー、グレン・ミラーなどの音楽を聴いていたよ。でもロックンロールには、エネルギーがあり、爆発的で、なぎ倒すような勢いがあった。骸骨みたいな音楽だった。暗がりから、原子爆弾に乗っかってやってきて、アーティストは神秘の神々のような頭をしたスターだった。それまでにもリズム&ブルース、カントリー&ウェスタン、ブルーグラス&ゴスペルは区分化されてはいたものの、常にあり、それぞれに素晴らしかった。でも危険ではなかったんだ。ロックンロールは危険なクロムめっきの武器だった。光の速さで爆発し、時代ーー特にその数年前に起きた原子爆弾の存在を反映していた。当時の人間は時代の終焉を恐れていたんだ。資本主義と共産主義の間の最終対決の兆しを感じていた。そんな恐怖を忘れさせ、人種や宗教、イデオロギーの違いによる壁を蹴破ったのがロックンロールだった。人々は死の雲の下に生き、大気は放射能で汚染され、未来はない、明日にも世界は終わるかもしれない、そうなったとしてももうどうでもいい。当時はそんな空気が漂っていた、決して大袈裟ではなく。ロックンロールのもう一方にあったのがドゥワップだった。「イン・ザ・スティル・オブ・ザ・ナイト」や「アース・エンジェル」「ア・サウザンド・マイルズ・アウェイ」といった心に触れる、メランコリックなナンバーは心を忘れてしまったかのような世の中のアンチテーゼだった。ドゥワップ・グループ自体、インク・スポッツやゴスペルの延長だったのかもしれないにせよ、そんなことはどうでもよく、全く新しい音楽として受け止められた。ファイヴ・サテンズやメドウラークスといったグループの歌声は、まるでブロックの向こうの空想の街角から、流れてくるようだった。ジェリー・リー・ルイスは銀河系のどこかから彗星のように現れた。なんてったってロックンロールは原子力を伴っていた。ものすごい勢いで。何物の延長にも見えなかったが、実は多分そうだったんだよ。

 

Q: かつて「バイ・アンド・バイ」や「ムーンライト」といった曲で、あなたはごく初期の映画やレコーディングにおける大衆的な様式を用いました。「デューケイン・ホイッスル」などはデューク・エリントンがやっても良さそうなスウィング・ナンバーです。こういった曲が、最近のスタンダード・アルバムの下地になったと思われますか?

 

BD: ああ、そう思うよ。今の2曲と「シュガー・ベイビー」もだね。「デューケイン・ホイッスル」はもともと、ファッツ・ウォラーの「ジターバッグ・ワルツ」をやるつもりが、そこから少し変えていって出来た曲だが、青写真になっていたのは「ジターバッグ・ワルツ」だったんだ。でもああ、確かにそれらの曲が『トリプリケート』に入っている「バット・ビューティフル」や「イット・ゲッツ・ローンリー・アーリー」といった曲の基礎作りをしたことは確かだ。みだりに手を加えたくなかったので、オリジナル通りに歌ったんだ。

 

Q: パーティで踊るのに合う社交的なレコードもあれば、車で聴くのに最適なレコードもある。今回のアルバムは夜遅く、一人、物思う時間にぴったりのような気がします。あなた自身、そのような時はどういうレコードを聴くのでしょう?

 

BD:   サラ・ヴォーンの『マイ・カインダ・ラヴ』だ。彼女がクリフォード・ブラウンとやったやつもだね。

 

Q: ディスク1&2を楽しく聴いていると、ディスク3であなたの心の深いところに達する気がします。最高と呼べるあなたの歌が聴けるのもディスク3なわけですが、最後までとって置いたのはなぜですか?

 

BD: そういう印象を与えるのは、それがクライマックスに向けて盛り上がっていく人間のストーリーであり、最初から最後までパーソナルなストーリーだからだろう。「なぜ、あのブルーのパジャマを買ったんだろう?」(* 「アイ・ゲス・アイル・ハヴ・トゥ・チェンジ・マイ・プランズ」の歌詞参照)と思うところから、なぜ自分は生まれてきたのかと思うところまで。笑えるくらいにバカみたいなところから、恐ろしいほど深刻なところまで、その途中はけばけばしかったり、汚らわしかったり。瀬戸際まで追い詰められ、疲れ果て、良い知らせを待ちわびる。人生、良い知らせがあるもんじゃないかい?まさに「スカイラーク」のように、心が影や雨を越え、旅をする、そういう旅路なんだ。それが全てだ。心の旅路だ。一番良いものは最後にとっておかないとね。

 

Q: 他の曲とフィットしない、ちょっと変わった曲があったならアルバム1曲目に持ってくればいい。「雨の日の女」、「ジョン・ウェズリー・ハーティング」、ジョニー・キャッシュとデュエットした「北国の少女」、「オール・ザ・タイアード・ホーシズ」、「トゥイードル・ディー&トゥイードル・ダム」、皆そうですよね。ちょっと変わった曲をまず聞かせ、そのあと、ようやくアルバムが始まると言う。なぜ、そうするのですか?

