第七章 〜アルバイト〜

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 メジャーレーベルを離れた我々は、時間こそ掛かったが、音楽の話が出来るまでに回復していた。
 どこへ向けたらよいものかと迷走させていたベクトルも、とりあえずは思うがままに、まずは自分たちが楽しいと思える様な環境を作ることから始めようというところに落ち着き、『音楽』を取り戻すための日々を精力的に過ごしていた。
 その最中である。何かが足りないことに気が付き始めていた。今一度、と奮起したにも拘らずどう言うわけだろうか、明らかに以前と比べて不自由なのである。精神的な何かとは違う、具体的な欠損感。その何かが足りないと、なんだか生きにくいのである。

 それはアイスが食べたくなって立ち寄ったコンビニでの出来事だ。ポケットに小銭が数十円分しかないことが明らかになる。昔から札を崩すことに対して何故か抵抗がある性分ゆえに、少し躊躇してしまったが既にレジ前であった。レジスターの緑色のディスプレイに金額が表示されてしまった以上、やっぱりやめますはどうにも格好がつかない。渋々取り出した札入れに指を突っ込み、一枚出したそれはレシートだった。
「あはは、すみません」
 有りがちな展開だが、微笑み返してくれる店員さんに、私は改めてお札を渡した。
 この日は夜になって気温が下がり心地の良い風が吹いていた。少しだけ遠回りをして、ゆっくり歩きながら家に帰ろう、とそんなことを思っていた。
 なんだか、こんな些細な思いつきを企てるのも久しぶりな気がした。根詰めた日々の中で、自分たちは思うように音楽が出来なかったが、これからはやりたいことをしっかりとやっていける気がしていた。おそらく一度メジャーから落ちてしまったバンドの行末は楽なものではないだろうが、それも覚悟の上だ。四人で、バンドとして、地に足をつけてしっかりやっていこう。
「あの」店員さんが困ったような顔をしてアイスとお釣りを差し出していた。
 思いを馳せていたら、どんどん考えが飛躍してしまった。ここがコンビニであるということがすっかり頭から抜けたまま、しばらく思考する時間を過ごしてしまったようだ。
「あ、すみません」
 軽く頭を下げて、アイスとお釣りを受け取るべく手を伸ばした。しかし私は目の前の店員さんを見て思い止まる。有りがちな展開に、今度は私が微笑み返してあげる番がきた。
「あの」
「はい」
「お釣りもいただけますか」
 私がそう言うと、アイスとレシートだけを差し出したまま、店員さんは困ったような顔をして言った。
「あの、と言うか、お金を頂戴してもよろしいですか?」
「はい?」
「お金を」
「今渡しましたよ。あなた守銭奴ですか?」
「いいえ、あの、今頂いたこちら、レシートでして」
 一体何を言っているんだろうか、この店員は。一度目のミスは認めるが私が二度に渡ってそんな醜態を晒すわけがないだろうに。店員の手からレシートを引ったくり視線を落とすと、そこには昨晩食べた牛丼屋さんの詳細が記載されていた。
 何やら少し不穏な空気が流れたので、未だに私は納得していませんよ、という様子を身体の全面に滲ませてその空気を無理やりかき消した。もう一度札入れを取り出し、次こそは、と指を突っ込むものの、触れるものは何故かみなレシートであった。
「あの」
 状況を察した店員が私に声を掛けた。私は札入れから目を離さず応えた。
「なに?」
「こちら、どうされますか」
 店員は結露し始めたアイスを指して言った。片っ端からレシートを引っ張り出して丁寧に一枚一枚その間を探ったが、レシートの間に挟まっていたものもまた、レシートであった。
 私は咳払いをして、札入れにレシートの束を戻した。軽く微笑んでから腕時計に一度視線を落とし、店員さんと目を合わせた。
「いやはや、失礼。時に店員さん、今ここにあるあずきバーだけどね、この商品の硬さには実は秘密があるって知っていましたか? メーカーの井村屋さんがね、ぜんざいをそのまま」
「お引き取り願います。次の方どうぞ」
「要するに原材料が」
「次の方どうぞ」
 遠回りなどせずに泣きながら帰った。私にはお金が足りなかった。


