HISTORY
1973年12月31日
AD/DC、オーストラリア、シドニーのチェッカーズクラブのニューイヤーズイヴ・コンサートにてデビュー。

1974年11月
新しいリードシンガー、ボン・スコットを迎え、ファーストアルバム『ハイ・ヴォルテージ』(プロデュース:ヴァンダ&ヤング)を10日間でレコーディング。

1975年2月
『ハイ・ヴォルテージ』、オーストラリアでリリース。テレビ出演や初のヘッドライナー・コンサートで知名度が急上昇。この頃にはドラマーのフィル・ラッドが参加し、まもなくベーシストのマーク・エヴァンスも参加する。

1975年12月
セカンドアルバム『TNT』、オーストラリアでリリース。(プロデュース:ヴァンダ&ヤング)『ハイ・ヴォルテージ』、トリプルゴールド達成。

1976年4月
イギリスのアトランティックが、オーストラリアで先に発売されたアルバム2枚(『ハイ・ヴォルテージ』と『TNT』)から編集された別ヴァージョン『ハイ・ヴォルテージ』をリリース。その当時のマーキー・クラブで出演日数記録を打ちたて、ヨーロッパ本土へも足を伸ばす。


1976年6月
イギリスで初の大規模ヘッドライナー・ツアーを行う。

1976年10月
別ヴァージョン『ハイ・ヴォルテージ』がアメリカでもリリースされ、バンドはクラブツアーを行う。アメリカのレーベルはこのアルバムのプロモーションに専念するため、その頃オーストラリア、イギリス、ヨーロッパでリリースされたばかりの新作『悪事と地獄』(3作目)の全米での発売を見送る方針を決定。(プロデュースはヴァンダ&ヤングが担当)


1977年6月
4作目『ロック魂』、(3月のオーストラリアでのリリースに続き)アメリカでリリース。(プロデュース:ヴァンダ&ヤング)AC/DCはアトランティック・レーベルに移籍。エヴァンスが参加した最後のアルバムとなる。新ベーシスト、クリフ・ウィリアムズの参加後、7月から9月にかけて初の大規模なアメリカツアーを行なう。)


1977年12月7日
ニューヨークで少数の観客を前にプレイしたライヴアルバム『Live At Atlantic Studios』をラジオでのプロモーション目的だけのために配布。ところが、ロック史上最も貴重なプロモアイテムとしてコレクターの垂涎の的となる。

1978年5月
5作目『パワーエイジ』、AC/DCとしては初の全世界リリース。(プロデュース:ヴァンダ&ヤング)各国で数多くのツアーを行ない、エネルギッシュかつ驚異的なパフォーマンスで他の追随を許さないライヴバンドと噂がひろまる。


1978年11月
6作目『ギター殺人事件』は「パワーエイジ・ツアー」中にグラスゴーのアポロでレコーディングされた初のオフィシャル・ライブアルバム。(プロデュースはヴァンダ&ヤングが担当)


1979年7月
7作目『地獄のハイウェイ』リリース。マット・ランジがプロデュースを担当する。アメリカでの数カ月に及ぶツアーと、ラジオでタイトルシングル「地獄のハイウェイ」が大量O.Aされたおかげで、同アルバムはAC/DC初の全米トップ100入りし、第17位まで上昇。初のRIAAゴールドにも認定され、待ちに待ったアメリカでのブレイクとなる。イギリスでも初のトップ10入りで第8位にランクインする。


1980年2月19日
ロンドンでボン・スコット死亡(享年33歳)。世界的成功を手にかけていた矢先のAC/DCは衝撃を隠せなかったが、バンドは続行を決意。新しいリードシンガーとしてブライアン・ジョンソン(元ジョーディー)を迎え、6月29日、ベルギーでAC/DCのライブデビューを飾る。

1980年7月
8作目『バック・イン・ブラック』、ボンへの追悼アルバムとしてアメリカとイギリスでリリース。(プロデュース:マット・ランジ)北米ツアーが開始し、「欲望の天使」が初めて両国で同時トップ40ヒット。アルバムはイギリスでナンバー1、アメリカで第4位。アメリカでは5ヵ月間トップ10を維持し、なんと131週間チャート入り! 売上も500万枚というバンドとして一番のベストセラーとなる。最も新しいところでは(2001年)、アメリカで19×プラチナ(1900万枚売り上げたアルバム)に認定され、世界ではさらに30ものゴールド及びプラチナアルバムとなっている。


