01. | サンタクロースがやってくる | 09. | あなたに楽しいクリスマスを |
02. | ドゥ・ユー・ヒア・ホワット・アイ・ヒア | 10. | マスト・ビー・サンタ |
03. | ウィンター・ワンダーランド | 11. | シルバー・ベルズ |
04. | 天には栄え | 12. | 牧人 羊を |
05. | クリスマスを我が家で | 13. | クリスマス・アイランド |
06. | リトル・ドラマー・ボーイ | 14. | ザ・クリスマス・ソング |
07. | クリスマス・ブルース | 15. | ああベツレヘムよ |
08. | 神の御子は今宵しも |
WFPは飢餓と貧困の撲滅を使命に活動する国連の食糧支援機関です。『クリスマス・イン・ザ・ハート』からの寄付は、WFPが途上国で行っている学校給食プログラムに活用されます。
今、飢えが原因で世界では、6秒に1人、子どもが命を落としています。WFPは、途上国の学校で栄養たっぷりの給食を届け、その給食は子どもたちが学校へ通う大きなきっかけをつくっています。WFPが配給する給食は一食およそ30円。子どもたちの発育を助け、教育の機会を拡げる「学校給食プログラム」をご支援ください。 |
WFPの活動に関心を持っていただけたら、ぜひ「地球のハラペコを救え。」のウェブサイトをチェックしてみてください。「地球のハラペコを救え。」ウェブサイトを通じて、世界の飢餓状況について学んだり、募金をしたりすることができます。私たちひとりひとりができること、まずはここから始めてみませんか? |
1930年代から90本以上の映画に出演し、“歌うカウボーイ”として大いに人気を博した俳優/カントリー・シンガー、ジーン・オートリーの作品。1947年に全米ポップ・チャート9位、カントリー・チャート5位にランクした自作ヒットだ。クリスマス・シーズンが来るたび、オートリーの歌で何度も何度もリヴァイヴァル・ヒットしているが、他にもドリス・デイ、ビング・クロスビー、エルヴィス・プレスリー、レイ・コニフ・シンガーズ、ウィリー・ネルソン、ビリー・アイドルら多くのアーティストが取り上げている。ディランも鈴の音をあしらい、コーラスと楽しげに掛け合いながら軽快に聞かせる。こんなにキュートなディランの歌声を味わうのは初めてだ。頬がゆるむ。
1962年、当時夫婦だったノエル・リグニーとグロリア・シェイン・ベイカーによって書かれたクリスマス・ソング。62年10月のキューバ危機がもたらした緊張と恐怖のもと、平和への祈りをこめて作られたものだという。そうした背景を意識しながら聞くと“Pray for peace, people everywhere”という歌詞がより生々しく心に届く。多くの映画やテレビ番組の音楽を手がけてきた指揮者/アレンジャー、ハリー・シメオネが率いるハリー・シメオネ・コラールのヴァージョンがまず62年に小ヒット。翌63年にビング・クロスビーが取り上げたことで一気にクリスマス・ソングの定番となった。以降、ペリー・コモ、パット・ブーン、マヘリア・ジャクソン、ジョニー・マティス、アンディ・ウィリアムス、グレン・キャンベル、カーペンターズ、ホイットニー・ヒューストンなど幅広いアーティストがカヴァーしている。ディランも格調高いアレンジのもと、ドラマチックに歌い上げているが、かつて彼がキューバ危機におびえながら「激しい雨が降る(A Hard Rain's A-Gonna Fall)」を書いたことなどを考え合わせると、このディラン・ヴァージョンがさらに意味深いものに聞こえてくる気がするのだが …。
1934年、結核で療養中だったリチャード・スミスが故郷であるペンシルヴァニアの公園が雪で覆われている光景を眺めながら書き上げた歌詞に、フェリックス・バーナードが曲をつけたもの。その年、リチャード・ヒムバー楽団がレコーディングした盤がオリジナルだ。ヒット・ヴァージョンは同年全米チャート2位にランクしたガイ・ロンバルド楽団の盤。その後もペリー・コモ、アンドリュース・シスターズ、ジョニー・マーサーらが次々とヒットさせ、すっかりクリスマス・スタンダードとして定着した。ポップス・ファンにはフィル・スペクターのクリスマス・アルバムに収められていたダーリーン・ラヴのキャッチーなヴァージョンがおなじみだろう。2分足らずのディラン・ヴァージョンも実に楽しい仕上がりになっている。
