第六章 〜メジャー期〜



 メジャーデビューを経験し、インディーズに戻り、そして10年後の現在メジャー再契約。自分たちにとって原動力になった部分と、そうでない部分。
 挫折、後悔、忸怩、そういった部分をそのまま自分のなかに住まわせておくのは簡単であるが、胸の内の大事なスペースを一部占領されるのであれば、ある程度それに見合う対価は求めるべきだと思う。具体的にそれはモチベーション、向上心、なにくそ根性。前述したような自らにとっての原動力になるもの、それは負に属する気持ちを心に住まわせる上での家賃的なものであると私は考えている。
 自然発生はしない、意志と、意思に基づいて、負のエネルギーはそれなりの家賃を払ってくれるようになる。
 それじゃア『そうでない部分』とは。
 あるのだ。どうしても。
 それらは家賃も払わず、なんとなく心の中に住み続けている。
 今から話すことは、原動力になった部分と、そうでない部分。そんなことを意識するきっかけになった出来事。
 往々にして身になったと感じられることの根幹は、楽しいことではない。これも例外では、ない。



 二十歳という年齢は特別である。何がどう変わるという訳ではないのだがしかし、〈にじゅっさい〉と書いて〈はたち〉と読ませるなんざやはり只事ではないのだ。夢が、夢として、磨かずともピカピカしていた。無垢で無知がゆえの輝きは、誰にも馬鹿にはできない程に眩しいものだった。
 だからやはりメジャーデビューできるという話をもらった時は、漠然とだがすごいことが決まったと純粋にみんなで歓んだし、大人の階段を上る為の足掛かりを見つけたと同時に正直人生の安定が確定したとまで思った。
 今でこそ、メジャーとインディーズの間にわかりやすい境界線を見つけることは難しいが、当時は『メジャーデビュー=売れる』という公式が音楽の教科書に記載されていた程だ。狭き門扉さえ潜ってしまえばあとはご飯が食べて行けると本気で思っていたのだ。

 前章で記したが、青田買いの対象となった我々は、インディーズでの流通盤をリリースする前に、既に俗にいうオトナと話し合いというか、打ち合わせというか、親睦会というか、をしている。その時話された内容はよく覚えていないし、よく理解してなかったんだと思う。とりあえず流通をかけたインディーズ盤をメジャーデビューの前に作ってみましょう、という、はじめの一歩がここで決定したことだけは間違いないのだが、それ以外は存じ上げぬ世界の実態のヌルヌルしてなかなか掴めぬ様々なお話に、足りない頭をカクカク頷かせていただけだ。
 とりあえず、頷くこと。これが真綿で首を絞める様に良くない方に効いてくる。
 詰まるところ、オトナ、そして社会とか世間ってのを、自覚なしに舐めてたんだと思う。二十歳を迎えた私が見る外の世界は、リアリティを伴わないリアルで、映画や本と、然程変わりはなかったのである。

 メジャーレーベルお抱えのもと全国流通をかけたインディーズ盤を二枚リリースした。その時から、実家で生活する分には困らない程度のお金が毎月支給されるようになった。恵まれすぎた環境に当時は気づけなかったし、考えようともしなかったのは、それが当然だと思っていたからである。言い訳にもならないが、なにせそれが初めて飛び込んだ社会であり、我々はまだ、その一部になれた自立感の様なもののみで一端の大人を気取っていた子供であった。
 行く先々、誰と会話をするにも挨拶を一つするにも、傍らには必ずオトナがいた。我々の言葉はオトナを一度中継してから相手に届き、相手から発信されるそれもまた、オトナを中継して我々に届いた。
 雑味や灰汁や、嘘や世事からでるバリの様なものだって、個人を象徴するファクターである。相手と共にしている空気、やり取りのなかで掬いきれなかった残滓に手を伸ばして触れる勇気や優しさ、はたまた強引さ。それらは誰かというフィルターを通してしまっては味わうことが難しくなる。面と向かって、目を見て、膝を付き合わせてなんぼなのだ。しかしオトナというフィルターがあることが当たり前だと思っていた我々は、しっかり滅菌された清潔な空気だけを吸い込んで吐き出して、満足に風邪すら引いたことがなかった。
 完璧に守られた条件下のみで成立する健康。ある意味究極の不健康。
 その状態のままSUPER BEAVERはいよいよメジャーデビューをすることになる。既に雲行きは怪しい。