 

BD: 「トゥイードル・ディー&トゥイードル・ダム」が変わった曲だとは全然思わないぜ、これっぽっちも。当時にしても、今にしてもかなりスタンダードな曲だったから、あれはどこにでも持っていける曲だった。でも「トゥイードル〜」以外の曲は確かに「この曲をどうしようか?置き場所がない」と思ったのは確かだ。おそらく、1曲目に持ってきたのは、そうすることで他の邪魔にならないように道を空ける、という意味があったんだろう。だが「雨の日の女」がそうだったかは、はっきりしない。あれは「その後はこういうアルバムになるよ」ということを知らせる鐘楼のようなものだったんだと思う。「オール・ザ・タイアード・ホーシズ」はいわば雰囲気のためだけの曲だった、前奏曲のような曲。確かにそれ以外の曲は、レコードの流れを壊してしまう曲ではあったね。

 

Q: 「ゼアーズ・ア・フロー・イン・マイ・フルー」はとても変わった曲です。ある種のトーチソングへのパロディ、という気もします。とくに「煙が鼻にしみる」という行とか。サミー・カーンは半分おふざけでこの歌詞を書いたと思いますか?

 

BD: いや、そうは思わない。誠意あるロマンティックなバラードだと思っているよ。煙が鼻にしみる、というのはメタファーだったのかもしれない。それでいて、文字通りのリアルな意味もあったんだろう。ブルースやフォークにはそういう歌詞はよく登場する。「俺のバケツには穴が空いている」とか「俺の通る道には石がある」「俺のモーターは回らない」「俺の浴槽には輪じみがある」「煙が鼻にしみる」。ブラインド・レモンのバラードで歌われる「肉もない 小麦粉もない一日だった」と大して変わらないよ。もちろん、ロマンティックなバラードなんだよ。でもそう簡単に忘れることのできない曲だ。暖炉の炎が家全部を燃やしてしまうことだってあるからね。この曲に生命力を与え、他の曲に欠けているもの、それが完璧に言葉と絡み合う絶妙なメロディだ。私も家の暖炉に色々なイメージを重ね合わせてきたよ。「マイ・ファニー・バレンタイン」の「君は賢いの?」は遊び心を感じる1行だ。思うに、この曲はメロディがモナリザの絵の背景の役割を果たしている。神秘的で、次々と変わっていく幻影のようなファンタジーの世界。それこそ、私が考える本物の絵画、まるでSFの世界。こちらを見ているのは単なる「顔」に過ぎず、彼女が微笑みかけているのか、嘲笑っているのかわからない。彼女はこれといった精神性を持っていないからだ。私には彼女は女性かすら、確信がないよ。でも背後にあるメロディが心をとらえる。つまり「暖炉の煙突が壊れてしまった」と歌われるのも一緒で、その先を見ようとか聞こうとかせずに、そのままとしてとらえればいい曲だ。素晴らしい曲だと思う。おふざけなんかじゃない。

 

Q: これら古い曲と長い時間を過ごしてこられ、次にあなたが曲を書く時に、その影響を受けると思いますか?

 

BD: それは疑わしいね。これらのメロディは音楽論に基づいて構成されている。拍子はトリッキーだし、メロディも私なんかの想像を越える変化に富んでいる。その世界になじみがない限り、影響を受けるのは難しいだろう。メロディやフレーズの一部に影響を受けるのがせいぜいだろう。歌詞面で影響を受けることはないと思うよ。

 

Q: このようなスタイルの音楽をやっている誰か、例えば、ダイアナ・クラールとか、ハリー・コニックとかに曲を書いてみたいと思いますか?トニー・ベネットなどどうでしょう?

 

BD: いいや、トニーに曲を書こうと考えたこともない。彼からも頼まれたことはないし、頼まれたとしても書けないだろう。

 

Q: これらの曲をレコーディングしたシンガーの多くは、イントロの歌詞をカットしていましたが、あなたはそうしませんでしたね。「わが人生の九月」も「P.S.アイ・ラヴ・ユー」も「青春の思い出」も。例えばビートルズは、イントロの歌詞を書くこともありましたが(「ヒアー・ゼア・アンド・エヴリウェア」の”to lead a better life, I need my love to be here”が一例)、あなた世代以降のコンポーザーでそれをした人はほとんどいないと思います。あなたはどうですか?

 

BD: 一度もないね。やるとしたら、曲を全部書き終えた後に、書き加えるのだと思うよ。歌詞のあるイントロ、ということで好きだったのは「ミスター・ブルー」の「僕らの守護星がその輝きを失ってしまった」というやつだね。あれは最も美しいイントロの一つだ。「スターダスト」にも実はイントロがあるが、誰もあの部分を歌わない。今、私たちはイントロと呼ぶが、当時はヴァースと呼ばれていた。私らが”曲”と呼ぶものも、当時はリフレインだった。「スターダスト」にはそれが必要なかった。でも「わが人生の九月」には必要だ。リフレインなしでは曲が成り立たないんだ。

 

Q: ビートルズも「P.S.アイ・ラヴ・ユー」という曲を書きました。ボビー・ルイスの「トッシン・アンド・ターニング」は「恋に眠れぬ夜」を少し使ったものでした(*オリジナルヴァージョンでの冒頭は”I couldn’t sleep at all last night”という歌詞だった)。ロック・ソングライターが誕生して最初の10年、彼らは自分たちの前にあった音楽を学んだ生徒だったわけです。それが70年代頃から、新しいロックをやる人間が知るのはロックのみ、たまに少しのブルースだけになってしまいました。何が失われてしまったのでしょう?