ちなみに、1番のサビと2番のサビで歌詞が微妙に違っているが、もともとこの歌が生まれた当時は1番の歌詞しかなかった。これを2回繰り返していたわけだが。しかし、結婚を考えているカップルの様子を描いた内容が子供向けとしては不適切ではないかということになり、53年になって新たなサビの歌詞が作られた。当初の歌詞では、主人公たちが作る雪だるまを田舎町を巡りながら貧しいカップルのために結婚式を取り仕切っていた牧師に見立てていたが、書き直された子供向けの歌詞ではサーカスのピエロに見立てている。各地を巡って結婚式をあげる牧師は30年代にはまだ多かったものの、50年代になるとほとんど見かけなくなってしまったことも、書き直された要因のひとつだったらしい。近年はディランのように、古い歌詞と新しい歌詞を両方並べて歌うことも多いようだ。
キリスト教メソジスト派の創始者、ジョン・ウェズリーの弟であるチャールズ・ウェズリーが1733年、『讃美歌と神聖なる詩歌(Hymns and Sacred Poems)』で発表した聖歌。その歌詞を1753年にジョージ・ホイットフィールドが改訂し、さらに1850年ごろにウィリアム・カミングスが手を入れて完成。以降、クリスマス・キャロルの名曲として現在に歌い継がれている。日本では「天(あめ)には栄え」あるいは「聞けや歌声」というタイトルでおなじみだろう。メロディのほうは1840年、クラシック作曲家のフェリックス・メンデルスゾーンが1840年に作曲した祝典カンタータ『光あれ(Es Werde Light)』の第2曲の旋律が用いられている。ゴスペル界のマヘリア・ジャクソンから、カントリーのルーヴィン・ブラザーズ、ロックンロールのトミー・ジェイムス、ジャズのナット・キング・コール、そしてポップ畑のマライア・キャリーまで、これも多くのレコーディングが残されているが、そこに新たに加わったディラン・ヴァージョンもなかなか荘厳な手触りだ。
20世紀を代表する最高のポピュラー・エンタテイナー、ビング・クロスビーの当たり曲だ。クロスビーは1926年にポール・ホワイトマン楽団に雇われて以来、77年に亡くなるまで、スムーズでハートウォームな歌声で多くの音楽ファンを楽しませてきた。チャート・ヒットは実に120曲以上。中でも、クロスビーとフレッド・アステアが出演した映画『スイング・ホテル』の挿入歌としてアーヴィン・バーリンが作った「ホワイト・クリスマス」は、まず42年に全米1位に輝いたのを皮切りに、その後62年までの20年間になんと18回チャートイン。現在までに3000万枚以上を売り上げ、最大の当たり曲となった。そのため、ビング・クロスビーというとクリスマス、というイメージも強いのだが。
本曲も彼にとって重要な“もうひとつのクリスマス・ソング”だ。1943年に全米チャート3位、44年に19位、と2年連続でヒットした名曲。以降もペリー・コモ、フランク・シナトラ、トニー・ベネット、ビーチ・ボーイズ、ボニー・M、ハリー・コニック・ジュニアなど、多くのアーティストが録音している。作者はキム・ギャノン、ウォルター・ケント、バック・ラムの3人。バック・ラムは名曲「トワイライト・タイム」の作者のひとりとして、あるいはインク・スポッツやペンギンズといった黒人ヴォーカル・グループを世に送り出した男としてポップス・ファンにおなじみだろう。発表された時期がちょうど第2次世界大戦中だったこともあり、戦地に赴いた兵士たちの「クリスマスには帰国したい」という願いと呼応して、兵士はもちろん、彼らの帰りを祖国で待つ家族たちの心を震わせた。世紀を超えた今も、世界はなお新たな戦争に苦しめられている。そんな中、ディランはこの曲を取り上げ、現在の世界へのメッセージとして歌ってみせたわけだ。
もともとはチェコの伝統的キャロルを下敷きに、1941年、キャスリーン・K・デイヴィスが「キャロル・オヴ・ザ・ドラム」というタイトルのもと書き上げた作品だ。その後、57年にヘンリー・オノラティが手を加えてジャック・ハロラン・シンガーズがシングルとしてリリース。これはクリスマス・シーズンに間に合わなかったためにヒットせずじまいだったが、翌58年、ハリー・シメオネがさらに改訂し、ハリー・シメオネ・コラール名義でリリースしたところ、全米チャート13位に達するヒットとなった。ビヴァリー・シスターズ、ジョニー・キャッシュ、ルー・ロウルズなど、多くのカヴァー・ヴァージョンがあるが、ポップス・ファンには77年、テレビ特別番組『ビング・クロスビーズ・メリー・オールド・クリスマス』でデイヴィッド・ボウイとビング・クロスビーとがデュエットしたヴァージョンがもっとも有名かもしれない。クロスビーの他界後、82年になってからシングルとしてもリリースされ、全英チャート3位まで上昇した。