 いきなりタイアップがついた。
 本来そんな簡単に主題歌とかエンディングテーマとかイメージソングとかありえない。純粋な好意、そして繋がりを構築した先で決まるものもあれば、会社の力とか、コネクションとか、お金とか、そんなものだってある。
 『平均年齢二十歳』なんて触れ込みでポっと世に出た。鳴物入りでデビューですドンチキドンチキ。友達やら、知り合いやらから電話やメールが幾つも届く。テレビでお前の声を聴いたんだ、とか雑誌で君のことを見たよ、なんて嬉しそうに伝えてくれる。
 しかしどういう具合だろうか、なんだか妙だ。嬉しいのは間違いないのに、返したありがとうも嘘じゃないのに。
 解せないことがある。
 このドンチキ鳴らしてんのは、一体どこのどなたでしょう。

 楽しいから音楽をやっていた。自分たちで音楽をやっているから楽しかった。
 楽しい、という感情のみに突き動かされるスタンスは、柵や時間、そして生活に晒されてようと風化することなく、やはり真っさらでツルツルしている。期待とか、希望とか、ナルシズムとか、自己顕示とか。そんなもので成り立っているので強い。そこに意志やら、芯となる部分があれば尚強い。
 ある時を輝かしい記憶としてそのままパッケージし、何年か経った後、引っ張り出して眺めて楽しんだり出来なくはなかったのに、そんなことはしたくないと思っていた。続けたその先でそれ以上のものを見たいと、稚拙ながらそう思い始めていた我々であったが、期待も、希望も、ナルシズムも、自己顕示も、そして何より意志が、芯となる部分が、足りていなかったのだろう。
 守れずに、まず欠損したのは現実味。
 柳沢と上杉と藤原さんと私でスタジオに入ったからライブが楽しかった、とか。自分たちで決めたセットリストがうまくはまらなかったから悔しかった、とか。自分で描いて自分で刷ったフライヤーだから貰ってもらえて嬉しかった、とか。その結果と、行き着くまでの過程がわかっていたから心が動いたのだ。しかし、インタビューの主旨を理解していない、紹介された偉そうなところが鼻につくおじさんが誰だかわからない、テレビで歌唱させてもらえたきっかけを知らない、が殆どになった。
 ここにいる自分が、ここまでどうやって来たのかわからない状況は、やっぱりリアルじゃなかった。ただ違和感はあれど、危機感までは持てなかった。
 その時に抱いていた感覚が、今現在の私が一番畏怖する感覚〈まア、こんなもんか〉である。
 最も味気なく、最もつまらないと思う感覚だ。

 自分はそこにいるのに、現状を把握出来ないまま、ただ運ばれるように時間が流れていった。
 わからなかった、知らなかった、は言い訳にならない。正直わかろうとしなかったし、知るために動かなかったのだから。
 やりたいなら何故やりたいのか。嫌ならば何故嫌なのか。確固たる意志をぶつけなければディスカッションするためのテーブルにも載せられない。言われたことが、体裁だけ整えられたそのテーブルの上で、合意したという形で決定事項となり、一つ一つ実現されてゆく。
 どうもまずいな、と思いながらも、それらに対して我々が唯一とった行動は、苦笑いを浮かべることだった。