1981年2月
ソールドアウトのワールドツアーを1月に終えたAC/DCは初めて日本でコンサートを行なった後、4年ぶりにオーストラリアで凱旋ツアーを行う。(1981年 2月1日 大阪万博ホール、2月2日 愛知県勤労会館、2月4日,5日 日本青年館 )

1981年3月
アメリカでの熱いファンの要望に応え、1976年の『悪事と地獄』リリース。「ニューアルバム」としての扱いで、第3位まで上昇し55週間チャート入り。最も新しいところでは(2001年)、6×プラチナ(600万枚を売り上げたアルバム)に認定される。

1981年7月
『ハイ・ヴォルテージ』が好調な売上で初の全米チャート入り。夏が終わる頃にはAC/DCのアルバム全8枚がアメリカでゴールド、プラチナ、マルチプラチナとなる。

1981年11月23日
9作目『悪魔の招待状』、AC/DC初の世界同時リリース。(プロデュース:マット・ランジ)1週間で売上100万枚以上、2週目にはナンバー1となり3週連続でトップを維持。最も新しいところでは(2001年)、4×プラチナ(400万枚を売り上げたアルバム)に認定される。。


1982年
5週間の北米ツアーを終え、5年以上もノンストップのツアーとレコーディングに明け暮れたバンドはこの年やっと休息を取る。合間の6月に日本で4回ショーを行なう。AC/DCの日本公演はこれを最後に2001年まで19年間プレイされることはなかった。 (1982年 6月4日 大阪フェスティバルホール、6月6日 大阪万博ホール、6月8日 京都会館、6月9日 名古屋市公会堂、6月10日 日本武道館)

1983年5月
ナッソーでのレコーディング・セッション中にフィル・ラッドが脱退。後釜にマンチェスター出身のドラマー、サイモン・ライト(20歳)が参加。

1983年
10作目『征服者』<JKを明記>、リリース。(プロデュース:マルコム&アンガス・ヤング)21ヵ月ぶりのニューアルバムはAC/DC初のセルフプロデュース。イギリスで第4位、アメリカで第15位にランクインされる。


1984年夏
AC/DC、ヨーロッパ全土で行なわれた「モンスターズ・オブ・ロック」フェスティバルにオジー・オズボーン、ヴァン・ヘイレン、モトリー・クルーなどと出演。クライマックスとなったキャッスル・ドニントンでの記録的な観客数65000人を動員。

1984年10月
5トラックEP(ミニアルバム)『'74ジェイルブレイク』、AC/DCの10周年記念アルバムとしてリリース。1975-76年のボン・スコット時代のオリジナルのオーストラリア版『ハイ・ヴォルテージ』と『悪事と地獄』からアメリカ未発表の作品を収録している。


1985年6月
5本のプロモビデオ(新作アルバム収録曲)を、ニューヨークのロウアー・イーストサイドにあるワールズ・エンドという会場で撮影。アニメーションや俳優、ライヴ・パフォーマンスを活用したAC/DC初の長編コンセプトビデオ完成。

1986年6月28日
11作目『フライ・オン・ザ・ウォール』、世界同時リリース。(プロデュース:マルコム&アンガス・ヤング)アンガスとマルコムによる2枚目のセルフプロデュースとなる同アルバムは、30週間チャート入りし、イギリスでは第7位にチャートイン。


1986年5月
12作目『フー・メイド・フー』、AC/DCの大ファンであるスティーヴン・キングの映画「マキシム・オーヴァードライブ(邦題:地獄のデビルトラック)」のサウンドトラックとしてリリース。AC/DCのクラシック6曲に、ヴァンダ&ヤングがプロデュースした新曲3曲収録。「フー・メイド・フー」と1980年「狂った夜」のシングル用にデイヴィッド・マレット監督による新たなミュージック・ヴィデオを撮影。アルバムはイギリスで第11位、アメリカで第33位、42週間チャート入り。最も新しいところでは(2001年)、5×プラチナ(500万枚売り上げたアルバム)に認定される。