蛇足ながら付け加えておくと、歌詞に出てくる“王様”というのはイエス・キリストのこと。誕生したばかりのイエスを祝福したいのに貢ぎ物を買えない貧しい少年が、自分の得意のドラム演奏をイエスに捧げるという物語を、ラヴェルの『ボレロ』を思わせる印象的なドラム・フレーズをバックにディランがおごそかに綴る。
『シーム・タイム・レディオ・アワー』の第1回放送のとき、エルヴィス・プレスリーのカヴァーで知られる「お日様なんか出なくてもかまわない(I Don't Care If The Sun Don't Shine)」のオリジナル・ヴァージョンにあたるディーン・マーティン盤がかかった。その際、ディランは「私たちはエルヴィス・プレスリーがどれほどディーン・マーティンのことを好きだったか、忘れがちです」とDJしたのだが。エルヴィスに負けず劣らず、ディランもディーン・マーティンのことが大好きなようだ。1958年にマーティンがヒットさせた「リターン・トゥ・ミー」を、ディランは2000年、テレビ・ドラマ『ザ・ソプラノズ』のためにカヴァーしている。94年、映画『ナチュラル・ボーン・キラー』のサウンドトラックに提供した「ユー・ビロング・トゥ・ミー」もそう。「ユー・ビロング…」の場合、52年に全米1位に輝いたジョー・スタッフォード盤や、4位のパティ・ペイジ盤がおなじみだが、実は同年、ディーン・マーティン盤も全米12位まで上昇している。そんなディーン・マーティンが53年にリリースしたクリスマス・ソングが本曲だ。ジミー・ヴァン・ヒューゼンやジュール・スタインらと組んで多くの名曲を生み出した偉大なソングライター、サミー・カーンの作品。すべてがうまくいかない、ひとりぼっちの聖夜をブルーな気分で過ごす、そんなやりきれないクリスマス・ソングを、ディランはよりブルージーに聞かせる。枯れたハーモニカの音色も切ない。
作者不詳。17世紀ごろからラテン語の聖歌として歌われていた曲が原型だと言われている。1743年、イギリス国教会からの迫害を逃れるため、フランス北部のイギリス人大学に身を寄せていたカトリックの英語教師、ジョン・フランシス・ウェイドが正式に出版したのをきっかけに世界に広まった。英語詞が完成したのは1841年。以降、教会で歌われるだけでなく、1905年、コーラス・グループのピアレス・カルテット盤が7位、1915年にアイルランド出身の偉大なテノール歌手、ジョン・マコーマック盤が2位にランクするなど、全米ヒットチャート初期からポップ・シーンでもクリスマス・ソングの名曲として大いに愛されてきた。ディランもひねりを効かすことなく、ラテン語の歌詞も交え、まっすぐこの名曲を歌いきっている。
1944年、MGMのミュージカル映画『若草の頃(Meet Me In St. Louis)』で主演のジュディ・ガーランドによってお披露目された名曲。セントルイスで幸せに暮らす一家が、クリスマスの日、父親の仕事の関係でニューヨークに移住しなくてはならなくなる…というストーリーだったため、もともとは“楽しくささやかなクリスマスを過ごしてね/これが最後のクリスマスだから/来年からずっと私たちは過去に生きるの”といったネガティヴな歌詞だったようだが、ガーランドの主張によってより前向きな歌詞に変更された。この変更が功を奏したか、当時やはり第2次世界大戦で派兵されていた兵士たちの郷愁を喚起し、全米27位に達するヒットにつながった。以降、現在までにそれこそ無数のカヴァー・ヴァージョンが生まれている。日本では山下達郎のヴァージョンの人気も高い。
ちなみに歌詞に関しては、さらにもう一個所、最後のヴァースの“その時までわたしたちはもたつきながらも何とか切り抜けていくしかないでしょう”という歌詞が少々後ろ向きだということで、1957年、フランク・シナトラが作詞をしたヒュー・マーティンに依頼し、“だからいちばん高い大枝にきらきらと輝く星を吊るし…”という、ほのかな希望を感じさせるフレーズが新たに加えられた。ディランは「ウィンター・ワンダーランド」同様、両方の歌詞を並列させて歌っている。
しっとりと、あるいは荘厳に綴られた楽曲が多い本盤の中で、もっとも異彩を放つナンバーだ。1960年、ウィリアム・フレデリックスとハル・ムーアによって書かれ、翌61年、ミッチ・ミラー&ザ・ギャングがアルバム『ホリデイ・シングアロウグ・ウィズ・ミッチ』に収めたものがオリジナル・ヴァージョン。前述した通り、ディランは自らのDJ番組『シーム・タイム・レディオ・アワー』のクリスマス特集でこの曲のブレイヴ・コンボによるカヴァー・ヴァージョンをかけていたが、それに影響されたかのようなカントリー/ポルカ/スウィング・アレンジでスピーディに聞かせている。