 いつしか。これをやってみたら?が、これをやりなさい、になり、これをやれよ、になる。
 変だと思った時にはもう遅い。随分と妙な関係が構築されてしまって手も足も出ない。三時間寝れば人間生きていけると言われた我々は、三ヶ月間休み無しなんてのもざらでみるみる憔悴していった。
 「音楽とは?」
 こんな疑問が顔を出すが、そんなこと思ってしまったら一番に傷つくのが自分だとわかっていたので、気配がする度に自分で滅していた。
 シングルを三枚、ミニアルバム一枚を物凄いペースでリリースした。
 最後の方良いものを作るというよりも、オトナを満足させることが第一になっていた。オトナを頷かせなければ先に進めないというところからスタートして、いつの間にかそこを突破することこそが、ゴールになってしまっていた。なんだかとても虚しいことだね。
 やっとの思いで作り上げたものを、意図も満足に伝えられずハンマーで片っ端からぶっ壊されることに慣れなければならなかった我々にとって、個人の思考とかそれぞれの意志とか、そういったものは殆ど必要とされなくなっていた。
 情けない話ではあるが、私に至っては、結果が出ないのはお前のそのスキニーズボンが諸悪の原因だ、とまで言われ、これを履けと渡されたダボダボのズボンを、何の疑いもなく履いていた程である。
 自分が今何をしているのかうまく判断がつかなくなり、混乱状態が通常になっていたので基本的に何をしても怒られた。本当に毎日、何かする度に怒られていたので、この支配からエスケープする術だけを考えていた。まア考えていただけで実行に移す度胸などもなかったのだが、考えれば少しだけ楽になれた。
 どうせ何をしたって否定されるのだ。スタジオには行きたくなかった。ボーカルブースのヘッドフォン越しに二時間罵倒されたり、テーブルひっくり返されたり、椅子が飛んできたり。それでもスタジオには行かなければならないのは仕事だと思っていたから。そういう時は意識を遥か彼方において、過ぎる嵐を無感覚でやり過ごす様に無でいる。それが最良の方法だった。
 この辺りから友達、そして両親に心配される様になる。
「どうしたの」

「何でもない」
 と、嘘をついたこと。これは正直、堪えた。

 さて、初のフルアルバムだ。
 相変わらずの毎日のタイムスケジュール、そしてここでは明記できないような非常識なことが幾つも起きた(理不尽なんて言葉では到底片付かないそれらを洗いざらい書いてしまうと、色々なところに歪みが生まれてしまいそうな気もするので念のため割愛する。オトナに対して、我々は大人になることにする)。
 さて、製作中のスタジオ、ソファに浅く腰掛けた私は全てが麻痺して身も心もスカスカだった。お麩、みたいだった。
 理想とか希望は特になし。毎日ただ早く帰りたいと思っていた。
 着手していた曲が完成したのでみんなで聴くらしい。他人事の様にしか感じられない。
 音が流れる。鼓膜が震えているという感覚のみ。
 しかしその中で歌の存在が別格に聴こえた。まず誰の声だかはっきりしない。しかしどうやら自分の声である。ただやけにちぐはぐだ、心と言葉と音と、重なる箇所が一度もない。
 これが音楽なのか。私が好きだった音楽、我々が好きだった音楽。
「音楽とは?」
 この瞬間、本気で思った。どうしてかこの瞬間全く無視できなかった。若輩ながら、人生も、生活も、大切な人たちも、何もかも全部が結びついてしまった。
 隠すつもりでいたもの、偽るつもりでいたもの、本心のつもりでいたものが、露呈して崩壊した。
 プッツンした。
 まじでこういうことか、ってわかるくらい生々しく、自らの中で張り詰めていた何かが切れるのを感じた。
 数分後、情けないかな救急車。
 
 病院に到着して、私は無。
 でも少しだけ考えることは出来た。
 あの話し合いというか、打ち合わせというか、親睦会というか。あれをしてから二年も経ってる。徐々に、辛くなってきちゃったよなア。初めは違ったんだけどね、徐々に。メンバー同士大笑いしあえるバンドだったのに、柳沢と上杉と藤原さんとも、ここ一ヶ月くらい会話らしい会話もしてない。みんなそれぞれに辛かっただろうにフロントマンが駄目になってちゃ、ざまアないね。申し訳ない。
 考えてたら、知らせを受けた母ちゃん到着。
「どしたの。あんた」
 目から水出た。

