BRUCESPRINGSTEEN

「ダニーとは40年間一緒にやっていた。あいつは最高に素晴らしく滑らかな音を出すキーボード・プレイヤーで、純粋な、自然体のミュージシャンだった。大好きだったよ…俺たちは一緒に育ったんだ」

――ブルース・スプリングスティーン

Eストリート・バンドのオルガン・キーボード奏者を40年間務めたダニー・フェデリーシは、2008年4月17日、ニューヨークのメモリアル・スローン・ケタリングがんセンターにて、3年間のメラノーマ(黒色腫)との闘病の末他界しました。

フェデリーシ家とEストリート・ファミリーから、献花の代りにダニー・フェデリーシ・メラノーマ基金への寄付をお願い申し上げます。

以下は、4月21日にニュージャージー州レッドバンクで行われたダニーの告別式でブルース・スプリングスティーンが行った追悼演説です。

ダニーへのさよなら

まずは思い出話から始めさせてください。

その昔、ミラクルの時代、未開拓の時代。“マッド・ドッグ”ロペスの気性がバンド・メンバーや、小さなクラブのオーナー、無垢な市民たち、全ての女性、子供たち、小動物を威嚇していた頃。

その昔、まだニューヨーク・シティの街角に停めた車のボンネットに下駄を預けることができた時代。

若い赤毛のアコーディオン奏者がテッド・マック・アマチュア・アワーで大金を獲得し、本当の弾き方を見せつけるためにママとスイスに送られた、その後間もなくのこと。

海岸で長い時間を過ごす人々が、まだ「タイム」誌の表紙になっていなかった時代。

つまり、Eストリート・バンドが共産主義組織だった頃の話をしているのです!私の相棒、おとなしくシャイなダン・フェデリーシは、私たちの40年にわたるキャリアにおける最も興奮できる状況を1人で作り出してきました。それは簡単なことではありませんでした。“マッド・ドッグ”ロペスというライバルがいましたからね。ダニーの方が長く在籍したというだけで。

あれはニュージャージー州ミドルタウンで起こった“警官の暴動”だったかと思います。演奏時間が長すぎて警察を怒らせてしまい、言い争いになった結果、ヴァージニア州リッチモンドの刑務所に入れられてしまった“マッド・ドッグ”ロペスの保釈金を集めるためのショウをやっていたのです。申し立てによると、私たちの演奏時間が長すぎて、法律を破ってしまったのでステージに駆け上がってきたミドルタウンの警官たちに向かって、ダニーが巨大なマーシャルの山をなぎ倒したということでした。

私がその場に立ちすくんで眺めていると、スピーカー・キャビネットの下から警官が数人這い出してきて、一目散に治療を求めに走っていきました。ステージの上で私の前に立っていた好青年風の警官は警棒を振り回して私に突きつけたり罵声を浴びせたりしていました。ふと見やるとダニーが屈強な警官に片腕を引っ張られ、もう片方の腕は最初の夫人だったフロー・フェデリーシが引っ張り、逮捕に抵抗する夫を手助けしようとしているのが見えました。

観客席から1人の少年がステージに駆け上がり、侮辱的な言葉を吐いて、その屈強な警官の目を一瞬逸らしました。その瞬間から、“ファントム”ダン・フェデリーシは観衆の中に紛れ込み、消えてしまったのです。

逃走した彼の逮捕令状が発行されて1ヶ月経っても、彼は処罰されませんでした。私たちが彼を様々な場所に匿っていたからですが、今度は問題が浮上してきました。モンマス・カレッジでのショウが近づいていたのです。お金が必要だった私たちはどうしてもギグをやらなければなりませんでした。代役を探しましたがうまく行きませんでした。そこでダニーは自分の自由を危険にさらし、チャンスを掴んで演奏すると申し出たのです。私たちはみな感嘆しました。

ショウの夜がやってきました。モンマス・カレッジの体育館では2,000人のファンが悲鳴を挙げています。私たちは、演奏が始まるまでダニーがステージに上がらなくて済むように画策しました。警察が彼を逮捕しに来たとしても、ショウの最中にステージで逮捕して、再び暴動を起こすリスクを背負うなどということはないだろうと踏んだのです。

状況をご説明しましょう。ダニーは駐車場に停めてある車の後部座席の下に潜り込んで隠れています。開演時間8時の5分前、私は彼を迎えに行き、車の窓をコツコツと叩きました。