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 メジャーレーベルと離れると言うことは即ち、今までお金をもらっていたところから離れるということになるのだが、その当たり前のことがどうにも頭からすっかり抜けていた。この事実に気付いてしまったのであれば打開せねばならない。やることは一つ。
 稼げばいい。単純だ。
 とりあえず、メンバーに同じ思いはさせるまい、とこのことについて急いで報告をしたが、私以外の三人は既にアルバイトの面接すらもパスしているという事実を知った。メンバーに裏切られたのはこれが初めだったので悲しかった。
 柳沢はハンバーガー屋さん。
 上杉はラーメン屋さん。
 藤原さんは、柳沢とは違うお店でハンバーガー屋さんになるということだった。
 調子が良いもので、アルバイトをすると決まるとワクワクしてくる。求人情報誌のページをめくる度にかつてない程の高揚感を味わえたのは、これから始まる生活と音楽が明確に結びつく予感がしていたからだろう。稼いで、生きて、歌う。責任を担うことによる高揚感が心地良かった。
 高校生以来のアルバイト。稼ぐぞ、と意気込んで眠ったその日はお金のプールで泳ぐ夢を見た。クロールだった。

 次の日の夕方、目の前に見えるのは涙のせいで輪郭のぼやけた両膝。体育座りの姿勢の私の隣には携帯電話と、期待で折り曲げた三ヶ所のドッグイヤーが虚しい求人情報誌。昨晩目星をつけていたお店に、営業時間の少し前に電話をかけた結果が、私をこんな風にさせたのだった。
 一つ目、ダメだった。固定シフトじゃないと雇えないと言われた。
 二つ目、ダメだった。男はいらないと言われた。
 三つ目、ダメだった。間違い電話だった。
 お金のプールで泳ぐ下品な夢など見たからだろうか。さもしい私を許して。
 結局その後、更に三つのお店に断られ、自らの存在意義を問い詰めすぎて瞬きすることすら忘れかけていた私を、七つ目に連絡したお店が雇ってくれた。
 私は居酒屋さんになった。


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 さて、齢二十三。これを機に私は一人暮らしを始めた。
 一つ行動を起こす度、実家で生活させてもらっていたことのありがたさが身に染みた。帰って来た時に電気がついていないとかなり寂しいこと、想像よりも埃は早く溜まってしまうこと、水回りを綺麗に保つことは大変だということ、両親は存在自体が尊いということ。
 気が付けて良かったことばかりだ。一人で物事を考える時間が増えたことも自分にとってはとても良いことだと思っている。
 しかし、まさかその時から十年も一人で暮らすことになるとは思わなんだよね。本当なら三十路に突入する前に綺麗なお嫁さんをもらって、息子がいたりなんかして。一戸建てのマイホームのお庭にはゴールデンレトリバーが走り回っているはずだったのだが。
 一人で暮らすことにすっかり慣れてしまうと、正直なところ、この先誰かと一緒に暮らすことが実に不安だ。もはや想像すら難しい。いつかは結婚出来たら良いなアなんて思ってはいる。思ってはいるのだが、二十代半ばで三十歳までの結婚を諦めた私が次に定めた期限が三十五。そして期限はフレキシブルに変化し続け、現在設定している期限は四十。この傾向から鑑みるに、絶望的な香ばしい香りがしてくる。
 将来の夢はお嫁さんになることです、と小学生の時分に書いていた同級生の女の子。あの時、そんなの当たり前じゃねエかよ、って言って本当にごめんなさい。私の女房になりませんか?

