アンジェリーク・キジョー
ここ数十年の間に見られるワールド・ミュージックの爆発的な人気急上昇は、私たちの世界を広げ、この情報化時代における文化の果てしない豊かさと多様性を聴き手に再認識させてくれるが、アフリカ生まれの歌姫アンジェリーク・キジョーは、もう一つの観点を教えてくれる。それは、世界は私たちが思うより小さいこと、そして人々がどんなに散らばっていようと、地球上にはお互いを繋げる微かな糸が張り巡らされており、それが人々を一つにするということ。この考え方はキジョーの最新作「OYAYA!」(本人の母国語ヨルバ語で“喜び”の意)に反映されている。



これまでの作品でグラミー賞に3度ノミネートされているアンジェリーク・キジョーは、ベナンで過ごした子供時代に影響された西アフリカの伝統と、アメリカのR&Bやファンクやジャズの要素、またヨーロッパ音楽・ラテンアメリカ音楽の影響を融合させてきた。彼女はそのキャリアを通じて、サンタナやジルベルト・ジルなど、世界中の様々なアーティストたちと共演している。前作「ブラック・アイヴォリー・ソウル」に収録されているデイヴ・マシューズとのデュエット<ウォーヤ>は大きな成功を収め、ファン層を広げるきっかけとなった。「OYAYA!」はアメリカ(「OREMI」)やブラジル(「ブラック・アイヴォリー・ソウル」)など、各地の音楽からアフリカにルーツを遡った三部作の三作目。アフリカ言語やフランス語の歌詞を、カリビアン・ディアスポラ(カリブに移住した人々)の音楽的伝統を取り入れた曲にのせている。キジョーは夫ジャン・エブレルとともに、サルサ、カリプソ、メレンゲ、スカなど、カリブ土着の様々なスタイルを取り入れ13曲を書き上げ、英語・フランス語のほか、アフリカのヨルバ語やフォン語でも歌っている。



「OYAYA!」のプロデュースを手がけたのは、ロス・ロボス、ロス・スーパー・セヴン、ストリング・チーズ・インシデントなどの実績で知られるスティーヴ・バーリン。主にロサンゼルスで行われたレコーディングでは、バーリンと共同プロデュース・アレンジを担当したアルベルト・サラスのもと、ラテン系およびアフリカ系の才能あるミュージシャンたちが集結した。アルバムはキジョーのキャリアを一貫して支えた親友であり、ビルボード誌の編集長を務めた記者、故ティモシー・ホワイト氏を偲んで捧げられたものである。



「OYAYA!」の誕生はキジョー自身がカリブ海諸国を旅行や公演で訪れたことに遡ることができるが、中でもアルバムのコンセプトや精神に最も意味深い影響を与えたのが、キューバでの経験だったという。



「2年前にキューバに行ったとき、年配のミュージシャンたちに出逢ったの」とキジョーは語る。「その経験が、私に強さとインスピレーションを与えてくれたわ。音楽というものは、まさに人間の記憶を繋げていく糸のようなものだと実感できたの。楽器を手に取ったり歌いだしたりするや否や、彼らは何か別のものに変身してしまうのですもの。例えばブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブがいるけれど、実際にキューバに行くと、彼らが成功した理由が分かるのよ。あれはフェイクじゃない、彼らの人生そのものだからって」



音楽が様々な国境や境界線を乗り越え人々を一つにすることは、「OYAYA!」の背景となった主なインスピレーションの一つである。喜びの探求は、プエルトリコの賑やかなボンバの様式を取り入れた本作のオープニング・トラック、<魂の想い>のテーマともなっている。キジョーによるとこのタイトルはアフリカのトーゴやガーナで話されているミナ語で、“魂が願うこと”を意味するのだという。この曲については、「私の魂は喜びと笑いを捜し求めているのよ」と説明している。



トリニダード生まれのカリプソの生気に満ちたリズムは、フォン語で歌った<コンゴレオ>にキャッチーなビートを与えている。キジョーのお家芸である“古今のサウンドの融合”の完璧な例といえるこの曲では、コンテンポラリーなオルガンがギニアの木琴風楽器、バラフォンと組み合わせて用いられている。「バラフォンは私が西洋のピアノの音を知るずっと前に、初めて耳にした“ピアノ”の音なのよ」とキジョーは語る。<コンゴレオ>のリズムはアフリカ人奴隷たちがカリブにもたらしたものの、主人から禁じられていたものだったという。「彼らは集会や儀式で演奏したのよ。ハイチではヴードゥの儀式、キューバではサンテリア、ブラジルではカンドンブレ(ともに土着の宗教)の儀式のときに。今の人々が踊っている音楽の全ては、これらのアフリカのリズムから生まれたのよ!」



キューバのチャチャチャのリズムを基盤とする<バラ・バラ>では、キジョーは人生をありのままに受け入れる必要性に思いを馳せる。「<バラ・バラ>はフォン語で“ものごとの本質”を意味するのよ」とキジョーは説明する。「手相を変えることができるかしら?できないわよね。持って生まれたもの、そういうものなのよ。人生の中にはただ受け入れるしかないものがあって、そういうものに批判的になってはいけないということ」



