第二章 〜バンド名〜

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 朝が苦手だ。一度起き上がってしまえばすぐにシャキシャキ動けるたちなのだが、この一度起き上がる行為が何よりも難しい。スルー前提でかけていた一つ目の目覚まし時計を瞬発的に止めたのも束の間、二つ目の目覚まし時計に無事二度寝を妨げられる。本日も孤軍奮闘、眠い目を擦ってなんとか布団から上半身を起こす。一日で一番の苦行はこれでクリア。
 リビングに行くと、既にご飯と味噌汁が湯気を立てていた。ゆらゆらと立ち上るそれを仏頂面でしばらく眺められる程に、朝ごはんを用意してもらっていることのありがたさに気付けていないおめでたい男が今、猛省。そして感謝。
 テレビでは朝のニュース番組が芸能人同士の結婚を報道していた。本日も、結局平和だ。横目で見ながら箸を取る。
「いただきます」
 勉強しなさい、を言わないかわりに挨拶と筋に関しては厳格な家だったと思う。殊更なんでこんなことを、とも思わなかったが、まア若輩なりに重ねた経験と年齢の結果、これの大切さを尚も継続して実感している。
 制服に着替え、鏡の前に立つ。手に伸ばしたワックスでピンク色の髪の毛にわしゃっとやる。今流行の無造作ヘアとかいうやつは念入りに造作が必要なのだ。その矛盾と傷みきった髪の毛に指が何度も引っかかった。
 かかとの潰れたローファーを突っ掛け家を出る。前かごにカバンを放り込み跨ったママチャリはタイヤの空気が抜け切っていてガタガタいった。顔馴染みになってきた新大久保の駐輪場のおじさんと一言二言交わしてから、乗るはずだった電車の一本後の電車に乗り込む。
 祐天寺の駅から学校までの道のり、傍に健気に咲いているたんぽぽをゆっくり愛でて、電線に止まっているいつもの小鳥達に数曲リクエストしていたら案の定遅刻。席に着いたら持参した眠気をそっと取り出して、いつものようにうとうとして過ごした。

 そんなこんなであっという間に放課後である。
「バンド名、どうする」
 誰が切った口火か定かではない。ようやくメンバーが揃ったばかりの若いバンドが、本日も顔を揃えていた。
 自分たちのことをこう呼んでください、ってよく考えると妙な話である。活動する過程で第三者である誰かから発信された呼び名が少しずつ流布して浸透していくのであれば自然だ、「へエ、俺らそんな風に呼ばれてるんだ。あっそ、好きにすればいいじゃん」ぐらいのスタンスが本当はかっこいい。
 だから自ら率先して呼び名を堂々と提示するということに、言い知れぬむず痒さを感じていたのを覚えている。ただ、そう言っておきながらも、実は一つとびきりの案があった。
 それは昨日の出来事である。隣の席に座る内山という変な男にバンドをやることを話したところ、バンド名について話が少し盛り上がった。内山は本当に変な男であったが、その時何も考えていなかった自分に、あまりにも完璧に近いとっておきの案を授けてくれたのだ。これからどれくらいの付き合いになるのか、まさか15年続くとは少しも思ってはいなかったが、わざわざ掲げていく名前である。洗練されていて且つ、象徴的でなければならない。
 まさかこの話をした翌日に、バンド名について話し合う事になろうとは。偶然にしてはできすぎたこのタイミングに運命すら感じていた。
「誰か、いいアイデアない?」
 誰かが言った。言ったのは誰かだが今の台詞は間違いなく私に向けられたものだ。とっておきを披露する時、どうしてこうも人は昂揚するのだろう。さて、言うぞ。上気した顔を三人に向け私は声高らかに言った。
「バンド名はね、〈画鋲〉がいいと思う。どうだろう」
 言葉が澄んで響いた。目の前の三人の心の一番深いところまで届いた実感があった。気持ちが、そして言葉が相手に届く瞬間というのは、どうしてこうも劇的なのだろうか。ありがとう、内山。今日から俺たちは〈画鋲〉になります。これから始まる歴史の1ページのその前、表紙に刻まれる名前だぜ。ダイヤスカーフ黒表紙金文字押しだ。
 柳沢が言った。「画鋲は、うウん。どうなんだろうね」
 上杉が言った。「画鋲は、そうだね。どうなんだろう」
 藤原さんが言った。「画鋲は、なんだろ。どうなのかねエ」
 却下だった。実感は勘違いだった。
 議論にもならない変な名前つけやがった内山が心の底から恨めしかった。よく考えれば彼は場を掌握できないため教室の空気を凍りつかせるような発言を大声でするような男だし、面白いことを言いますよ、って顔してつまらない事を言える男だ。女子に悲鳴を挙げさせるようなこともちょくちょくしていたし、それに天然パーマだった。
 バンド名会議は平行線。誰に明確な意思もなく、それなら〈画鋲〉でいいんじゃね的な流れが見え始めた頃、柳沢が口を開いた。「あ!」
 停滞した空気にひびが入り、一抹の緊張感が走る。先ほどまで顔を上気させていた自分がどうにも馬鹿馬鹿しくて、醒めた顔で紙ヒコーキを丁寧にこしらえていた私も、その声に姿勢を正した。この瞬間を映像監督なら、その声に反応した三人の顔をソロで抜いていっただろう。最後にアップで柳沢を抜く。
 柳沢が溜めに溜めて、言った。
「ビーバーって名前、入れたい」
「え」私の口から反射的に本心がでた。「なんで」
 ビーバーて。その単語は少なくとも私の心の最深部は疎か、入り口のあたりにも到達しなかった。三人なめてからの柳沢どアップ。そして溜めに溜めて言ったそれがビーバーて。平凡というか何というか、脈略もなければ、ハッともしない。ここまで尺使ってよくもまア、のうのうと。
 柳沢の顔を見ると笑っていた。どういう感情のもとに彼が笑っているのか、よくわからなかった。私は言った。
「〈画鋲〉はどうだろう」
 二度目は無視された。しかしおそらくこの二度目が決定打となり、他に乗せるものがなかったが故とりあえず画鋲とビーバーを乗せてみた天秤が、ゆるゆるとビーバー側に傾いてしまった結果、今日にまで至る。
 ちなみにビーバーが被るスーパーという冠は、なんとなくである。強いて言うなれば語感。ビーバーだけだと手持ち無沙汰で、心許なかったために、ハイパーとか、ウルトラとか、フィーバーとかいろいろ被せていった結果、一番すっぽりはまったのがスーパーだった。

 意味があるというのは大切である。しかし意味がないものには、意味があるものを立たせるという意味がある。兎角我々の場合四人であること自体に意味があり、発信する音楽そのものに意味があるのだ。
 〈SUPER BEAVER〉は我々四人を、そして我々の音楽を最大限に立たせてくれる、大切な名前なんです。
 ん、口が裂けても言うまい。
 しかしながらこうやって15年も掲げているとどうにも愛着が湧く。もし改名するとするならば〈画鋲〉以外は考えられない程に、愛おしい名前です。





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