1986年11月
『フー・メイド・フー』長編ホームビデオ、アメリカでリリースされゴールド認定。

1988年1月
13作目『ブロウ・アップ・ユア・ヴィデオ』、イギリスとヨーロッパでリリース(アメリカでは2月1日)。(プロデュース:ヴァンダ&ヤング)同アルバムはイギリスで第2位、アメリカで第12位、24週間チャート入りし、プラチナ認定される。


1988年5月3日
ソールドアウトとなった6ヵ月間の北米ツアー初日(サポートアクトにシンデレラ、LAガンズ、ホワイトライオン)。パフォーマンス誌が今年最高のツアーと絶賛。一時的にバンドを離れたマルコムに代わり、甥のスティーヴィー・ヤングがツアーに参加する。

1989年11月
サイモン・ライト、AC/DCを脱退し(6年半在籍)、ディオに参加。後釜には、元マンフレッド・マンズ・アース・バンド、ユーライアヒープ、ザ・ファームの凄腕ドラマー、クリス・スレイド。

1990年9月
14作目『レイザーズ・エッジ』、アメリカ、イギリス、ヨーロッパ、オーストラリアでリリース。ラヴァーボーイ、エアロスミス、ボンジョヴィで知られるプロデューサー:ブルース・フェアバーン指揮の元、カナダバンクーバーにてレコーディングが行われる。アルバムはイギリスで第4位、アメリカで第2位、77週間チャート入り。最も新しいところでは(2001年)、4×プラチナ(400万枚売り上げたアルバム)に認定。


1991年6月
『ブロウ・アップ・ユア・ヴィデオ』と『レイザーズ・エッジ』からのプロモクリップなどを編集した、ホームビデオ・コンピレーションをリリース。

1991年8月
AC/DC、キャッスル・ドニントンでの「モンスターズ・オブ・ロック」フェスティバルに史上初3度目のヘッドライナーとして登場。メタリカ、モトリー・クルー、ブラック・クロウズなども出演し、観客動員数72500人という新記録を打ちたてる。同ツアーはその後、ヨーロッパ、ロシアの20ヵ所を網羅。

1991年9月28日
AC/DC、モスクワ、ツシノ飛行場でのフリーコンサート「ロック・アラウンド・ザ・ブロック」のヘッドライナー出演。観客動員数は50万人から100万人といわれ、ロシア軍による厳重すぎる警備のためコンサートはキャンセル寸前になる。その一部始終は、翌年リリースされた長編ビデオで目撃できる。

1992年9月
ロシアでのコンサートを収録した長編ビデオ『悪魔の招待状−モンスターズ・イン・モスクワ』、リリース。ジョンソンがこう話しかけている:「オペラもバレエも冷戦を溶かすことはできなかった。冷戦をなくすにはやっぱりロックンロールだぜ」

1992年10月27日
15作目『AC/DCライヴ』(14年ぶりのライヴアルバム)、主にキャッスル・ドニントンのテープをフェアバーンがプロデュースした作品を2つのフォーマットで同時リリース。23曲収録のCD2枚組『LIVE〜Special Collectors Edition〜』は第34位まで上昇し、14週間チャート入り。最も新しいところでは(2001年)ダブルプラチナに認定。「編集版の」14曲収録のCD1枚ver.は第15位まで上昇し、48週間チャート入り。最も新しいところでは(2001年)トリプルプラチナに認定。長編ビデオ『Live At Donnington』の付属版は93年にゴールド、(2001年に)プラチナに認定される。


1993年6月
映画サウンドトラック『ラスト・アクション・ヒーロー』、リリース。複数のアーティストによるハードロック・アルバムで、AC/DCのシングルとして書き下ろした新曲「ビッグ・ガン」収録。プロデュースはリック・ルービン(ブラック・クロウズ、ザ・カルト、スレイヤー、レッド・ホット・チリ・ペッパーズなどを担当したばかり)。アルバムロックチャートで2週間連続ナンバー1。プロモビデオは、デイヴィッド・マレット監督がLAのヴァンナイズ空港の格納庫104Eで映画の主演俳優アーノルド・シュワツェネッガーをフィーチャーして撮影される。

