別冊カドカワから総力特集 ポルノグラフィティ号が発売になりました。
H.I.D.C Messageでも彼等の総力特集です。

◎Video Clips
○「アポロ」
彼等の記念すべきデビュー作。
制作年は1999年。
その当時の僕の映像アシスタントが彼等のA&R担当になることになり、
彼等とはデビュー前に知り合いました。
当時レコード会社の中では”ポルノはしばらくはそこそこだろう”という雰囲気がありました。
デビュー前にA&Rと5人で焼き肉を食いにいったりして彼等と色々な話をしてた俺達は
「こいつら絶対売れる!」と思ってましたが、何とそのA&Rがデビュー直前に異動になってしまい、
しばらく彼等はノーマークに。なので自分としては半分意地で作った作品です。

大泉学園にある東映スタジオで撮影しました。
コンセプトは「異星の滅びた文明からのメッセージ」。
この作品がIMAGICAのモーションコントロールシステム“マイロ”を使用した最初の作品だそうです。
この撮影当時、僕は原因不明の胃痛で点滴でしか水分補給が出来ず1週間程入院していました。
このビデオの撮影のため”病院通い”ではなく”病院から通い”でした(笑)。
撮影は明け方までかかり案の定病院に戻ったのは朝で、さすがにあきれた病院から
「あなたに出したのは外出許可で、外泊許可ではありません!」と怒られました(笑)。

これは美術セットが素晴らしい。セットデザイナーは種田洋平氏。
この作品はビデオカメラで撮影されたが、
編集室で彼等に「今からフィルムの画質のように調整するからね」と言って作業を始めたところ、
彼等はソファに3人ちょこんと並んで座って、まるでお腹をすかせた子供のようにわくわくした顔つきで
ほんの数分後に「まだですか?」と言われた事を思い出す。
このあたりからポルノチームでの僕のニックネームは”カントク”と呼ばれるようになりました。

○「ヒトリノ夜」
制作年度は2000年。
16mmのフィルム撮影。
撮影場所は横浜のイエロースタジオ。
3 Shotのパフォーマンス(演奏)シーンはフォーカストラックをするため望遠レンズを使用したので、
スタジオの中では距離が足りず、スタジオの搬入口を開け放ち、
カメラをスタジオの外の駐車場の端まで出して撮影しました。
コンセプトは多分「女にゃかなわない」だな(笑)。
でも改めて観てみると彼等は男前だな。イカしてる!

○「ミュージック・アワー」
制作年度は2000年。
この曲の撮影は2日間、初日は千葉県銚子の九十九里浜で、二日目は横浜のイエロースタジオで行われた。
カットが前後で連動しているジェットコースター展開のアメリカンテイストなビデオ。
今でも彼等はインタビューで「今までで一番撮影が厳しかったのは?」の質問にこの作品を即答するそうです。

忘れられない想い出もある。
初日のラストカット、青春映画よろしく3人が海辺をたわむれながら走り、TAMAが転んでずぶ濡れになるシーン。
「カット!」と声をかけようと思ったら、マネジャーが傍に来て耳打ちした。
「これでOKだったら昭仁も晴一も必ず海に飛び込みますよ」。
そこで「カット!OK!」とだけ叫んでカメラはそのまま回しっぱなしにした。
果たしてマネージャーの言うとおり二人はTAMAの所まで全力で走って戻って行き、
まるで仲良しの犬のようにダイブした。

○「サウダージ」
制作年度は2000年。
コンセプトは「時の無情」、彼等の「今」と「人生の晩年」との対比。
15歳くらいのサイクルで老けメイクをして、それぞれのメンバーを順取りするわけだけど
途中で何と撮影機材トラブルに見舞われてしまった。
コンピュータ制御の特殊機材が途中で何度も止まってしまう。
例えば50歳あたりから先に進めない。
特殊メイクなので別のカットを先に撮る訳にもいかず、
朝までかかって結局予定していたかなりのカットを取りこぼした。
個人的にはこの作品の撮影が精神的に一番厳しかった。
彼等も待ち時間が長くて大変だったと思う。
そしてこの時の教訓から次のVC撮影時にはスタジオの楽屋に時間つぶしの
コミック本やゲームが大量に用意されることになるのです(笑)。

○「サボテン」
制作年度は2000年。
これでデビューの「アポロ」から「サボテン」まで5作品連続で携わったことになる。
これは鉛色の空、冬のヨーロッパの裏通りをイメージしている。
ラストカットがコンセプトになっている。
バラでパート撮りをして編集時に合成でワンカット構成になる。
全部撮りきらないと1本には繋がらない。
撮影しては背景のセットをその続きの場所に見えるように
手直しを加えるというかなり根気のいる撮影だった。
と想い、改めて振り返ると何の事はない「アポロ」から「サボテン」まで
何と5作連続でモーションコントロールカメラを使用したことになる。
そりゃ全部大変な撮影になるよな(笑)。