「ダニー、来いよ。時間だぞ」

「行かねえ」の声が聞こえてきました。

「行かねえとはどういう意味だ?」

「サツが体育館の屋根にいるのが見えたんだ。俺が車から出てきたらその瞬間捕まっちまう」

ドアを開けると、ダニーがそれまで何かを吸っていて、パラノイアになってしまったことが分かったので「ダン、屋根の上にサツなんていないぜ」と言いました。

すると彼は「いや、見たんだ。本当だ。俺は行かねえぞ」と言うのです。

そこで私がとった方法は、その後40年間、旧友の心配事に対処するたびに思い出した方法でした。彼を脅して…おだてたのです。彼はやっと来てくれました。駐車場を横切り、体育館に忍び込むと、熱狂的なコンサートが始まりました。コンサート中は、地元の警官を煙に巻いた自分たちの素晴らしさに、泥棒のように笑いが止まりませんでした。

そのコンサートの終盤、最後の曲の途中で、私は観衆を全員ステージに上げました。ダニーはその間にオーディエンスの中に紛れ込み、表玄関から出て行ったのです。またもや、“ファントム”ダンが退出に成功したのでした。(元ミドルタウン警察署長からは、今も幸運を祈るグリーティング・カードが送られてきます。私たちの歴史は永遠に絡み合っているのです。)しかしみなさん、それは単なる始まりに過ぎなかったのです。

バンドが苦しい時期にあった頃、ダニーがマックス・カンザス・シティで脱退したときがありました。テレビを修理したいから辞めたいと言って来たのです。私は、考え直して後で戻ってくるようにと彼に言いました。

また、楽しい夜を過ごした後、ダニーが停まっている車数台に体当たりし、頭でフロントガラスを割ってしまったものの、西部ツアー中にテキサスで買ったばかりの巨大で硬いカウボーイ・ハットを被っていたおかげで、重傷にならずに済んだこともありました。

また、ダニーが、(道路の)レッカー移動区域に停めた車の前部座席にまずいものを置きっ放しにしていたこともありました。車は即刻レッカー移動になりましたが、彼は「ブルース、今から盗まれたって届け出てくるぜ」と言うのです。私は「いいアイデアだとは思わないが…」と言いました。

彼は届け出に行きましたが、任務を遂行しないまま刑務所送りになってしまいました。

また、ダニーは、Eストリート・バンドの中では、ストーン・ポニーから物理的に放り出された唯一のメンバーでもあります。私たちが落とした金額を鑑みるに、ストーン・ポニーにとっては苦渋の決断だったと思います。

また、ダニーは、激高しつつも節度をわきまえていた“ビッグ・マン”クラレンス・クレモンズから“警告的暴行”を受け、助かったことがあります。当時彼らは一緒に住んでいました。ダニーはようやく“ビッグ・マン”を大サーカスに連行したのでした。

また、ダニーが、メンバーで唯一私を激怒させた後、自分のステレオ・スピーカーの下敷きになった私の足をどけるのを手伝ってくれたことがありました。

そしてその間ずっと、ダニーは私のためにB3オルガンを美しくソウルフルに弾いてくれました。そして私たちの愛は成長し、成長し続けました。人生はそんな感じに面白いものです。彼は私の近所の仲間であり、素晴らしい人物でした。だからこそ彼のことを慮るのです。…そして彼は、彼の失敗に対する私よりも、私の失敗に対してずっと寛容でした。

混乱を引き起こさないときのダニーは、思いやりがあり、才能に溢れ、自然体で気取らない、心根の優しい男でした。ただ、幸運や、もろもろの出来事を素晴らしく暗転させる無限の能力があっただけなのです。

しかしそれ以上に、彼にはいいところが山のようにあったのです。彼はエンジニア魂を持っていました。彼は飛行機の操縦の仕方を学びました。彼は常に最新のテクノロジーに精通しており、ものすごく詳細に至るまで根気強く説明してくれました。彼は常に何かの“価値を増大させて”くれていました。車も、ステレオも、B3も。パティがバンドに加入したときには、一番歓迎してくれたものです。この“ボーイズ・クラブ”に初めて参入する女性にとって、一番思いやりのある優しい友人になってくれました。

彼は子供たちを愛し、いつもジェイソン、ハーリー、マディソンの自慢をしていました。そして、新しいものを人生にもたらしてくれた妻のマヤさんを愛していました。

そして彼の芸術性です。彼は私が見た中でも最も直観力のあるプレイヤーでした。彼のスタイルはつかみどころがなく流動的で、Eストリート・バンドの他のミュージシャンたちが作った空間に引き付けられるものでした。彼は主張のあるプレイヤーではなく、補完的なプレイヤーだったのです。真の伴奏者でした。彼は、バンドのサウンドを纏めるための糊を自然に供給してくれていたのです。そうすることによって、彼自身のとても明確なスタイルを作り上げました。ダン・フェデリーシを聴くと、その音は一面同じではなく、エネルギーに満ちたリフが他のすべての音を超えたところでしばらく飛び交った後に曲に溶け込んでいくのが分かります。“ファントム”ダン・フェデリーシ。彼の音は聞こえたり聞こえなかったりです。

