第十二章 〜フェス〜


 人数は関係ない、一人でも聴いてくれる人がいれば良い。と、いうのはマインドの話であって、ご飯が食える食えないの話とは別室で行われる話であったりする。
 往々にして同室しづらいこの二つに気を遣い、それぞれの部屋を交互にノックしながら日々を過ごすと、あれ、それぞれの部屋で意外と同じこと言ってね? みたいなことがある。部屋の往復の手土産に、互いの部屋にそういった共通点を持参すると、双方の機嫌を取れるので便利だ。妥協のないバランスの取り方を覚えることは、一つの道を走り続けるにあたり重要である気がしている。

 人数は関係ないが、人をたくさん収容出来る会場でやりたいと思うのは、全く別の人生を歩んできた個人が一つの会場に集まり、我々の音楽を中心点として刹那的に個をクロスオーバーさせることに、物凄いロマンを感じるからである。みんなで一緒に、とか手を取り合って、とか促して出来るまやかしの一体感なんてものに微塵の興味もなく、たった一瞬の偶発的に生まれてしまった一体感に歓びを覚えるのが私で我々だ。
 そしてご飯を食える状態と胸を張って言えるのは一体いつからなのでしょうという話だが、これに関しては個人差がある。インディーズと一括りに言っても、事務所の方針、契約内容、給与形態、立ち上げた事務所か、既存の事務所であるかによっても全く違うし、メジャーというフィールドに場所を移しても、レーベルが事務所に年間いくら降ろすのか、その中から事務所がアーティストにいくら払うのか、そして給料制なのか歩合制なのかによっても違う。まア我々を基準して頂くと考えやすいと思うのだが、私がアルバイトを辞められたのが齢三十手前である。SUPER BEAVERの歴史と照らし合わせて頂ければどこら辺を指しているのかの参考になるかと。しかし斯く言う我々には借金の清算に費やした時間があったりするので、決してわかりやすい例とは言えないのだが。

 一対一の数が増える、即ち目掛ける先が多岐にわたると、どちらの部屋の住人もニコニコしてくれる。なので、たくさん人がいると楽しいよねエ、という安直な話になってくる。それならば「わかっているのなら、すぐにでもやればいいじゃない」と自然な道理でそうなっちゃうわけであるが、そんな風に簡単に卸してくれる問屋はいない。きちんと調べたわけではないが、合羽橋にも馬喰町にもおそらくいない。
 たくさん人がいると楽しいよねエ、は響きに反して難しい。

 「たくさん人がいるから楽しい」の状況を作る為の方法は幾らでもあるが正解は一つとして存在しない為、どのバンドも唯一ある大きな引き出しの、ごちゃごちゃした中にある一番手前の物を引っ張り出してくることになる。まア要するに一度に大勢の人に観てもらえる環境でオンステージ出来たらいいんじゃないの? と。幾晩も十二時間以上酒飲んでくだ巻いた結果、これだけしか答えが出ないなんてバンドマンってマジかわいい。我々も例外ではなく。
 だからフェスに出てみたいよね、なんて話になるんだけど、そもそもフェス出たいが打開策の一番目にくるバンドなんて、そもそものおつむが足りていないのでそれを一番の近道にすることなんてまず出来ない。よって結成して十年間フェスとは全く無縁の活動であった。怪我の功名と言うか、そのおかげで、フェス=イレギュラー = ご褒美、という割と真っ当な公式を作れたので、今となってはそれで良かったのかな、なんて思っているのだが。
 あと一生懸命運営してくださる方がいるにも拘らず”打開策”という言葉を使ってすみません。二〇一九年は有り難いことにフェス出演本数日本一になった我々ですが、当時はそれを知る由もなかったので悪しからず。