 

BD:1970年から今まで約50年経ったわけだが、まるで5千万年経ったかのように思える。それが、古い音楽と新しい音楽を分断する「時」の壁だ。その時の中に多くの音楽が忘れ去られてしまった。業界すべてが変わり、生活様式も変わった、企業は街を殺し、古い法律は新しい法律にとって代わられ、個人よりも団体の利益が尊ばれ、貧しい人たちが消費されるようになった。音楽の影響もだ。音楽は飲み込まれ、新しいものに吸い上げられるか、道の傍らに置き去られた。でもだからと言って、自分にはどうしようもないことだと落ち込むこともない。足跡をたどって戻れば、探していたものはまだ見つけられる。気づけば、最後にいた同じ場所にいるかもしれない。なんだって可能だからね。問題はそこに今を持って帰ることはできないので、そこにとどまるしかない、それをもって。つまりそれがノスタルジアってことなんだ。

 

Q: 『トリプリケート』をノスタルジックだ、という人もいるでしょうね?

 

BD: ノスタルジック?私はそうは呼ばないね。思い出をたどる旅をしているわけじゃないし、古き良き時代や、今はもう無い楽しかった記憶を懐かしみ、憧れているわけじゃない。例えば「センチメンタル・ジャーニー」みたいな曲は大昔の曲というわけじゃないし、過去を模倣しようとしているわけじゃない。手に届きやすいし、現実的で、今この場にある。

 

Q: あなたの「センチメンタル・ジャーニー」はロジャー・ミラーを少し思い起こさせました。一種のフォーク・ソングですよね?

 

BD: ああ、一緒のね。その領域と言っていいね。レッドベリーが書いていても良さそうな曲だ。そういう曲はたくさんあるよ。「モーニン・ロウ」「ヒーズ・ゴーン・アウェイ」「アイ・ガット・イット・バッド・アンド・ザット・エイント・グッド」など。これらの曲の作者はフォークやブルースの影響を受けていたんだ。

 

Q:非常にセンチメンタルな曲もありましたし、その多くが失恋を歌った曲でした。誰とはお聞きしませんが、これらの曲を歌う時に思い浮かべる現実の女性はいらっしゃいますか?一人以上ですか?

 

BD: 現実の?そりゃあ、間違いなく。そう願いたいよ。

 

Q: アレンジャー、ジェームズ・ハーパーとの仕事はいかがでしたか?彼にはどんな要望を伝えました?「荒れ模様」のアレンジは実に凝っていますね。潜水艦のようなドラマティックなドローンから、ハワイアン・ギターに形を変えていく・・・。あなたが「ちょっとやりすぎだ。少し抑えてくれ」と言うこともあったのですか?

 

BD: トランペットの音があまりに甲高いので、少し抑えてくれ、ということは何度かあった。でもそれ以外で彼にディレクションを出す必要はなかったよ。自分でホーンのアレンジをしろと言っても無理だしね。こう言う状況では、相手が誰であれ、ディレクションを出すことはない。彼らの能力に自信を持ち、彼らならできると思わなきゃ。ジェームズの妨げになることはしたくなかったよ。じゃなきゃ、最初から彼を雇わない。「荒れ模様」でのオーケストレーションは完璧だった。しかも多くの人によってやり尽くされた曲だという点では、とても難しい曲だったからね。

 

Q: 「ただひとつの恋」はもともと「ミュージック・フロム・ビヨンド・ザ・ムーン」という曲をリライトした曲でした。オリジナルが失敗し、新しい作詞家が呼ばれ、既存のメロディに全く新しい歌詞で書き換えたところ、2度目でヒットしたという曲。フォークやブルース・ソングではそれを”フォークのトラディション”、ロック・ソングだと”盗作”と呼ばれ、ヒップホップだと”サンプリング”になる。でもそうやってどんなジャンルの音楽でも、それは行われてきたことなのですね?

 

BD: そうだと思うよ。前例はどんな曲にも必ずある。世の中、たいていの曲は別の何かを模倣しているものだ。壮大なるビジョン、抑えることのできないほど入り組んだアイディア、自分の手には負えないテーマも、どこかで目にした新聞の切り抜きや看板や古いディッキンズ小説のあるパラグラフ、もしくは別の曲の歌詞の1行、誰かが言った一言を、自分でも気付かぬうちに覚えていて頭の中に残っていたものなのかもしれない。それがきっかけとなり、具体的なディテールが生まれる。夢の中で歩いているみたいもんさ。何かを探しているわけではないが、何かが送られてくる。それまで遠くで見つめていたのに、気づくとそのど真ん中に立っている。アイディアが浮かんだら、その先は見るもの、読むもの、味わうもの、臭うものすべてが何かを暗示してくる。アートとはそうやって形を変えるんだ。自分がアートに仕えなくとも、アートがこちらに仕えてくる。いずれにせよ、アートは人生のひとつの表現に過ぎず、本物の人生じゃない。用心せねばならないところだよ。 さじ加減を一つ間違えれば、アホっぽいものになってしまうからね。ミケランジェロのダビデ像も、本物のダビデではない。それがどうしてもわからず、蚊帳の外に置いてけぼりの人間も必ずいる。オリジナルなものを作るには、驚きもいっぱいってことさ。

 

Q: ジャズ・ミュージシャンはそれ以外のこともやりながら、必ずスタンダードを演奏してきました。「ホワイ・ワズ・アイ・ボーン」と「ただ一つの恋」はジョン・コルトレーンも録音しています。コルトレーンはあなたと同時期にヴィレッジで演奏していますが、お会いになったことはありますか?