 久々によく眠った翌朝。枕元に立っていたのは我々のマネージャー郷野さん。
「おあよう」
 起きたその時に郷野さんがそこにいてくれたことに、物凄く救われたのを覚えている。
「しーびゃ、だいじょん?」
「大丈夫、じゃないかも」
「んあ。そだね、だいじょんじゃないおね」
「あの、郷野さん、やっぱり」
 郷野さんは全てをわかってくれていながらも続きを待ってくれている。長い時間の沈黙に郷野さんが背中を押してくれた。「どしたー?」
 私は言った。
「音楽辞めさせてください、すみません」
 あっけない。物事はこんな風にして簡単に終わる。考える時間をくれでも、休ませてくれでも、ましてやバンドを辞めさせてくれ、でもなかった。音楽をもうやりたくなかった。今まで大好きだった音楽が、取り返しのつかないくらい大嫌いになってしまうのが本当に怖かった。
「だよね」
 多分メジャーデビューしてから初めての本音だった。頷く郷野さんの、私の為の寂しそうな作り笑いが、苦しかった。

 三日間の検査入院。まず思ったのが「よかった、三日間スタジオ行かなくて済む」だったのだからなかなかキテる。
 退院の日、「少し休めただろうから今からスタジオ来い」というオトナからの留守電を無視して、私は事務所やらに独断で最後の挨拶に行った。郷野さんに幾つか立ち会ってもらったりして会える人にあらかた会った。誰にも引き止められなかったのは、もうこのボーカルが使い物にならないって、その場で悟られたからだと思う。
 挨拶回りがひと段落して、ぼーっとしていると。郷野さんが私に言った。
「いちばんだいじなこと、てゃんとしなくちゃ、だめらよ」
「え」
「しーびゃ、めんばーとはなさなきゃ。よにんではしめたんでしょ?」
 まア、これを言われた時の背徳感は過去最高のものだった。そんな大事なことすら頭から抜けてしまう程に利己的だった自分が恥ずかしかった。自分が使い物にならなくなってしまった事実よりも、メンバーに筋を通さなかった自分が一番ダサかった。
 郷野さんに頭を下げ、郷野さん立ち会いのもと、話をする場を作ってもらった。

 数日後、郷野さんがメンバーを招集しメンバーと対峙出来た。
 各々が各々の葛藤を抱えていたのは明白だった。だから話をするのには勇気が必要だった。それでも話さなければならない。何故なら四人で始めたことだから。
 覚悟して口を開いた。暗闇に目が慣れるまで半歩ずつ進むように、本心という手がかりだけを頼りにちょっとずつ話した。納得してもらえるかどうかの前に、理解してもらう必要がある。
 どれくらい時間を要したかは定かではないが、かなりの時間を費やして本心を語った。音楽を辞めたい、と。
 それから随分と沈黙していたような気がする。短いなりに本気でやっていたことが、こうして終わろうとしているのだ。始めることより、終わらせることの方が、如何なる場面でも容易くはない。
 しかし、本当に少しずつ。私以外のメンバーも自分の気持ちを言葉にし始める。各々がゆっくりと、おしまいを意識していた事実、限界を感じていた理由を話し始める。それはもちろん共通する理由ではなかったが、紛れもない本心だった。
 柳沢が別のベクトルで話す。
 上杉が違う視点で話す。
 藤原さんがもう一つの切り口で話す。
 終わりの話をしているのに何だか嬉しかったのは、バラバラであったから、同じところを見て久々に話が出来たからだ。
 バンド名を考えたり、スタジオの日程を決めたり、セットリストを決めたり、ああでもないこうでもないとバンドの未来を話したり。
 空気は違うけど、同じ感じ。バンドはこうでなくっちゃなと、こんなタイミングで思う。
 長い話し合いが続き、やがて四人は気がつき始める。
 四人で始めたことを、四人で動かぬまま終わらせる違和感。この結果が自分たちが至らなかったというそれだけが理由であると断定するには尚早なのではないかという疑念。この結果の本質。
 我々四人は惨敗した。SUPER BEAVERは負けた。オトナと社会と、弱かったから面と向かって戦うことすら出来ずに敗北した。
 要するにただそれだけ。負けが終わりの理由になるのは、結局自分が諦めたから。
 時間が経って振り返った時に、やれることはやった、と胸を張れるだろうか。戦い抜いた、とその過程に微笑むことが出来るだろうか。このまま思い出す過去にしてしまうことに、本当に後悔はないか。
 四人は気がつき始める。四人は思い始める。
 もう一度立ち向かうべきなんじゃないか、好きだったあの音楽がやりたいんじゃないのか、何度躓いて転ぶ様な困難な道であっても、その先で笑いたいんじゃないか、と。