人生の栄枯盛衰を受け入れることは、ドミニカのメレンゲのビートを用い、スティールドラムのスーパースター、アンディ・ナレルをフィーチャーした曲<ウーララ>のテーマとなっている。フォン語で歌われたこの曲は、逆境の中で笑顔を見せる少女アニマタが主人公の物語。「この曲では、何が起こっても立ち直ることのできる人間の度量について歌ったつもりなの。アニマタも落ち込むことはあるけれど、それでも笑顔で立ち上がることができるのよ」



フォン語で歌われた美しい曲<アイ・ラヴ・ユー>は、官能的なキューバのボレロを基盤としている。「タイトルは“アイ・ラヴ・ユー”の意味だけれど、文字通り訳せば“あなたの匂いが大好き”という意味なの。道理に適っているわよね。相手の匂いが好きになれなかったら、一生をともに過ごすことなんてできないもの」と彼女は笑いながら説明する。



<コンガ・ハバネラ>はフォン語で歌われた、熱気溢れるキューバのサルサ。ナイジェリアから来た奴隷たちによってもたらされた太鼓、バタのリズムに突き動かされる。「バタはヨルバ族や、サンテリア教にとって大切なものなのよ」とキジョーはいう。「バタはキューバやブラジル、それから他の地域でも用いられているけれど、リズムの取り方が違うの。要するに、『私のご先祖たちがキューバにもたらした物語やリズムを聴かせてあげましょう』ということね」



<ザ・ワールド・アズ・ア・ベイビー>(フランスの著名なプロデューサー、ルノー・レタンによる録音)はイギリス、フランス、ハイチ、マルティニクの間を通る奴隷輸送ルートに沿って発展したマズルカのリズムに則っている。この夢のようなバラードをキジョーとデュエットしているのは、1917年仏領ギアナ生まれ、伝説のフランス系カリブ人ジャズ・シンガー、アンリ・サルヴァドール。「アンリが録音でスタジオにやって来たときは、素晴らしい経験ができたわ」と、キジョーはうっとりと語る。「彼はマイクと恋愛してしまうのよ。彼があの声をマイクに通したときは、鳥肌が立ったわ!」



ジャマイカ生まれのスカをミナ語で歌った<チルドレン・ファースト>をキジョーが書こうと思い立ったのは、ユニセフの親善大使を務めていたときだった。「この曲はタンザニアの子供たちにひらめきを得たのよ」とキジョーは説明する。「子供たちの住んでいる村はHIVやエイズに大打撃を受けていて、ユニセフが配給するもの以外は何もないのよ。そこでは皆、“子供たちを優先させよう”という意味の’Mutoto kwanza, oye, oye’がモットーなのよ」



トーゴの言語、ミナ語で歌われ、弦を多数用いたマリのリュート、コラの豊かな音が鳴り響く<嘘>。「“嘘をつくこと”の意味なの」キジョーは簡潔にいう。「この曲で言いたいのは、その人が嘘をついているのか真実を言っているのかは、本人にしか分からないということ、そして嘘は決して喜びや平和をもたらしてはくれないということね」



キジョーがミナ語で歌ったもう一つのキューバ・サルサ曲<ジャスト・レッツ・ゴー!>は、サルサの女王、故セリア・クルースに捧げたもの。「パリで共演したことがあるの。それ以来、会うたびに『私の黒い妹よ!』と声をかけてくれたわ。セリアのことはまだ私がアフリカに居た少女時代、彼女がジョニー・パチェコとベナンに来た時に知ったのよ」



ヨルバ語とフォン語で歌われたハイチ音楽のコンパ曲<人生は長い川の如く>では、グアダループ出身の著名なズーク・バンド、カッサヴのジャコブ・デヴァリューが歌とギターを披露している。またフォン語で歌う<マクンバ>では、キジョーはグアンタナモ生まれの繊細なリズム、チャングイに挑戦している。



「OYAYA!」を締めくくる<ようこそ>。プエルトリコ音楽のプレナ様式で作曲し、フォン語で歌ったこの曲で、キジョーはタイムリーなメッセージを発している。「『人は神の名において自らの命を絶たなければならない』という人は誰であろうと信じられないわ」とキジョーは頑なに主張する。「人が命を絶つことは、神の命を絶っているのと同じですもの」 この曲にフィーチャーされているムスリムの女性たちによるコーラスは、キジョーがベナンに里帰りしたときに録ったもの。「その村の伝統音楽は、ゴスペルにとても似ているの」と彼女はいう。



「OYAYA!」の本質的に異なる要素をまとめる役割を最終的に果たしているのは、相互の繋がりと普遍性というテーマである。「人類は一つだと心から信じているわ」とキジョーは主張する。「これだけ強くそう思うのは、私がアフリカで育っているからよ。自然の中で育つと、全ての命を理解し、尊重するようになるの。でも、そういう価値観を人から遠ざけようとする人もいるわ。理解してしまったが最後、誰かを嫌う理由なんてなくなってしまうものね。“彼ら”と“私たち”を区別する必要なんてないのよ。私たちは皆ひとつなのだから」