第八章 〜自主盤〜

          1


 さ、突然ではあるが、メジャーという場所は良くも悪くも過保護だと思う。メジャーレーベルと再契約していきなりこんな事言うのは、ちょっと、ほら、どうなの、って感じもするだろうが、どちらも経験している我々だから言える気もする。
 守られてる、という意識を持ったアーティストのその意識がどう変化していくのか、間違った解釈をしていないか、をその都度見極めるのもメジャーレーベルのお仕事だと思うんです、私は。若輩なりに。
 自分のことを王様、お姫様、と思い込んでしまった人間は、うまくいかなかったことを誰かのせいに、偶然うまくいったことを自分だけの手柄と考える思考を持ちやすいのでかなり不幸だ。そうなった場合、ずば抜けた天才以外は降下の一途を辿るので、そうさせない為に手綱をしっかり握っておくのもメジャーレーベルのお仕事か、と。詰まるところ、それが本質的な『守る』であると思う。まア、勘違いする当人が絶対的に悪いんだけど、そういったアーティスト、そういった体制が事実、割と普通に存在しているので、ちょっと、ほら、どうなの、って感じだ。
 死ぬまで会社に尽くします、死ぬまでアーティストの面倒をみます、は有り得ないわけなので、調子に乗っても乗らせてもいけないし、双方が敬意を払わなければいけない。ビジネスであること、そして何より人と人であるということを忘れたらいけない。
 何でこんな話してるのかというと、我々においても、随分と珍しい処遇であったが故に祭り上げられるようなことは皆無だったのだが、人と面と向かって対峙すること、バンドとしての思考、みたいなものを意識させない体制にあったことは間違いなかったと思う。そのため、人として、バンドとして大分と欠損しているところが多かった。というところに繋げたかったのだ。
 抜本的に頭が良ければ全てを理解した上で立ち回ることも出来たのであろうが、我々はまったくもってそういう類の器用さも器量もなかった。なのでメジャーを離れた我々が、我々のためにも一から経験し直さなければならなかった。
 というお話。

 とりあえず年間一〇〇本のライブ出来たらライブバンドかな、なんて単純な理由から、誘って頂いたライブは余程のことがなければ断らないスタンスで、とにかくライブしまくろうぜと始めたライブ活動は、意思と意志の元、意味合いを強固にしながら今現在に至るまで続いている。
 当時はただがむしゃらに、立てるステージがあるなら、誰かが観てくれるなら、という感じであったが、この日々を過ごしたおかげでこれを読んでくれているあなたに出会えたと思っている。無鉄砲に放り投げる音楽ではなく、明確にあなたを意識するきっかけとなった日々だ。
 一〇〇本のライブとアルバイトの両立は実に目まぐるしく、あっという間に過ぎていく。アルバイトをしなければ生きていけない状況に身をおいて、バンドマンとして身になる部分と、身になっているように感じてしまう部分の境界線があやふやになる瞬間を発見しては、ノーゲストになったテーブルのバッシングをしながら「私はバンドマン」とわざわざ声に出してみたりした。

 さア。人と関わること、バンドの鍛錬、オトナでなく大人としての成長。これら全てを経験するために、我々にはどうしても必要なものがあった。ギター、ベース、ドラムに並んで正味これがなければ、バンドという感じがしない。もうおわかりであろう。そう、バンドワゴンだ。
 我々が借金をして購入したのは、かつて畳屋さんが使っていたという日産のバネットという小さなハイエースのような中古車。この車は、機材を運ぶのと、メンバーを乗せるのに最低限の機能しか持ち合わせないソリッドな車であった。後部座席は薄いスポンジを乗せた板に布を張ったようなもので、座席と呼ぶのにギリギリのスペックしかなかった。リクライニング不可の直角の背もたれは、背中の半分に満たない高さしかなかった為、寄りかかっての睡眠は難しく、移動中は各々が独自で考案した複雑な体勢で眠った。
 アクセルを踏み込むと大袈裟な音がするくせに、登り坂では80キロが限界、不思議な感触のする不安定なブレーキを搭載したこの車を我々は何年もの間、大いに愛でた。日本列島を幾度も往復した結果、シャフトが折れ、ガソリンが漏れ出し、エンジンが掛からなくなったあの車。思い出す度に懐かしく愛おしい気持ちになるのだが、もう一度乗りたいか、と問われれば即願い下げる。