1951年、ボブ・ホープの主演映画『腰抜けペテン師(The Lemon Drop Kid)』の挿入歌として世に出た名曲。人気テレビ番組『ボナンザ』のテーマなどを手がけたジェイ・リヴィングストン&レイ・エヴァンスの作品だ。映画ではボブ・ホープと相手役の女優マリリン・マックスウェルによって歌われた。レコード化された最初の盤は、ビング・クロスビーがキャロル・リチャードとデュエットしたシングル。52年暮れにリリースされ、翌年にかけて全米20位まで上昇した。これもクリスマス・シーズンになると多くのシンガーが取り上げる名曲。日本ではベンチャーズによるエレキ・インスト・ヴァージョンでご存じの方が多いかもしれない。郊外/田舎の光景が描かれることが多いクリスマス・ソングの中で、これは珍しく都会の光景が描かれた1曲。ディランもワルツに乗ってジェントルに聞かせている。
17〜18世紀ごろからイギリスで歌い継がれてきたトラディショナル・クリスマス・キャロル。1833年、ウィリアム・B・サンディスが編纂した『ギルバート&サンディス・クリスマス・キャロルズ』で初めて正式に出版された。最後のメロディがトニック(主音)に戻らず、3度の音に帰結するため、メロディが終わらずにどこまでも続いていくかのように感じられる不思議な曲だ。ディランは3番までしか歌っていないが、実はこのあとにも倍以上の歌詞が存在するのは、そんな浮遊感に満ちたメロディのせいかもしれない。
1946年、ライル・モレインが作り、アンドリュース・シスターズが「ウィンター・ワンダーランド」とのカップリングでシングル・リリース。もともとはB面扱いだったが、こちらのほうが人気を博し、翌47年にかけて全米7位まで上昇したトロピカルなクリスマス・ソングだ。ジャッキー・グリースン、ビング・クロスビー、アーネスト・タブなどもカヴァーしている。1987年に出たレオン・レッドボーンのカヴァー盤もなかなか素敵な仕上がりだった。ディランも近年の「ビヨンド・ザ・ホライズン」あたりを思わせるリラックスしたサウンドでカヴァーしている。
1944年、卓抜したヴォイス・コントロールを誇るジャズ・シンガーの最高峰、メル・トーメが作った必殺の名曲。アメリカの著作権管理団体BMIの算定によれば、もっとも多くカヴァーされているクリスマス・ソングらしい。トーメ自身のヴァージョンももちろん素晴らしいのだが、やはりこの曲の決定版はナット・キング・コールのヴァージョンだろう。1946年にザ・キング・コール・トリオとして初録音。これが全米3位にランクして以来、47年、49年にリヴァイヴァル・ヒットを記録。53年にはオーケストラをバックに再録音され、そちらのヴァージョンも53年、54年、60年、62年にポップ・チャートにランクイン。クリスマス・チャートのほうではなんと13年にわたってランクし続け、1位に輝いた週を合計すると34週にも及ぶ。まさに名曲の名演/名唱だった。そんな超名曲にディランも挑戦。ヴァースの部分からていねいに歌っている。ドニー・ヘロンのペダル・スティールが効果的に響くジャジーな音像も素晴らしい。
日本でもおなじみの讃美歌。フィラデルフィアのホーリー・トリニティ教会の牧師だったフィリップス・ブルックスが、1865年、ベツレヘムを訪れたときの思いを下敷きに書き上げたものだ。完成に至ったのは1868年。教会のオルガン奏者だったルイス・レッドナーがメロディを提供した。実際に歌詞は5番まであるのだが、すべてを歌うと長くなるため、リチャード・クルークス、マリオ・ランツァ、マヘリア・ジャクソン、ナット・キング・コール、ルーヴィン・ブラザーズ、エルヴィス・プレスリーなどこの曲を取り上げたアーティストはほとんど歌詞を一部カットしてレコーディングしている。ディランもそう。ただ、普通は1番、2番、5番あたりを抜粋することが多い中、ディランは1番と3番を抜粋して、最後をアーメン・コーラスで締めくくっている。このスタイルをとっているヴァージョンというと、1947年、ケン・レイン・シンガーズをバックに従えてフランク・シナトラが録音したものがもっとも有名。たぶんディランはこのシナトラ・ヴァージョンを下敷きにカヴァーしたのだろう。3番に出てくる“でも罪に満ちたこの世界で/それでも神は受け入れられることだろう”という歌詞をディランは今の時代にメッセージしたかったのではないか、とぼくは邪推しているのだが。
それにしても、まさかディランの“アーメン”という歌声で締めくくられるアルバムに出会う日がやって来るとは…。そんな聞き手の身勝手な困惑など気にとめるもことなく、ディランはひたすら穏やかな歌心と平和への真摯な祈りの感触を残して、静かにアルバムの幕をおろすのだった。
オルタナティヴ・ライナーノートを掲載中 http://www.dylan07.jp/