 

BD: ブリーカー・ストリートのヴィレッジで、何度か見たことがある。ジミー・ギャリソンとマッコイ・タイナーが一緒だったよ。

 

Q: 数年前、あなたのコンサートに行ったら、偶然隣の席がオーネット・コールマンでした。終演後、バックステージを訪れると、有名なロックミュージシャンや俳優たちが大勢待ち受けていて。でもあなたが楽屋に招き入れたのはオーネット一人でした。彼のようなジャズメンとは繋がりを感じますか?

 

BD: ああ、昔からね。オーネットは少しだけ知っている。共通点もある。彼はいくつもの逆境を経験してきたんだ。批評家からは叩かれ、他のジャズプレイヤーから嫉妬された。あまりに斬新で画期的な音楽を作っていたから、周囲は理解できなかったんだ。私がやってきたことと、そのことで受けた仕打ちと、そう違わないんだ、音楽の形は違ったが。

 

Q: 「ホェアー・イズ・ザ・ワン」のような脆く感傷的な曲を、あなたが書くのは想像できないのですが、こういった曲はご自身の曲では行くことのできない場所にあなたを連れて行ってくれるのでしょうか?

 

BD: そりゃもちろんさ。自分では絶対に「ホェアー・イズ・ザ・ワン」は書かないが、まるで自分のために書かれた曲だった。だから書かなくても済んだんだ。それは脆弱で、守られる場所。そういう場所に行くのは楽ではない。透明人間にでもなってその場を通り過ぎるしかない。さもなければ、壁をぶち壊しながら、真っ裸になるか。で、そうやって辿り着いたところで、なんでこんなことする意味があるんだ?と思わねばならない。すでにそこには誰かが来ていて、すべてをとって、去って行った後だ。だから自分以外の他人が、自分のために書いてくれるしかないんだ。触れられるには痛すぎるところだ。自分をさらけ出しすぎることになる。自分ではそこには絶対に行かないよ、曲を書くために、ということであればなおさら。

 

Q: ピアノの前で思い浮かんだ素晴らしいメロディが、シンガーとしてのご自身の音域ではないものだった、ということはありますか?他のシンガーを想定して曲を書いたことはありますか?

 

BD: 同じ主題の対比バリエーションをピアノで弾きながら、音域を上に、下に、と変えていくということをよくやるよ。するとメロディは私自身の音域からは外れてしまう。でも、何かを歌おうとしているんじゃないんだ。ただメロディを弾いてるだけなんだ。他のシンガーを考えて曲を書いたことは一度もない。

 

Q: ここ数年のあなたはステージでは主にピアノを弾き、ギターはほとんど弾かれません。なぜですか?

 

BD: サウンドチェックや家では弾いているよ。でもピアノの方がバンドとの相性がいいんだ。私がギターを弾くと、バンドのダイナミクスが変わってしまう。あとはピアノとギターの間で行ったり来たりするのが、なんだか退屈だと感じるかもしれない。いずれにせよ、自分は100%リズム・プレイヤーだ。ソロ・プレイヤーではない。ピアノがスティール・ギターとがっちりと一体化した時、ビッグバンドでオーケストレートしたリフみたいになる。私がギターを弾いてしまっては、そうはならない。私がギターを弾くと、違うバンドになってしまうんだ。

 

Q: ウィリー(ネルソン)で有名な「スターダスト」をやるのは大変かと思いますが、彼のバージョンは頭にありましたか?

 

BD: 「スターダスト」はダンス・バラードなので、そのように演奏したよ。頭にあったのはアーティ・ショウの事だ。

 

Q:去年は数多くの偉大な人々がこの世を去りました。ムハメッド・アリ、マール・ハガード、レナード・コーエン、レオン・ラッセル。特にその訃報にショックを受けた人はいますか?

 

BD: もちろん、全員ショックだったさ。僕らは兄弟だった。皆、同じ道の住人だった。彼らの立っていた場所はぽっかりと空いたスペースだけが残された。彼らがいないのは寂しいよ。

 

Q: あなた自身、たくさんの伝説的なミュージシャン、俳優、作家をご存知だと思いますが、振り返ってみて「ああ、生きている時にもっとその良さをわかっていればよかった」と思う人はいますか?

