ビリー・グリフィン

ビリー・グリフィンといえば、元ミラクルズのリード・シンガーとして御存知かと思う。



前任者はもちろんスモーキー・ロビンソン。イヤ、前任者と呼ぶのは相応しくない。



在籍後半はスモーキー・ロビンソン&ザ・ミラクルズと名乗ったように、シンガー、ソングライター、プロデューサーとして大活躍するスモーキーこそミラクルズの魅力そのものだった。



しかも1964年からは所属するモータウン・レコードの副社長を務め、テンプテイションズ、マーヴィン・ゲイ、シュープリームス、マーヴェレッツ、メリー・ウェルズなど、多くのアーティストをプロデュースしていた。そこにミラクルズの成功が重なり多忙を極めたスモーキーは、次第に家族との時間を重視するようになる。



そして’70年末に<涙のクラウン>が初めての全米No.1を記録。翌年には娘の誕生で家族が増えたこともあり、’72年に結局ミラクルズを離れることになった。そのフェアウェル・ツアーのオーディエンスに紹介されたのが、ズブの新人シンガー、ビリーであった。



彼は 1950年8月15日、ボルティモアの生まれ。



ミラクルズ加入の約2年前、LAで行われたモータウンのオーディションを受けている。この時のパフォーマンスがモータウン首脳の記憶に残っていたようで、素早くメンバー交替を済ませたいと思っていたミラクルズに引き会わされたらしい。それまでにLast Dynastyというバンドで歌っていたという資料もあるが、本格的な活動はミラクルズが初めてだったと思われる。



ビリーがミラクルズの一員として発表したアルバムは、以下の7枚がある。



1973年 RENAISSANCE

1974年 DO IT BABY

1975年 DON’T CHA LOVE IT

1975年 CITY OF ANGELS

1976年 THE POWER OF MUSIC

1977年 LOVE CRAZY

1977年 THE MIRACLES



ビリーを迎えた新生ミラクルズは、スモーキー時代と違ってコーラス・ワークを活かす方針を取り、まずまずのスタートを切った。またビリーの二枚目ぶりが受け、若い女性からの支持を広げることができた。



そして’75年、彼のキャリアで最高の瞬間が訪れる。コンセプト・アルバム『CITY OF ANGELS』からシングル・カットしたダンス・ナンバー<Love Machine>が、なんと全米チャ―トのトップに立ったのである。オマケにこの曲はビルボートHOT100に28週も止まり続け、<涙のクラウン>を凌ぐ大ヒットになった。スモーキーの影を完全に払拭したミラクルズは当分順風満帆だ…。多くのファンがそう思ったに違いない。ところが現実は厳しく、巨大なディスコ・ブームに呑み込まれた彼らはこれといった成果を上げられなかった。



’77年の『LOVE CRAZY』ではColumbiaへ移籍して心機一転を図るが、これも徒労に終わる。



こうして20余年の歴史を持つ栄光のミラクルズは、’82年に自然消滅の道を辿っていった。



だが、捨てる神あれば拾う神あり。Columbiaがビリーの魅力に目をつけ、ソロ・シンガーとして売り出すことにしたのである。これが冒頭に書いたソロ・デビュー作『BE WITH YOU』(’82年)。特に英国では注目を集め、前述の<Hold Me Tighter In The Rain>が人気を取った。プロデュースはLAのセッション・キーボード奏者で、のちにジャネットやジャッキー・ジャクソン、ラルフ・トレスバンドなどを手掛けるジョン・バーンズ。彼はソングライターとしても全曲に名を連ねている。またちょうどAristaから“Madagascar”(マダガスカル)というユニットで『SPIRIT OF THE STREET』(’81年)を出したばかりで、そのメンバーのエド・グリーン(ds)、ドナルド・グリフィン(g)、ジェラルド・アルブライト(sax)、マーヴァ・キング(vo)らもセッションにこぞって参加していた。