 もちろんのこと数多存在するフェスというものは、慈善事業ではなく、商売であることは揺るぎのない事実であるので、集客出来ないバンドを呼ぶなんてことはほぼ起こり得ない。もちろん主催の強い気持ちのもとオンステージ出来るバンドがいることも事実だが、往々にしてメインステージとは別の、大きくないステージになることが殆どだ。フェスに掛かる費用は莫大であるので、そうなってしまうことに関しては当たり前だと思っているし、呼ばれないことにこちらが文句を言うのもどうにもお門違いだとも思う。まア選んでもらっているうちは何を言っても格好がつかないので、たとえ五十人集客することが叶わないバンドであったとしても常に選ぶ立場に自分たちを置くことが大切な気がする。それが出来ないのであれば、その先に十万人集客できるバンドになれたとしたって、自分たちをバンドと呼ぶことすら危うい。
 それぞれのフェスに、それぞれの意志が存在する。「いや、本当に感動したし、感謝です」もあれば「おい、てめエ、そりゃねエだろ」もあるので、ある程度自分たちの商品としての価値も俯瞰的に見ることが出来たら、それぞれを選びとるための良い判断材料になるので、一歩、二歩引いて自分たちを見ることは割と大切。

 そもそもフェスというものに対して、フェス=イレギュラー = ご褒美と自ら弾き出した公式もあるのだが、私にとってはビジターゲームに挑むスタンスも当てはまる。
 ご褒美として用意されたボーナスステージのような感覚と同時に、敵陣に勝ちをぶん取りに出向くようなビジターゲームのような感覚もあるのだ。ホームゲームであろうがビジターゲームであろうが差異なく、観てくれる人がいるのであれば全身全霊心を込める、スポーツ選手を想像して頂けるとしっくりくるかと。
 そういった心持ちで幾度もフェスに参戦させて頂き感じたことだが、もはやフェスはひとつのカルチャーだ。「何を今更」と思う気持ちも、「あアこいつ遂にカルチャーとか言い出したよ」と思う気持ちも十二分にわかるのだがちょっとだけ言わせて。お願い。
 昨今はフェスがひとつの目標になってきている風潮を感じる。悪いことだとは思わないが、良いことだとも思わない。私は新しいか古いかで言ったら古いタイプの人間であるので、根付いたその場所に美徳を感じる。個人の美徳云々、正直美徳なんて言っちゃってる時点ここら辺でもまた「は?」と思う気持ちもわかるが、もう少しで終わるのでもうちょい我慢、ね、我慢。要するに私は「やっぱライブハウスっしょ!」的感覚の人間であるのだ。
 ただやはり、時間の経過による変化が起こっているのは確実で、一番初めに音楽に触れた場所がフェスだったなんてことも今後ざらに起こりうるのだろうなアと思う。そうなった場合、フェスに強く根付いた結果、そこに美徳を感じる人間が出てきてもおかしくはない。そしてそれは別段悲観するようなことではないのだろう。
 移りゆく変化を個人の価値観で否定することは成長ではなくて老いの一種であるからして、自分が受け入れられない時代の変化を、大きな括りで否定し始めたらもはや本当に老害だ。自分が受け入れられないことは、自分が受け入れなければ良いだけの話であるので、「フェスというものがひとつのカルチャーになりつつある昨今はフェスがひとつの目標になってきている風潮を感じる。悪いことだとは思わないが、良いことだとも思わない」はあくまで個人の見解だ。伴って私の中での音楽はおそらく変化しないので、ライブハウスとフェスとそれぞれの美徳がどうなったって別段構いはしない。
 まアそんなこと記してもブーブー言う瞬間はこの先幾度となく訪れるのだろうから、その度、老害という二文字を家に帰ってから思い出し、きちんと落ち込んだりする予定だ。
 あとさ、個人の見解って言葉便利だよね。「私は私なの」とか「知らんけど」とかそういう空気感じる。

 今後も勝手にお世話になれたらなんて思っているフェスだが、お互いに選び、選ばれるイーブンな関係でいられたら理想的だし、とても嬉しい。
 関係者各位。バンドマン稼業胸はって精進していく所存ですので、よろしくお願いします。この先も媚びたり遜ったり、逆に偉そうにしたり舐めた口きいたりも絶対にしませんので、これからも何卒。




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