 

BD: 誰が偉大で、誰が偉大じゃないか、ということは言えない。誰かが偉大な功績を残したとしても、それはほんの1分だけ。誰にだって可能だ。偉大さは自分で制御できることではなく、偶然手に入れるものだと思う。しかもほんのわずかの間。

 

Q: あなたのツアーで前座を務めた人、ダブルヘッドライナーで回ったかなりのビッグネームも含め、あなたが自分たちと一緒にいてくれたり、気軽に話しかけてくれなかったことを残念がる声をよく聞きます。なぜ、そうしないのですか?

 

BD: さっぱりわからん。なぜ、私と一緒にいたいなんて思うんだ、そもそも?ツアーではバンドとは一緒にいるよ。

 

Q: T・ボーン・バーネットがエルヴィス・コステロ、リアノン・ギデンス、ジム・ジェームズ、マーカス・マムフォード、テイラー・ゴールドスミスを集め、あなたの古い歌詞をベースに曲を完成させた『ザ・ニュー・ベースメント・テープス』ではお聞きになりましたか?「こんな曲を書いた記憶はない」という曲はありましたか?

 

BD: テイラー・スウィフト、って言ったか?

 

Q: いや、テイラー・ゴールドスミスです。

 

BD: だよな、OK。いや、あそこにあった曲は1曲として、書いた記憶がない。ウッドストックの通称ビッグ・ピンクから出てきた古いトランクの中で見つかったが、『ザ・ベースメント・テープス』のレコーディングをしてた時に使わなかった歌詞が大半だ。T・ボーンがこれを使って何かができる、曲を完成させられる、と言った。正直、あれらに関しては何も覚えていない。書いた曲は全て使いきったと思っていたんだ、何年も。

 

Q: あなたのコンサートの客席には、大統領から王族、法王、映画スター、ビートルズ、ムハメッド・アリまで、各種セレブが座るわけですが、特に緊張させられた人は誰ですか?

 

BD:全員だ。

 

Q: あなたとジョージ・ハリスンがエルヴィスとレコーディングする予定だったのに、スタジオに現れなかったという話を聞いたことがあります。真相は?

 

BD: エルヴィスは来た。すっぽかしたのはこちらだ。

 

Q: ウォーレン・ベイティは『俺たちに明日はない』のクライド・バロウ役をあなたに演じてほしかったと言っています。実際にオファーはあったのでしょうか?

 

BD: いいや。マネージャーのオフィスまでは届いていたが、私とマネージャーは当時、話をしてなかった。仲違いしてたんだ。オフィスに届いた手紙、オファー、何も私は知らされなかった。

 

Q: フェイ・ダナウェイとラヴシーンが演じられていたのにと、悔やみますか?

 

BD: いいやぁ。

 

Q: シンガーソングライターについて伺います。イギリスとアメリカ、南部と例えばカナダ、というように土地がソングライターの資質を変えるのでしょうか?

 

BD: やられたね。私が人類学者だったら、答えられるのかもしれないけど、正直見当もつかないよ。でも今は皆、軽く文化も時間差も国も超えてしまっているからね。誰が答えられるか、わかったよ。アラン・ローマックスかセシル・シャープだね、そのいずれかだ。

 

Q: ハリケーン・カーター、ジョーイ・ギャロ、ジョージ・ジャクソン、キャットフィッシュ・ハンター、と同時代の人間を曲にすると、彼らの親戚から電話がかかってきて、あれこれと頼まれる、というようなことはありますか?

 

BD: 滅多にないよ。ウィリー・マクテルの姪っ子が会いに来て、古い写真を見せてくれた。何か見返りを求めてたわけじゃなくて、良い人だったというだけだ。

 

Q: もっと注目されるべき曲だった、とご自身で思うあなたの曲は?

 

BD: 「ブラウンズビル・ガール」と、もしかしたら「イン・ザ・ガーデン」かな。

 

Q: 長いこと、世界中を旅してこられてきて、やはりミネソタは他とは違う、と思える部分はありますか?ミネスタの人間には、他の土地にはない資質がありますか?

 

BD: 必ずしもないよ。ミネソタにはミネソタ独自の「メイソン・ディクソン線」(*1889年、ペンシルバニアとメリーランドの間に引かれた境界線。目に見えぬ、アメリカ北部と南部を隔てる境界線、と言われている)が存在する。私の出身のミネソタ北部と、ミネソタ南部はとても違う。南部はまるでアイオワかジョージアにいるみたいだ。北は天候も厳しく、冬は凍傷に苦しみ、夏は蚊に食われっぱなし。子供の頃はエアコンなんて無かったから、冬は家の中では蒸気暖房、外出する時は何枚も重ね着をする。血が濃くなり、体が慣れて寒さを感じなくなる。The Land of 10,000 Lakes(1万の湖がある土地)と呼ばれるだけに、狩りと釣りが盛んだ。インディアンの土地だ、オジブウェ族、チッペワ族、ラコタ族。樺の木、露天堀鉱山、クマ、オオカミ、とにかく空気は冷たい。一方で、ミネソタ南部は農業が盛んで小麦畑と干し草、トウモロコシ畑、馬、乳牛がいっぱい。北部は地が痩せていて、過酷な環境だ。人々は簡素な生活を送っている。他にも人が簡素な生活を送っている土地はあるだろう。結局、人間っていうのはどこに行っても同じなんだ。どんな人間にも良い面、悪い面はあり、それは何州に住んでいようと関係ない。他と比べて、より自立している者、していない者、安定している者、していない者、他人事に干渉しない者、干渉する者。人それぞれだ。

 

Q: 身近にインディアンが大勢いるところで育ったのですか?

