「ポンチャック紀行」第一回
前夜の泥酔がたたって、出発の時間ぎりぎりに目が覚めた。大慌てでシャワーを浴び、そこらにあった衣類と必要な機材をスーツケースにぶち込んで、通勤客の溢れ帰る中央線に飛び乗る。そして、東京駅で合流したクルーと一緒に、、成田エクスプレスで我々は旅にでる。千葉ののどかな田園風景から、長くて短い二週間世界一周の始まり始まり。
DAY 0 TOKYO
ことの発端は1996年9月に発売した「李博士(イ・パクサ)の2002年宇宙の旅」という、電波少年のエンディングテーマ曲の極貧クリップを編集していた時に、販促の中山道彦と「イ・パクサが世界中の観光名所で歌いまくる、低予算世界一周ビデオってのはどう?」とヨタ話をしていたのがきっかけだった。この人の仕事の仕方は、可能な限り無茶なアイディアを先に口に出し、周囲の反応を見てから現実的な所に落ち着かせるという、業界以外では一切通用しない特殊なスタイルである。それまでも彼は、やれスペシャルズを招聘してパクサと競演させろだの、ワールドカップの開幕戦で歌わせろだのと、レコードセールスを上げる前に会社が破産しそうな話を次から次へと連発していたので、なるべく眉毛を寄せることで「芳しくない周囲の反応」を演出するようにしていたのだが、今回はちょっと違う。何故なら私は海外旅行が大好きで、しかも会社の金だ。乗ります、この企画。

アマゾンだの、サバンナだの非現実的な訪問地を次々と主張する中山道彦の話を右から左に聞き流し(だってアマゾンまで飛行機乗り継いで三日かかるんだもん)、既にあったどうでもいいスケジュール全てすっとばす算段を頭の中でしながら、世界の有名観光土地でばっちりキメたイ・パクサがポンチャックを歌うビデオ「李博士(イ・パクサ)の八十日間世界一周ポンチャック」を作る決心をした。

ビデオの趣旨を上司に熱弁した結果、あっさりOKがでる。せめて企画書出せとか言うのが会社ではないかと部下ながら思うのだが、勿論そんなものは言われない限り書く訳がない。

次に、国際部という部署に連絡をする。

半ば国内アーティストと化しているのは事実なのだが、それでも李博士はれっきとした外タレだ。従って何かアクションを起こすには、国際部に報告をしなければならない。その上で、ポンチャックで世界一周をするので部として是非お力添えを願えないだろうか、と打診したところ、「そのようなノウハウは一切ないので、テレビの制作会社にでも連絡してみればどうでしょう」という返答が帰ってきた。簡単に言えば断られた。そもそも、頼んだ私も何を協力して欲しいのかよく分かっていないのだが。

仕方がないので、とりあえず本当にテレビの制作会社に連絡してみると、海外ロケに詳しい旅行代理店を紹介してくれるとのこと。ふむ。てことは、旅行代理店にチケットを取ってもらって、旅行先でビデオを勝手に回して、帰国してから編集して、それを工場に納品すればビデオはリリースされるってことだな。あの、よく海外レコーディングでコーディネーターとかいるじゃないですか、ああ、外で歌うだけだからそんなものいらないでしょ、いやその通りですね、じゃあ添乗員とかあ、、、でも予算もないし、俺がやった方が早いな、しかしそれじゃあプロと呼べるスタッフがいないまま出発ってことに…ま、いっか。では香港・タイ・シンガポール・エジプト・イタリア・イギリス・アメリカを二週間で回るチケットをお取りいたしましょう。旅行代理店からもらったフライトスケジュールの総飛行時間は50時間を超えていた。

この時点で、出発までの期間は一ヶ月。あ、そうか、ビデオには監督が必要だ。しかもキューンにはビデオ班なるものが存在しない。二週間も日本を空ける仕事を今更頼める音楽業界関係者もいない。ここは一つ異業種から人材を採用すべし、という訳でAV監督カンパニー松尾とバクシーシ山下登場となる訳だ。勿論個人的な付き合いがある訳ではないので、V&RプランニングというAVメーカーに連絡して飛び込みで仕事を依頼した。なぜAV監督かと問われても困るのだが、他業種の映像作家で自分が仕事をしてみたいのが、その時点でAV監督しかいなかったからなのだ。学生時代から数多くのAVを見た経験がこんな所でいかされることになるとは自分でも思ってもみなかった。あれは無駄弾ではなかったのだ、空砲ではなかったのだ。

これで一応役者はそろった。イ・パクサ、キーボードのキムさん、監督のカンパニー松尾、バクシーシ山下、SME韓国のスタッフ、そして私。計6人のワールドツアー。だが出発前の問題がまだあった。パクサとキムさんが韓国政府に税金をちゃんと納めてないらしくアメリカのビザが取れないとのこと。それでは世界一周できない、税金はちゃんと支払いましょう、と今さら国際電話で説教しても始まらないのが、それにしても。詳しい内容は省くが、結局のところパクサはSME KOREAが保証人となりビザを取得できたが、キムさんは取れなかった。従ってアメリカの手前でキムさんには帰国してもらう必要があるわけだ。でも、よく考えるとこんな旅行に、ビザの必要あったのかな。
DAY 1(1996/10/1) TOKYO→HONG KONG
 眠い目をこすって一行は成田第二ターミナルに到着。他に人員もいないので私がツアコンだ。全員のパスポートとチケットを集めチェックインをする。軽装を心がけていても、総勢六人のチェックインには時間がかかる。こんなことを後何回するのだろうと思うと、少々気が重くなる上に、パクサの荷物が多い。そひてこの臭いは、、、やっぱりキムチがスーツケース一つ分あるらしい。空港の売店ではキーボードのキムさんが、おみやげに「不老林」と買おうとしている。韓国にはあまりよい育毛剤がないらしい。

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