1994年夏
フィル・ラッド、11年ぶりにAC/DCに復帰。ニューアルバムのレコーディングセッション開始。

1995年9月
ワーナー・ミュージック・インターナショナル(AC/DCのオーストラリア及びニュージーランド以外の国での配給会社)が世界でアルバムを8000万枚以上売り上げたことを称えて表彰される。

1995年9月22日
16作目『ボールブレイカー』、リリース。プロデュースはリック・ルービン。アメリカで第4位、33週間チャート入り。最も新しいところでは(2001年)、ダブルプラチナに認定される。


1996年11月18-19日
長編ホームビデオ『ライヴ・イン・マドリッド〜灼熱の闘牛場(ブルリング)』、全世界でリリースされる。1996年7月10日撮影。

1996年11月30日
ワールドツアーが、オーストラリアとニュージーランドで15回のショウの後、ニュージーランド、クライストチャーチで終了。

1997年2月27日
映画『ハワード・スターン−プライベート・パーツ』のサウンドトラックをリリース。クライマックスは(映画同様)、1996年7月、ニューヨークシティのブライアントパークで撮影された「欲望の天使」のライヴ・パフォーマンス。

1997年11月11日
ボン・スコットのトリビュートCD5枚組ボックスセット『ボンファイアー〜ボン・スコットに捧ぐ』、リリース。

1998年8月
ケラング!誌から功労賞受賞。同誌はのちに、「AC/DC−The Definitive History」を出版。

1999年3月16日
RIAAから、1枚のアルバムが1000万枚以上売り上げた作品として『バック・イン・ブラック』にダイアモンド賞を与えられた。ニューヨークでの授賞式にはブライアンとクリフが出席。

2000年2月25-29日
17作目『スティッフ・アッパー・リップ』、イギリス、ヨーロッパ、オーストラリア、北米でリリース。(プロデュース:ジョージ・ヤング)同アルバムはアメリカで第7位、アルゼンチン、オーストリア、ドイツ、フィンランド、スウェーデンで第1位:フランス、スイス、スペインで第2位:オーストラリアで第3位:カナダ、ポルトガル、チェコ共和国で第5位:ノルウェー、ハンガリーで第6位:ベルギーで第10位:イギリスで第12位:デンマークで第19位:イタリアで第22位。


2000年3月
23年ぶりにテレビで5曲ライヴ出演。収録はニューヨーク。「AC/DC@MTV」スペシャル、NBCに出演した。

2000年9月15日
AC/DC、ハリウッド・ロック・ウォーク・オブ・フェイム殿堂入り。
ハリウッド・ブールバードのギターセンターに手形を残す。

2001年1月22日
『バック・イン・ブラック』、RIAAより19×プラチナ(1900万枚売り上げたアルバム)に認定される。
アメリカのレコード史上最大のベストセラーアルバム10枚に数えられる。この週、15枚目の認定となり、AC/DCの総アルバム売上は6300万枚という驚異的な数字となる。アメリカでは史上第9位の売上枚数を記録し、バンドとしての売上枚数は、ビートルズ、レッド・ツェッペリン、ピンクフロイド、イーグルスに続く第5位となる。

2001年2月
82年以来、19年ぶりの来日公演が実現する。
(2001年 2月19日,20日 横浜アリーナ、2月22日 大阪城ホール)

2001年11月-12月
『スティッフ・アッパー・リップ』DVDとホームビデオ(VHS)、日本、イギリス、ヨーロッパ、オーストラリア、アメリカでリリース。アメリカでゴールド認定される。

2002年11月8日
AC/DC、3年目の投票でついにロックンロール・ホール・オブ・フェイムに投票される。
同年殿堂入りを果したのは他に、クラッシュ、エルヴィス・コステロ、アトラクションズ、ポリス、ライチャス・ブラザーズ。

2002年12月6日
AC/DC、ソニーミュージック傘下のエピック・レコードと全世界で契約すると発表。

2003年3月10日
AC/DC、ニューヨークシティのウォルドーフ・アストリア・ホテルで行われた第18回表彰式ディナーでロックンロール・ホール・オブ・フェイム殿堂入り。

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