 さて、ようやくアルバイトで一人暮らしが始まった私は、刺激的でスリリングで贅沢の許されない日々を、そんな日々なりに楽しんで過ごしていた。
 生きている、という実感は図らずも、SUPER BEAVER四人で合わせる音に今までとは違う気概を生んだ。詰まるところ何よりそれが楽しかった。こうやって重ねていく時間の先に、今よりずっと楽しい時間が待っているのかもしれない。そんなことを思っていた。
 しかし、そうは問屋が卸さない。柔軟剤を洗濯物の上にただぶち撒ければいいと間違った使い方をしていた私に訪れた、春の嵐。

「クビになった」
 そう言ったのは藤原さんだった。
「え?」
 柳沢と、上杉と、私は一斉に眉をひそめた。藤原さんの眉毛は八の字だった。
「見た目、ですか?」
 私は訊いた。藤原さんは黙って首を横に振った。
 柳沢と上杉は、藤原さんを優しく慰めていたが、私はようやくメンバー四人アルバイトが決まったという調和を彼が乱したことが許せなかった。ふざけんなよ、と思いながら泣いてる藤原さんを醒めた目で眺めていたら、クビになった原因がわかった気がした。試しに私は訊いてみることにした。
「年齢、ですか」
 私が訊くと、藤原さんは声を震わせながら言った。
「だから、俺は二十二歳」
「それだよ」思った通りの答えが返ってきたので、私は間髪入れずに言った。「仕事が出来る出来ないとか、そういうことよりバイト先からの信頼を得られなかったのが一番の理由なんじゃないですか。まさかとは思うんですけど履歴書とかにも二十二歳って書いたわけじゃないですよね? それ結構やばいですよ。年齢詐称って違法性の程度は低いかもしれないですけど、人を欺いていることにはかわりないですから。騙すことが身体に染みつくと桃の染みくらい落ちにくいものなんですよ、洗剤とかじゃ無理。あ、あと、ちなみにこれ、バイトをクビになったことについてだけ言ってるわけじゃないですから。いつまで我々にも二十二歳って言い続けるつもりなんですか、ってことについても私は言ってるんですよね。ぼちぼちはっきりさせません? あなたさ、結局何歳なの、メンバー騙して楽しいですか、冗談だとしたら長いし、それにそもそもそんなに面白くないですから」
 一息で言うと、藤原さんは声をあげて泣きだした。柳沢と上杉は、藤原さんの肩に手を添えて、非難するような目で私を見ていた。なんでそんな目で見るのか、私には意味がわからなかった。


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 藤原さんの新しいバイトが決まった。
 ピザ屋さんだった。ピザ屋っぽくない名前の変なピザ屋さんだった。
 具を挟む仕事をクビになった男が、具を乗せる仕事に就いた。

 音楽でご飯が食べられるのが多分一番良い。ただ人生の真ん中に音楽があったとしても、それを取り巻く生活がある以上、バンドとアルバイトは、切っても切れない関係にある気がする。
 そしてこの関係は、長く続けば続く程不安になる。いつまでこれが、という類の不安ももちろんあるのだが、この生活が当たり前になり過ぎることに対しての不安の方がでかい。
 これによって培われる反骨心や、向上心、団結力、そういった類の強いエネルギーが自分の身と骨になっていくことも間違い無いのだが、湾曲して、こじらせるとかなり厄介なので随時の軌道修正が不可欠だと思う。私も一度、全てを棚に上げての妬み嫉み僻みに心を滅ぼされかけた経験がある。おそらくなのだが、陰の気持ちは無くなったりはしないと思うので、うまく寄り添って陽へ導いてあげないとね。
 もちろんアルバイトすること自体が身になることだってある。今でも役に立っていることはたくさんあるし、アルバイトを始めたばかりのこの当時の私は、仕事を一つ覚えられただけでとてもハッピーであった。
 グリストを何曜日に捨てるかで盛り上がったのはバンド練習後の出来事、とりあえず四人の調和が戻ってきた気がするので一件落着。胸を撫で下ろした数週間後にそれは起きた。
 掃除機のフィルターを掃除しただけで吸引力が格段に上がるということに気が付いたそんな時期に訪れた、二度目の春の嵐。