○「NaNaNaサマーガール」
制作年度は2005年。
企画から完パケまでおよそ一週間位しかなかった超タイトな制作期間。
当時彼等はツアー中で、撮影日はないけどビデオは必要だった。
おそらく、こんなタイトなスケジュールで制作を引き受けてもらえるのは
「あの人だ!」ということで俺に白羽の矢が立ったのだと思う。
沖縄での実際のライブに同行して撮影した。
オファーが来た時に「ライブバージョンのVideo ClipでもOKです」と言われていたが
それではポルノらしくないのでこんな風にしました。
「結局VCも何時の間にか出来てた」ってな感じのプラン(笑)。
事前打ち合わせは1回。彼等は感が良いので話は早い。
実際、早朝待ち合わせの羽田空港の喫煙ルーム内から撮影は始まっていました。
でもライブの本番との並行だから彼等も大変だったと思う。

○「ベアーズ」
制作年度は2007年8月。
これも「NaNaNaサマーガール」同様納期的に綱渡りだった作品。
メンバー打合せが8月4日、セットプランの打合せをしたのは8月5日。
美術セットの建て込みは撮影前日の8日。 撮影が9日で27時終了。
次の撮影隊が仕込みに来るため、そのままセットをバラしスタジオを出たのは30時、 つまり10日の朝6時。
11日に編集の仕込をやって、12日オフライン編集、13日からオンライン編集。 14日に番組用VC納品、
15日店頭用VC納品、16日〜21日CG制作作業、24日最終編集。
これは13台のカメラを使って、モーフィングでタイムスライス効果を出しています。

実は制作オファーが来た時は違うアイデアを考えていました。
ハイスピードカメラ撮影で、内容は言わば、『「少林サッカー」の野球版「一人アストロ球団」同士の対決!』
内容の詳しい説明は止めておきますね。あまりにくだらないので(笑)。
しかし、「アストロ球団」と言われても今の若者は知らない人も多いんでしょうね。

ところが話を進めていくうちに「メンバーのスケジュールは8月9日しかない、つまり天気予備日はない」、
「オンエアーの都合で8月14日にどうしても納品しなければならない」「ロケは天候的に危険」となって、
一同頭を抱え、 それでは、ということで急遽代案を考えこうなったわけです。

これも美術デザインが良いよね。
スタッフや事務所の人間がセットを見て、「懐かしい!俺の高校の時の友達の部屋にそっくりだ」
「弟の部屋にそっくりだ」とか「なんかなごむね」とか言ってました。
僕と種田陽平氏とは、彼がまだまだ美術のアシスタントだった頃からの付き合いです。
彼は今や押しも押されぬ世界的な美術デザイナーになりました。

さて、13台のタイムスライス撮影ですが、どうやったかと言うと、
鉄の棒にクランプで13台を等間隔に並べて取り付けました。
何が大変かって、それぞれのカメラの水平レベルやパースを調整するのが大変でした。
「もっと右!ちょい戻し!反時計!少し上!」みたいに1台ごとに微調整するのです。
映画「マトリックス」とは比較にもならない超アナログ手作りです(笑)。

撮影時は13台を同時にまわします。 これで1カメの画から13カメの画に移動する時に、
その間の2〜12カメの画の同時間の1フレーム(静止画)を 4倍の4フレームにして順にインサートします。
1カメの最後のフレームを静止画4フレームにして、
その後に2カメの静止画4F、3カメを4F・・・というように繋ぎます。
つまり1カメから13カメの画に代わるのに12カメ分×4F=48F=1秒18Fの移動途中の画を入れます。
そして編集の際にCGのモーフィング技術でその隙間の画を補間していくのです。
でも、撮影が超家内生手工業的だったので今回もCGスタッフは大変だったと思います。

余談ですが、
このVCのラストカットで昭仁がハルイチにジョッキのビールを転んでぶちまけるシーンがありますが,
これは俺のシナリオではお盆に載せたラーメンと丼でした。
この方がインパクトはありましたが、撮り直しがきかないのと、
セットのラグマットが美術の知り合いの方からの借り物だったために当日ビアジョッキに変更しました。

そして更に余談ですが、 数日前、
僕は自宅でリビングに敷いていたラグマットにインスタントラーメンをカップごとぶちまけました。
もう、大変なことになりました。あの時ラーメンからビアジョッキに変更して正解でした(笑)。