 今は、逃げないために、逃げるべきだ。

 四人は思った。
 今に見てろよ、の捨て台詞を残して、尻尾を巻いておめおめと逃げるのだ。逃げおおせて、ちゃんと悔しがるべきだ。逃げるという結果が格好良くないことって知ってるから、格好悪いというままで終わらせないように、どれだけ時間がかかっても四人で音楽を続けるのだ。
 何故なら、やりたいから。

 結論。
 その為に今は逃げましょう。ちゃんと四人で。

 この時は完全にバンドやろうゼ、の心境だったと思う。衰弱していたがこの時の四人は強かった。というか、この時からの四人は強かった。まっさらになった何もないその土壌を見て、何を築こうか、何を見つけてやろうか、と。
 前を向くという、そんな単純なこと。自分が前を向いて、自分の右足の次に左足を出さなければ前には進めないというそんな当たり前のことを再認識して、四人はもう一度集結し直した。
再び歩み出そうとする我々のその傍らで、優しく笑った郷野さんが得体の知れない謎の甘そうなジュースを飲んでいた。
「んあ」

 メジャーから首を切られる覚悟で、もう今の状況のままやっていきたくありません、という旨をオトナにしっかり伝えたわけである。
 伝えたわけである、なんてさも自らが先陣を切ったように綴ってみたものの、入退院、そしてメンバーに想いを伝えた先日の話し合いであるもの全てを使い果たしてしまった私は体重も三キロくらいになっていて、身体を揺すればカラカラと、民族楽器のような乾いた音がした。
 なので、お麩に増してスカスカの生き物と成り果てていた私に代わり、決意を伝える劇的にシリアスな幾多の場面では、私以外のメンバーが先陣を切ってくれた訳である。
 数多の話し合いは、まず「こんなんになっちまったじゃねエか、おおう!?」と藤原さんが私を指差して凄み、それを合図に私の横に座った上杉が私を激しく揺さぶりカラカラと音を鳴らすところから始まる。この時点で相手は大体わかってくれるのでことはスムーズに進んだ。話し合いが終わるとすぐに柳沢が私を小脇にひょいと抱え、場をそそくさと後にしたのであった。
 若輩の分際であることは自覚していたので、その場ですぐに首を切られるかと覚悟をしていたが、ありがたいことに、自分たちの作ってみたいものを最後に作ってごらん、と恩恵を頂けた。この機会に生まれたのが、セルフタイトルを付けた『SUPER BEAVER』というアルバムである。
 後任でついてくれたディレクターは我々の意志を尊重してくれながらも、別の角度での意見もしっかりくれた。本物のディスカッションを経て完成したアルバムが結果としてメジャー最後の作品となった。
 我々はメジャーレーベルとお別れした。

 また四人だ。四人だけになった。

 さて、と。どうしましょうか。

 しかし、その言葉に、悲観的な意味は一切なかった。
 開放感に己を蝕まれず、しっかり地に足をつけて今まで出来なかったことやろう。今までまともに挨拶出来なかったライブハウスに自分たちの足で挨拶をしに行こう。ちゃんと話せなかったバンドにもう一度対バンをお願いしよう。今まで禁止されていた打ち上げに全部参加しよう。「ありがとう」、「ごめんなさい」、「よろしくお願いします」をきちんと言いに行こう。
 今より楽しくなることを、今より楽しいと思ってもらえることをやる。当たり前のことだが、それは実は少し難しくて厄介なことも多くて。それでも、そうであったとしても、差し伸べてくれた手は全部掴んで、いつかは自分たちが引っ張っていけるようになるために。そのためにますます貪欲に楽しいことを求めていくバンドが、ここからまた虎視淡々と動き始める。