 

BD: いや、彼らは保留地に住んでいて、街に来ることはめったになかった。独自の学校、その他もろもろを持っていた。

 

Q: 狩り、または釣り。お好きでしたか?

 

BD: 母方のおじさんと森に入ったよ。おじさんは狩りの名手だったので、私に教えてくれようとしたが、向いてなかった。嫌いだったね。

 

Q: 釣りはしましたか?

 

BD: もちろん。釣りはみんなやったよ。バス、チョウザメ、フラットヘッド・キャットフィッシュ、レイクトラウト。みんなで釣って、きれいに洗った。

 

Q: 銃はお好きでしたか?

 

BD: 単発のリボルバーだけ。オートマチックはやらない。ペレットガンでツーバイフォーの木片を撃って遊んだが、あれは楽しかった。ペレットガンは空気銃だが、22口径と同じくらいの威力がある。

 

Q: ヒューバード・ハンフリーはミネソタの大物政治家だったわけですが、実際に見かけた事、もしくは会った事はありますか?

 

BD: 一度もない。見かけた事もないよ。

 

Q: 最初ロックンロールを好きになった時、その熱意を分かち合える友達はいましたか?ティーンエイジャーのあなたが、一緒に曲を書こうとした相手はいましたか?

 

BD: ガールフレンドだけだ。私がギターを弾き、二人ですでにある曲に、新しい歌詞を書いた。同時に、街の幾つかのロックンロール・バンドでも演奏していたが、ある時、突然ひらめいたんだ。レッドベリーとジョシュ・ホワイトを聞き、すべてが変わってしまった。

 

Q: 初めて訪れたミネアポリスはどんなでしたか?

 

BD: ミネアポリスとセントポールは、2つ合わせていわゆる”ツイン・シティーズ”だったわけだが、どちらもロックンロール・タウンだったよ。私は知らなかったんだ。ロックンロール・タウンはメンフィスとシュリーブポートだけだと思っていたんだ。ミネアポリスではノースウエスト・ロックンロールが盛んだった。ディック・デール、ヴェンチャーズ、キングズメンもよく演奏していた、イージー・ビーツ、キャスタウェイズ、サーフ・バンドとかも、どれもボルテージの高いグループだった。リンク・レイの「ブラック・ウィドウ」とか「ジャック・ザ・リッパー」とか、ノースウエスト・イントゥルメンタリストもの「トール・クール・ワン」とかもね。シャドウズの「フライン・ハイ」は大ヒットした。ツイン・シティーズではサーフィンとロカビリーが全盛だったよ。音量は最大限、リヴァーブ、トレモロ・スイッチ、とにかくフェンダー、エスクワイアー、ブロードキャスター、ジャガー、折りたたみ椅子の上にアンプを乗せて、その椅子でさえフェンダーみたいに見えたもんだ。サンディ・ネルソンのドラミング。それから少しして(*ザ・トラッシュメンの)「サーフィン・バード」がミネアポリスから出てきた時も驚きはしなかったよ。

 

Q: あなたも方向転換しようかと考えましたか?

 

BD: すでに違う道を歩み始めていたし、すでに意識を新たにした後だったからね。レニー・ブルースとロード・バックリーを聴き、ギンズバーグとケルアックを読み、人間の存在や本質への意識はすでに高かった。異なるグループの人間たちとも付き合い始めていた。彼らは刺激的で、自由精神の持ち主だった。生身の本物の詩人だったり、反抗する女の子だったり、フォーク歌手だったり。他人に縛られることなく、メインストリームとは距離を取り、自らを切り離す。私も過去から救い出され、過去から解き放たれた。だからまたボタンダウンのシャツとクルーカットの世界に戻る気はなかった。誰のためにも、何のためにも。当時持っていた小さなレコード・プレイヤーで聴いていたのはガス・キャノン、メンフィス・ミニー、スリーピー・ジョン・エスティスといったプレイヤーたち。チャーリー・プールも、ジョーン・バエズだって聞いていた。探していたんだよ、自分のアイデンティティを。きっとそのどこかにあるに違いないとわかっていたんだ。

 

Q: ジョーン・バエズのことをどう思っていましたか?

 

BD: 彼女は別格だった。受け入れるには、トゥマッチだというくらいに。その声はまさに古代ギリシャの島から聞こえてくるセイレーンのようで、その音色だけで呪文にかかってしまう。本当に魅力的な女性だった。(ギリシャ神話の)オデュッセウスのように船のマストに身を縛り付け、耳栓をして歌声が聞こえないようにしなければならない。自分が何者であるかを忘れさせてしまう女性だった。

 

Q: キャリアのごく初期、 あなたは「エド・サリバン・ショウ」の出演を土壇場で止めて帰ってしまったことがありました。生放送で、ミネソタのあなたの友人やご家族はテレビの前であなたが出てくるのを楽しみに待っていたのではないですか?