◎Live Video

○「Tour 08452〜Welcome to my heart〜」
彼等の最初のツアーのライブビデオ。
制作年度は2000年。
オールハンドヘルド(ハンディー)で観客の目線で荒々しさを出そうとした。
イメージとしてはブートレグ的な作品を目指してた。
俺も客中のカメラ柵の中でカメラを回してたんだけど
あまりのギューギューぶりに強制的に立ったまま倒れる観客が続出し、
俺は撮影はそこそこにカメラを床に置いて、
舞台監督と二人で失神寸前のぐったりしている観客を
俺のいるカメラ用柵の中に引きずり込んで救出してたことをよく覚えている。
このライブ撮影時は既に「アポロ」と「ヒトリノ夜」の2枚のシングルがヒットしていたし、
実際にライブで演奏されて撮影もしたのだが、
その2曲は既にメジャーで郵便番号は03な感じで、
因島の郵便番号08452っぽくないなと感じていた俺は
「この2曲は今回のパッケージには入れたくないのですが」と事務所やメーカーに言いました。
皆「えぇっ!?」と驚いていましたが、結局そうなりました。

○ポルノグラフィティのライブDVD「8th LIVE CIRCUIT OPEN MUSIC CABINET」。
全曲収録で堂々の2枚組み、発売は2007年10月31日。
撮影したのは4月20日のさいたまスーパーアリーナ。
本作は変則的で、ある程度の枠組が決まっていた状態で自分にオファーが来ました。
枠組みとは撮影用のカメラの場所や席数です。
僕にとっては彼等の1st Live Video「Tour08452」以来のLive Videoです。
Liveのコンセプトを大切にしながら、好き勝手に編集しました。
編集上の仕掛けが随所にあって結構良い出来だと自負しています。

○「”ポルノグラフィティがやってきた”LIVE IN ZEPP TOKYO 2008」
2008年5月21日発売。
自分で言うのもなんですが、これもグー!
内容は2月1,2日のZepp TokyoでのLiveを撮影したもの。
メンバーからのリクエストは、
「板屋さんに撮ってもらった最初のライブビデオ"Tour 08452"のイメージで作って欲しい」
そこでこんなコンセプトをたてました。
「リバプールのアマチュアバンドがデビューが決まり、
ロンドンに旅立つ直前に リバプールで行われたアマチュア最後のライブを、
そのバンドの地元の友達が”俺が撮る”と言って勢いで撮った感じのライブビデオ!」
はたして、そんな感じに仕上がってます(笑)。
出来ればサラウンドヘッドフォンで大音量で観て欲しいです。
この俺ですら「うーん、こいつらカッチョいいなぁ」と思うもんね。

◎Documentary Video

○「Making of ポルノグラフィティ」初回限定DVD。
制作年度は2007年。 アルバム「ポルノグラフィティ」レコーディングのメイキングドキュメントです。
彼等の自宅スタジオでのプリプロ作業の段階から収録されています。
カメラをまわしたのは事務所AMUSEのスタッフとak。
当初は使用目的も決めずに記録用として撮り始めたとのこと。
素材テープは43本。プラス本人インタビューが4本。
約47時間分の素材を48分にまとめました。
おそらくスタッフ間で「どうする?」となり、
もはやこれを頼めるのはまたもや「あの人しかない!」となったのでしょうね(笑)。
これは「カメラをまわした」勝利です。赤裸々で、しかも感動的です。
都内にウィークリーマンションを一週間借りて、そこでオフライン編集作業をしました。
まぁ、色々と事情があってオフラインの時間は実質4日間しかなかったので、
自分を追い込むために俗世との接触を絶ちました。
後半の丸3日間位は一歩も外に出ませんでしたね。
当時は自宅でオフラインをしていたのですが、そうするとどうしても現実逃避してしまい、
やたらと休憩中に掃除を始めたりして部屋がどんどん綺麗になってしまうのです(笑)。

○Special Video Clip「ダイアリー00/08/26」
このVideo Clipは2001年に発売された彼らの1st Video Clip集「Opening Lap」に収められている。
「アポロ」から「サボテン」まで全部メイキング映像撮ってた。
「サボテン」のB面、もといカップリングに「ダイアリー00/08/26」って曲がある。知ってるよね。
この曲を聴いた時に、撮りためたメイキング映像を使ってもう一曲作ろうと思った。
「アポロ」の撮影からまだ一年半しか経ってないのに編集しててすでに切なくも何だか懐かしい気持ち。
思えばこの撮影の時、俺は入院してて病院から外出許可をもらって撮影に行ったもんだった。
退院して一週間編集スタジオに缶詰で、完成したのはやっぱり朝で、
俺は別プロジェクトのためそのままスタジオから成田に走りロスに撮影に行ったのだった。
「アポロ」のメイキングの中で彼等もスタッフも笑ってる。無邪気にまるで子供のように。
あの笑顔が僕に「大事な守るべき何か」をそっと教えてくれる。
なくさないでいてほしいもの、それがこの「ダイアリー00/08/26」につまってる。
因島の若者よ、
夢を描くペンを失くすなよ、俺もまだ失くしてないぜ!

この後、昭仁とは2010年に「Fairlife」で一緒になり、
ハルイチとは2011年に「THE 野党」で一緒になりました。

Best Regards.
Hiroyuki Itaya
27/Apr./2012