 さて、決して格好の良い話ではなかったが、紛れもなく今の自分達のスタンスが定まるきっかけとなった日々だ。今のSUPER BEAVERというバンドを語る上でとても大切なことだったので、少しだけでもあなたには知っておいて欲しいと思った。
 この日々の殆どが原動力になったことは間違いないが、やっぱりまだロハで心に住んでいるそれらがあることも事実だ。強引に追い出しもせず、もちろんそのままでいることを良しとせず、これからも生きていくのだろう。
 今振り返ってもハッピーな時間だったとは思えないが、綴らせてもらった日々の中で、エンジニアの兼重さんをはじめ、現在でも一緒にお仕事をさせていただいている方々に出会えたことはかけがえのない財産だと思う。なんだかんだ〈人〉にだけはずっと恵まれているバンドなんだなアと心の底から思わせてもらっている。そう思えるきっかけになったことは間違いない。



 そして。
 我々は今年メジャーレーベルと再契約した。しかも古巣、一度離別したSONYだ。
 何故戻るのか。それはこの章で記した日々からの十年間であなたに会えたから。そしてこれからも新たな出会いが待っていると確信しているから。
 あなたと共に歩んでいる現在の我々が、もう一度メジャーというフィールドで音楽を鳴らせたなら、今より楽しいことが出来そうだから、今よりもっと楽しいと思ってもらえることが出来そうだから。
 同じ轍を踏むには絶対に至らない。我々は曲げないし、曲がらない。
 それに今回手を組んだメジャーのオトナたちはSUPER BEAVERの意志を一番に汲み取ってくれる。我々の音楽を真ん中に置いてディスカッションが出来る、音楽に愛のある人たちだから心配いらない。
 「SUPER BEAVER、なんか違う」と思ったらいつでもその手を離してくれて構わない。ただ我々は絶対にそう思われない自信と覚悟があるし、我々からその手を離すつもりも毛頭ない。
 ずっと応援してくれているあなたも、最近知ってくれたあなたも、これを記している現在ではまだ出会えていないあなたも。
 安心してついてきてくださいね。


          追伸


 こんな素敵な今があるので、割と最近まで当時のディレクターやシステムについて「あの日々があったから」と大人になって割り切ったつもりでいたが、あの当時のオトナの年齢に今の自分がなっていることを自覚した途端、一周回って「やっぱりあり得ねエな」と思い直した。
 音楽業界に拘らず、おそらくどこの業界にも道徳観の欠けた奴が存在していて、そういう奴に限って何故だかしぶとく生きている。
 そういう奴と関わらなければならない瞬間があったとして、どうしても耐えられないような日々があったとして。俺はあなたに無理をして欲しくないと思ってる。あくまでもきちんと向き合った上でならば、逃げてもいいと思ってるよ。
 仕事だから、ルールだから、ってそれは、自分を犠牲にして守る程大事なもんじゃないんだよ。あなたが生きていること、元気でいることには何も代えられない。
 あなたの周りのあなたを大切に思ってくれる人たちの気持ちを、あなたが大事にしてみよう。
 で、のち、自分が思い切り楽しむという形で、そういう奴らに仕返しをしよう。
 齢三十三の若輩が言うにはまだ早いことかもしれないけど、生きてりゃ多分良いことあるぜ。これからも一緒に楽しいことをたくさんしようね。


          追伸2


 先日実家で久々に音楽の教科書を発見しました。ざっと見た感じ『メジャーデビュー=売れる』という公式はどこにも記載されていなかったようなので、おそらく誤情報です。お詫び申し上げますね。





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