 この頃から、我々のルールみたいなものが少しずつ出来上がってきた。車の座席位置をはじめ、運転する順番、毎月のバンド貯金、そして象徴的なものとして、駐車場解散駐車場集合という決まりが出来た。
 地方から地方へライブが続くと夜走りは必須である。次の日の朝に目的地を目指すよりも、夜のうちに目的地に到着していた方が心身ともに楽なのだ。なので深夜に目的地に到着することが多かった我々は、ビジネスホテル、カプセルホテル、漫画喫茶、車中、友達の家などなど、自分のお財布と相談しながら各々で寝床を事前に確保し、明日の時間を決めたらそれぞれの夜に散っていくというスタイルをとった。これが駐車場解散駐車場集合である。
 利点としては、バラバラの経済状況において適当なお金の使い方が出来るというところ、そして個人の時間を確保、尊重出来るところだ。

 一つずつ、一歩ずつ、一日ずつ、気が付けばトラベリンバンドと言うのに恥ずかしくない本数を四人で回っていた。全国津々浦々、会いたい人に会いにゆき、また会いたいと思える人に出会えた日々であった。お金と時間に制約はあれど自主的且つ能動的な動きは、人と一緒にいられる時間の尊さを実感させてくれた。
 そんな自主的且つ能動的に動きつづけていた我々はあることに気が付く。そういや音源を出していない。


          2


 メジャーレーベルを離れて二年、音源を出していなかった。その事に気が付いた我々は音源を作る事にした。そこで我々はまた気が付いてしまう。
 CDって、どうやって作んの?
 いやはや、驚いた、根本的なことを何も知らない自分たちに驚いた。もちろん過去に、簡易的な録音をしたものをCDに焼いたデモ音源を作成したことはある。しかし、何を基準にしっかりした、というのかはわからないが、しっかりしたクオリティの自主盤を自分たちの手で世に放ったことはなかったのだ。
 わからないを理由にメジャー在籍時に比べて質が劣るものをリリースするということは避けたいという理想と、そんなこと言ったところで何から始めたらいいのかすらわからない現実に挟まれ、我々はしばらくの間途方にくれた。
 途方に暮れるのもいい加減飽きてきたので、どなたかに訊きましょう。という当然のところに落ち着く。
 ほら、出番ですよ、郷野さん。んあ。
 郷野さんは我々に、レコーディングからプレス、ブックレットの作成、包装、流通をかけて店舗においてもらう方法など、事細かに教えてくれた。
 主にそのノウハウを享受したのは柳沢であった。彼は我々がバンドがバンドとして進んでいくにあたり、自主、という冠に一点の嘘のない動きをしてくれた。我々がDIYを貫徹できたのは柳沢のこの力が滅茶苦茶大きかったし、自らが動かした、動いた実感の元に得られる歓びが至福であることを知れたのもやはり、柳沢の力が大きかった。しかし、やり方を聞いて、はい出来ました、となるはずもなく、この時のSUPER BEAVERは本当にたくさんの方に力を貸していただきました。ん、この時も、だね。
 なんとなく道筋が見えてきたところで、会場限定のシングル盤を作りましょうという事がまず決まり、それに伴い自主レーベル『I×L×P× RECORDS』を設立。
 内容、ジャケ、販売方法、どれをとっても以前より劣化していてはならないが、予算に限界があるのも事実だ。現実とにらめっこしながら、我々の制作が始まった。

 兎にも角にも、まずはレコーディング。時間が嵩めば経費も嵩む、レコーディングはそういうものである。
 何日間もスタジオを押さえて、ドラム、ベース、ギター、ギター重ね、歌を順番に録っている余裕は、時間の面でも、お金の面でも無かった。我々には生きていくためにアルバイトをする時間も必要だったし、ご飯を買うお金も必要だったのだ。
 なので短期合宿。会場限定シングルと、その後に出そうと考えていた全国流通をかける予定のアルバムの、トータル十曲を四日間で録り切ってしまおうという、なかなかの暴挙に出た。
 一日三曲を目標に進められたレコーディングは、歌、楽器共に、せーの、で一斉録り。ミスの許されない録り方をこの先もしばらく続けたおかげで、我々のレコーディングは現在、他所のバンドと比べても断トツで早い。  担当してくれたエンジニアは、兼重さんという方。この時からずっと、今に至る最新楽曲までの全てでお世話になり続けている彼は、人より声が高い。

 音が録れたらアートワーク。十代の時分に初めて流通をかけたインディーズ盤の時にお世話になったKASSAIさんという方にお願いさせてもらった。メジャーを離れたということと、是非にもう一度自分たちと仕事をして欲しいということを伝えると、KASSAIさんはすぐに快諾してくれた。ビーバーちゃんロゴをはじめ、様々な盤のアートワークを手掛けてくれている彼は、人より髪が長い。