「クビになった」
 藤原さんだった。
 実は、藤原さんが安心して働けるアルバイト先が見つかりますように、と私は気が向いた晩だけ夜空にこっそりお祈りしていたのだ。藤原さんを泣かせたあの日、少しだけ言い過ぎてしまったかもしれないと思ったからだ。
 願いが通じたその夜に、私は夜空とピザ屋さんに頭を垂れて感謝の意を表した。それなのに。
「なんでですか」
「バイト先が」
「バイト先が何?」
「潰れた」
 驚いた。なんか、この人やべエんじゃないかと思った。この人の何かがそうさせるのかもしれないし、この人の何かがそうなってしまう何かを引き寄せてるのかもしれない。ただクビになるだけなら、年齢を詐称することに悪意を感じられない彼のコモンセンスが原因であることに違いないのだろうけど、店が潰れるとなると、また話は変わってくるような気もした。
 ただ往々にして、『怒られた』と表現する人に『怒らせた』自覚がないように、『店が潰れた』と表現する彼が『店を潰した』可能性も排除出来ない。
「なんで潰れたんですか」
「わからない」
「わからないことないでしょう、アルバイトとはいえ店が従業員に話す道理はあるでしょう」
「わからないんだよ」
「いや、首横に振って『わからない』の一点張りじゃこっちはもっとわからないじゃないですか。原因がないのに何かが頓挫するってことはまずあり得ないんですよ。金銭面、利権問題、体調、そして根本的に積極性欠如、いろいろあるでしょう」
「はい」
「はい、じゃないよ。イエスかノーかの質問をしているわけじゃないんですから。相槌打ってないで、原因を教えてくれって言ってんの。自分が店に携わったその一瞬で店が一つ姿を消したんですよ、この意味わかってますか。潰れた潰れたってさっきから言ってますけど、甚だ疑問ですよね。潰した、の間違いなんじゃないですか。どうせこの前みたいに詐称を働いたんでしょ、それでもバレないだろうとか、構わないだろうっていう、そういう認識の甘さが」
 言葉の途中で藤原さんに殴られた。
「わからないって言ってるでしょ!」
 泣きながら肩を上下させ、大粒の涙を流す藤原さんのもとに柳沢と上杉が駆け寄った。
「あと!」藤原さんが叫んだ。「俺は二十二歳!」
 柳沢と上杉は、藤原さんの肩に手を添えて、非難するような目で尻餅をつく私を見下ろしていた。
 なんで。殴ったのは彼で、殴られたのは私なのに。
 しかしどうしてか、藤原さんから落ちる涙を茫然として見ていたら言葉がこぼれた。
「綺麗だ」


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 万能の神、郷野さんからの紹介で藤原さんのアルバイト先が決まったのはそれから二週間もしないうちであった。
 レーベルと同時に事務所とも離れた我々を、郷野さんが長い間気に掛けていてくれたことには頭が上がらない。仕事として人と関わることの大切さ、人として人と関わることの大切さ、どちらもこの時期に教わった気がする。
 ようやく各々が安定したアルバイトに就くことが出来た。遠征で一週間以上空けることも珍しくない我々の滅茶苦茶なシフトを受け入れてくれた優しいアルバイト先には、今でも大感謝である。
 殊更私においては、接客中に居眠りをしたこともあれば、ドリンクカウンターの一升瓶を何本もまとめて割ったこともある。お客さんの膝に料理をこぼしたし、度々隠れてオレンジジュースを飲んでいたし、やれと言われたのに小便器に一度もサンポールを撒かなかった。よく続けさせてくれたと思っている。親身になってくれる社員さんと、仲良くしてくれるアルバイト仲間のことが私はとても大好きであったし、今でもちょくちょく会っている。

 アルバイトに汗を流す日々はここから二十八歳くらいまで続く。大変じゃなかったと言えば嘘になるが、こういう日々を過ごせたからこそ、人に施してもらえる親切が物凄く染みたりするし、気が付けた思いやりに心がぶわアっと温かくなったりする。
 我々が枝葉を広げるにあたって最も大切な根っこは、こんな日々に強くしてもらったのかもしれない、とこれを綴りながら思った次第。





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