 

BD: それはどうかな。名前を聞いても、わからなかったはずだ。顔さえわからなかったんじゃないかと思うよ。テレビを見ながら、名前を目にしたとしても、それが私だとはわからなかったはずだ。あそこに住んでたあの少年だ、とは思わなかっただろう。

 

Q: 多くのソングライターが曲の中であなたを登場させました。ジョン・レノンは「ヤー・ブルース」で、リッキー・ネルソンは「ガーデン・パーティ」で、デヴィッド・ボウイは「ソング・フォー・ボブ・ディラン」で。まだ沢山ありますが、お好きな曲はありますか?

 

BD: 「ガーデン・パーティ」だ。

 

Q: ドン・マクリーンの「アメリカン・パイ」では、あなたは道化師ということですが。

 

BD:あったね、ドン・マクリーンの「アメリカン・パイ」、なんて曲だろうね、あれは。道化師?もちろんさ、道化師は「戦争の親玉」や「はげしい雨が降る」や「イッツ・オーライト・マ」といった曲を書くんだよ。大した道化師だ。別の誰かのことを歌っていたんじゃないかと思いたいが。彼に聞いてみてくれ。

 

Q: トム・ウィルソンはミステリアスな存在で、どういう人だったのか、あまり知られていません。プロデューサーとして彼がもたらしたものは何ですか?

 

BD: トムはジャズ畑の人間だった。たくさんのジャズ・レコード、主にサン・ラのレコードをプロデュースした。ある日、振り向いたら後ろにいたんだよ。今でこそ、人は彼をプロデューサーと呼ぶが、当時はそうは呼ばれていなかった。典型的なA&Rマン、つまりレパートリーの責任者だった。しかし私には自作の曲があったから、レパートリーは必要なかったので、A&Rが何をする人間なのかわからなかった。当時は直接、エンジニアと話すことが許されなかったので、エンジニアとのコミュニケート役としてレコード会社から誰かが同席しなきゃならなかったんだ。(レコーディング)ボードはとてもシンプルで、2トラック、多くて4トラック。スタジオに入り、ライヴでレコーディングし、テイクを重ねる。誰かが間違えれば、最初からやり直す。納得いくバージョンが録れるまで、とにかくやり続ける。それがメジャーなレコーディング・スタジオのやり方で、ブライアン・ウィルソンやフィル・スペクターのレコードみたいに、バウンス作業を繰り返してトラックを空にする、そんな録音方法をとるところはなかったんだ。

トムはハーヴァード大を出たエリートだが、現場対応力がある男だった。最初会った時、彼が夢中なのはオフビート・ジャズだった。それでも私がやりたいことには誠意と熱意を持っていてくれて、ボビー・グレッグやポール・グリフィンといった一流ミュージシャンを連れてきてくれたんだ。何をその時、やろうとしていたか、彼らは鋭く見抜いてくれた。大概、スタジオミュージシャンにはそこらへんは何もわからない。フォーク・ミュージックもブルースも聞いてない連中だったからだ。私を通じて、トムの世界も広がったんじゃないかと思う。そのあと、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドやマザーズ・オブ・インヴェンションといったグループのレコーディングをするようになったことを考えるとね。生来、いいやつだった。支えになったよ。

 

Q: 音楽はどういうフォーマットで聞いていますか?ストリーミングは利用していますか?

 

BD: ほとんどCDで聴く。

 

Q: 最近、良かったレコードはありますか?

 

BD: イギー・ポップの『Apres』は良かったね。イメルダ・メイ、彼女は好きだよ。ヴァレリー・ジューン、ステレオフォニックス。ウィリー・ネルソンとノラ・ジョーンズのアルバム、ウィントン・マルサリスが入ってるやつ、レイ・チャールズのトリビュート・レコード、エイミー・ワインハウスの遺作も好きだった。

 

Q: 彼女のファンでした?

 

BD: ああ、もちろん。最後の真に個性的なアーティストだったね。

 

Q: 家に初めてのテレビが来たのは何歳の時でしたか?どんなTV番組が印象に残っていますか?

 

BD: 14か15の時だった。父親が地下の部屋に置いたんだ。3時くらいから放送が始まり、9時には終了。それ以外の時は、ずっとへんてこな円形のシンボルのテストパターンを映し出していた。受信状態はあまりよくなかった。画面はいつも雪が降ってるみたいだったから、しょっちゅうアンテナを調整しなければならなかった。テレビで見るものは何でも好きだったよ。ミルトン・バール、シド・シーザー、「ハイウェイ・パトロール」「パパは何でも知っている」、「スタジオ・ワン」や「ファイアーサイド・シアター」などのドラマ・シリーズ、クイズ番組なら「ビート・ザ・クロック」「トゥ・テル・ザ・トゥルース」「クイーン・フォー・ア・デー」どれもみんな良かった。ウォルター・クロンカイト司会の「ユー・アー・ゼア」というのもあったね、「トワイライト・ゾーン」も。たくさんあったよ。

 

Q: あなたのバスの中では、どんなテレビを見ますか?