 兼重さんと、KASSAIさん。プロに仕事を頼むにあたり、ギャランティが発生するのは当然である。仲良しこよしの慈善事業ではないのでこれは当たり前。しかし二人は盤が完成して、お金が回収出来た後での支払いで構わないと言ってくれた。猶予をくれたこと、そしてお支払いした金額のことを考えても、本当に頭が上がらない。

 そしてCDのプレス。窓口として担当してくれたeggmanというライブハウスのブッキング担当の永井、何を隠そうこの後〔NOiD〕レーベルを立ち上げ共に歩み、現在も我々のマネージャーをやっている男だ。
 まさかこの時から今に至るまで、こんなに長く彼と共に歩むことになろうとは微塵も思わなかったので、この時点では、帯を一つ付けるのにもしっかりお金が掛かること、ブックレットが一頁増えただけで値段が随分と変わるということ、フィルムのきっかけを探してペリリと一周剥がすあの一般的な包装を〈キャラメル包装〉と呼ぶということを学べたことが、最大の収穫だと思っていた。〔NOiD〕の話はおいおい。
 ちなみにここで、レーベルと事務所が混在している方も少なくないと思うのでざっくり記述しておくと、レーベルは音源の管理、事務所はメンバーの管理、と言ったところ。これは本当にざっくりなので、それぞれが境界線を超えてお仕事してくれる場面は多々ある。
 即ち我々SUPER BEAVERは現在、Sony Music Recordsというレーベルと再契約して、〔NOiD〕という事務所に所属している、のだ。脱線失礼。

 さて、会場限定盤だけであるならレコーディング、アートワーク、プレス、大まかにこの三つの工程で『完』の字を打って〆てしまっても構わないのだが、我々はこの後にアルバムの全国流通を目論んでいた。
 全国流通とは即ち、全国のレコード屋さんに盤を置いてもらうということである。CDを置いて下さい、と自らの足で回るのは我々らしいスタイルに違いないのだが、これはなかなか現実的ではないし、おそらくそう簡単に置いてもらえない可能性の方が高い。なので流通会社の方に動いて頂き、レコード屋さんに掛け合ってもらう必要があった。
 こちらも頼みの綱a郷野さんに紹介して頂き、どうにかアポイントメントをとることに成功。無事に全国流通が決定した。


          3


『歓びの明日に』という会場限定シングル、『未来の始めかた』という初の自主全国流通盤は、かなりざっくりではあるがこのようにして完成に至ったのである。
 顔を見て、声を聴いて直接話をする。我々の気持ちを伝え、相手の気持ちも伝えてもらう。ちゃんと金銭を発生させた上で、ビジネスでは片付かない人間的な共鳴を感じながら作り上げるひとつひとつは、メジャーにいた頃よりも何十倍も、何百倍もリアルだった。
 歓びが一入であったのと同時に、メジャー在籍時に動いてくれていた、顔すらわからないたくさんの人たちに対して感謝を伝えられなかったことを悔しく思った。そしてそういった状況に疑問すら抱けなかった我々の稚拙さを、大いに恥じた。 
 一つの物事で誰かがよろこぶとして。この時の一つの物事に付随してたくさんの気持ちや時間が動いたことをきちんと知った上で、誰かではなく我々が、そして我々が具体的に思い浮かべられる人に『歓んで』欲しいと考えるようになった。それはこの文章を読んでくれるあなたであって、我々の音楽を大切にしてくれるあなたであって、これから出会って我々に触れてくれるあなたのことである。
 メジャーという場所は良くも悪くも過保護だと思う。だから対等に接しなきゃいけないし、対等に接してもらわなきゃいけない。双方が「ありがとう」を言える関係性を作っていくのはレーベルではなく自分たちだ。我々はあなたと真剣に向き合うようにオトナとも向き合う。共に歓べないと意味がないからね。
 抜本的に頭が良ければ全てを理解した上で立ち回ることも出来るのであろうが、我々は今でもそういう類の器用さも器量もない。なので、顔を見て、声を聴いて、あなたと接するように、オトナとも接する。
 そして、こんな意識をわざわざ持たなければ一緒に音楽が出来ないオトナとは、そもそも手を組まない我々であるから、今後の活動を楽しみにしててくれ。我々は人に恵まれながら音楽をしているよ。





←SCROLL
change font