オフステージのダニーは、私の曲の歌詞やコード進行を一つも覚えることができませんでした。ステージに上がると耳が開けるのです。音を聴き、感じ、奏で、そのコードや飛び交う音符にぴったりの空間や、音の落としどころを見つけていました。このスタイルは、このアンサンブルの演奏に素晴らしい自然体感覚をもたらしてくれたのです。

スタジオでは、録音中の曲の雰囲気を和らげたいと思ったときには、ダニーに何を演奏してもらいたいかを言わずに演奏してもらっていました。彼を解き放ったのです。彼はカーニバルや、アトラクション、ボードウォーク、ビーチ、若かりし頃の風景、そしてEストリート・バンドの生まれた場所のハートとソウルをもたらしてくれました。

そして私たちは成長していきました。とてもゆっくりと。私たちは沢山の試練と苦難を共に乗り越えてきました。ダニーは、ステージ上のミスや辛いときや、悲惨な出来事に、大抵は肩をすくめてにっこり笑って反応したものでした。「俺は荒れ狂う海にいる男に過ぎない。でもまだ沈んじゃいないんだ。そして俺たちはまだここにいる」と言っているかのようでした。

私は、ダニーが重度の依存症と闘い乗り越える様子を見てきました。私は、彼が生活を立て直していき、バンドが再結成してからのこの10年間は、あの大きなB3の後ろにある自分の席に座ることを生き甲斐にし、このバンドの兄弟愛の中で、仕事、家族、家に対する成熟と情熱を取り戻していきました。

最後に、私は彼が文句も言わずに、素晴らしい勇気とスピリットを持ってがんと闘う姿を見てきました。彼の様子を窺うと、彼はただ「お前はどうするんだ?俺は明日を楽しみにしているよ」と言うだけでした。ダニーはものごとの明るい面を見る運命論者でした。彼は最後の最後まで諦めなかったのです。

数週間前、インディアナポリスのステージに一緒に上ったのが最後となってしまいました。開演前に何を演奏したいか訊くと、彼は「〈サンディ〉」と言いました。アコーディオンを抱え、いつまでもボードウォークを歩いていた、若かりし日の夏の夜に戻ることを望んだのです。

停めてあった車3台にぶつかったと言ってもそれがどうした、素晴らしい夜じゃないか!ミドルタウン警察署全体から逃げ回っていたとしてもそれがどうした、泳ぎに行こうじゃないか!彼はもう一度、その曲を演奏することを望んだのです。それは勿論、何か素晴らしいものの終わりと、未知で新しいものの始まりについての曲でした。

ミラクルの日々に戻ってみましょう。ピート・タウンゼントはこう言いました。「ロックンロール・バンドとはクレイジーなものだ。子供時代に出会ったやつらと一生付き合い続けるというところが、世界中のどんな職業とも違う。そいつらがどんなやつらであろうと、どんなクレイジーなことをしようと」

もし私たちが一緒にプレイしていなければ、Eストリート・バンドのメンバー達が、現時点でお互いを知ることなどなかったでしょう。この部屋に一緒に居ることもなかったでしょう。しかし私たちは、実際に…実際に、一緒にプレイしているのです。そして毎晩8時になると一緒にステージに上るのです。そう、みなさん、ミラクルの起こる場所に。古いミラクルも、新しいミラクルも。そしてミラクルのある場所で一緒にいる人々というのは、決して忘れないものです。生も私たちを引き離すことはありません。時間も私たちを引き離すことはありません。敵意も私たちを引き離すことはありません。死も私たちを引き離すことはありません。ダニーが私に毎晩してくれたように、自分のためにミラクルをもたらしてくれる人と一緒にいる人は、光栄にも“私たち”の一員なのです。

勿論、私たちはみな大人になりますから、“イッツ・オンリー・ロックンロール”だと分かります。…でも、そうではないのです。毎晩毎晩目の前で自分にミラクルをもたらしてくれる男を生涯見続けていると、それが愛のようにものすごく感じられるのです。

そこで今日は、またもや謎の退場をしたダニー、“ファントム”ダン、フェデリーシにさようならを言いましょう。父親であり、夫であり、私のブラザーであり、私の友人であり、私のミステリーであり、私の棘であり、私の薔薇であり、私のキーボード・プレイヤーであり、私のミラクル・マンであり、いつまでも会場を盛り上げ、驚かし、地球にショックを与え、ハードにロックさせ、腰を揺らせ、愛を交わさせ、心を砕き、魂をむせび泣かせる…そして、命知らずの伝説の存在、Eストリート・バンドの生涯のメンバーに。


VIDEO: A TRIBUTE TO DANNY(「ブラッド・ブラザース」にのせてダニーの貴重で感動的な映像を見ることができます)
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