 

BD: 「アイ・ラヴ・ルーシー」がずっと流れっぱなしだ。

 

Q: PBSをつけると、60年代フォーク・ミュージックのドキュメンタリー物ばかりをやっていて、当時のシーンの人間が、あなたのことをさも親友だったように語っているのを目にします。嫌じゃないですか?

 

BD: どうだろうね、もしかするとそいつと親友なのかもしれない。覚えていない。

 

Q: 1966年のあなたは誰も見たことがないほどワイルドな髪型をしていました。でも髪をピタリと撫でつけて外出すれば、誰からも気づかれなかったということはないですか?

 

BD: ああ、そうしたくはなかった。リトル・リチャードみたいになりたかったんだ。あれは当時の俺流リトル・リチャードさ。ワイルドな髪にしたかったんだ。みんなに気づいて欲しかったんだ。

 

Q: 1966年にジョン・ウェインに会われていますね?意気投合しました?

 

BD: 実際、案外気が合ったんだ。デュークと会ったのはハワイの戦艦でだ。バージェス・メレディスとの映画の撮影中だったんだ。昔付き合ってたガールフレンドの一人もその映画に出ていたんで、彼女が来ないかと誘ってくれて、紹介してくれたんだ。すると何かフォーク・ソングを弾いてくれと彼から言われた。そこで「バッファロー・スキナーズ」と「ラグル・タグル・ジプシー」と、確か「ランブラー・ギャンブラー」を弾いた。もしいたければもう暫くいて、映画に出てくれていいよ、と言われた。とてもフレンドリーだったよ。

 

Q: 「ワゴン・ホイール」はあなたの古い未完の曲を、オールド・クロウ・メディシン・ショウが完成させ、ヒットさせたものです。以来、マムフォード&ソンズにもカバーされ、デリアス・ラッカーのバージョンはグラミーを受賞しました。あなた自身がレコーディングする予定は?

 

BD: レコーディングはしてるよ。古いブートレッグ・レコードに入っている。ロジャー・マッギン、リタ・クーリッジ、ブッカー・Tらとハリウッドの映画スタジオで録音したんだ。それだよ、タイトルが違っているがね。

 

Q: ハリウッド、ということで言うと『トリプリケート』はハリウッド録音ですね?

 

BD: そうだ。キャピトル・スタジオだ。

 

Q: 『トリプリケート』というタイトルで思い出すのはシナトラの『トリロジー』ですが、何か影響はあるのでしょうか?

 

BD: ああ、ある意味ではね、アイディアの部分で。3枚で1つだとは最初から思っていたんだ。アイスキュロス、「オレステイア」、ギリシャ三部作のように。そういうものとして思い描いてたんだ。

 

Q: 3枚のディスクはそれぞれ異なるストーリーを語っています。最初からそのように考えていたのですか?それともやっていくうちにそうなったのでしょうか?

 

BD: テーマは最初に決めた。演劇的な感覚で、まずは大きなテーマがあり、それぞれが生存者や愛人、英知とか復讐、追放といったことに付随する。ディスクは1枚ごとが次に来る1枚の前触れ。ただしディスク内ではどの1曲も優位に立つことはない。昔の女房の話や思い出話ではなく、もっと堅実な世間の暮らしとそこに隠された現実だ、と認識してるよ。

 

Q: そこまできっちりと考えていたのですか?

 

BD: いや、そこまでは考えてなかったが、無意識には考えていたと思う。

 

Q: 候補に入れてあったものの、その3つのストーリーにフィットしないという理由で外した曲はありますか?

 

BD: ああ、あったよ。「波止場にたたずみ」「バーモントの月」「レッツ・フェイス・ザ・ミュージック・アンド・ダンス」など。

 

Q: 最初のアプローチと、出来上がりが全く違ってしまったという曲はありますか?

 

BD: いいや、自分の曲の場合はそういうこともあるが。何度か、やりたかった曲なのに私が間違ったアプローチを選んでしまったことがあった。「ディープ・イン・ア・ドリーム」は録音したものの、響いてこなかったのでボツにした。そもそもアプローチを間違っていたんだ。

 

Q: 自分では絶対に書かないけれど、誰かが書いてくれてよかったと思える歌詞はどれでしょう?

 

BD: たくさんあるよ。「あなたが私の訴えを 心に留めてくれるかもしれない そう考えただけでゾクゾクしてしまう」とか「私の心がどんなにときめいているか ぎこちない言葉で伝えようとした」とか「あなたはひとりぼっち 子供達も皆大人になり ムクドリのように巣立っていった」などは、誰かが書いてくれてよかった。自分では絶対に書かないから。

 

Q: 1920年代から1950年代初めまで、ブルース、ポップス、カントリー、ジャズの境界線は非常にフレキシブルでした。ロバート・ジョンソン、ジミー・ロジャーズ、ビング・クロスビー、レイ・チャールズなども、すべてを試していました。アメリカン・ミュージックはなぜ、そういったスタイルの間に高い柵を作ってしまったのでしょう?

 

BD: 同化せねばならない、というプレッシャーからだろう。

 

(*訳者注)

原文は下記より

Q&A with Bill Flanagan

MAR 22, 2017

Exclusive to bobdylan.com

http://www.bobdylan.com/news/qa-with-bill-flanagan/