蜂CHANNEL
「楽しかった!」今回のバービーボーイズのリマスタリング作業を終えて思った率直な感想です。
リマスタリングは2007年に「蜂 -BARBEE BOYS Complete Single Collection-」と「eeney meeney barbee moe」で担当させていただきましたが、今回は「1st Option」から「√5」まで時代を追って作業した事で、その時々のバンドの変化や方向性、音の嗜好などをよりじっくりと見る事ができた贅沢なマスタリングセッションでした。
また、いまみちさんからレコーディング時の話や手法などを伺い、それぞれの作品の制作背景を垣間見ることが出来た事も今回のリマスタリングに大変役立ちました。
技術的には、オリジナルのアナログマスターから再生し、24ビットハイサンプリングでデジタル処理後、16bitCDフォーマットに変換する手法で行いました。トラックダウン後のサウンドを忠実に再生する為に当時と同じ種類のテープレコーダーを使用したのもこだわりです。
トラックダウン時のミックスイメージを崩さないように、音のレンジ、質感に重点に置き、音の動きや奥行きが見えるように調整し、それぞれのアルバムの個性がより明確になったと感じます。何度も聴いた楽曲がまた時間を経て新鮮に響く、音楽の力を改めて感じたリマスタリング作業でした。
僕自身もバービーボーイズのファンで、先日のZeppライブといい今後の活動も期待してしまいます!
酒井秀和さん(Sony Music Studios Tokyo マスタリングエンジニア)
デビューしたてのBARBEE BOYSの担当をちょこっとの間だけさせていただき、つい最近まで、当時の霜降り(?)グレーのトレーナーを持っていました。
私は、BARBEE BOYとふたりで旅をしたことがあります。
BARBEE BOY−ご存知ですか?ビミョーに顔がメンバーのパーツに似ているところがあると話題になったこともあります。ファーストアルバムのジャケットにWILD TURKEYと一緒に突然登場したヤツです。
キャンペーンのためにKONTAと杏子が福岡に行った時にTV出演があり、マネージャーの榊さん(お元気ですか?)から出演要請があったように記憶しています。
BAREE BOYSのために創作されたBARBEE BOYは、もちろん世界に一体。しかも撮影用に製作されたとってもデリケートなヤツでした。
相談の結果、そのまま(何もつつまず)腕に抱いて移動するのがヤツにとってベストだということになり、EPIC/SONY INC.のあった青山一丁目から銀座線、山手線、モノレールと乗り継いで羽田空港へ。機内持ち込み荷物(当然ヤツは不満顔でしたが)検査ではハデに点滅する赤ランプ。苦笑いというよりは本気で笑う係員。ヤツの骨が針金でできていることを説明し、触診してもらってなんとか通過。後ろからかすかに聞こえてきた ♪ハチのムサシはシンダノサ…の鼻歌が耳に残っています。幸い空席のある機内では、私の隣の席にシートベルトをしておとなしく座っているヤツに、ギョッ!!と足を止めるスチュワーデスさん(今はCAですね)の視線を無視すればOK。福岡に到着しました。
「えっ!!そのまま抱いてきちゃったの?」あの声で、指さしてKONTAにいわれた時に、一度くらい「嫌だ!!」と言えばよかったかな、と思いました。
想定外の福岡のファンの歓迎に、移動中の不快な出来事を忘れ、クールを装いながら、ヤツははしゃいでいました。舞い上がっていました。

思いがけず体験できたBARBEE BOYSのお久しぶり!!LIVEは、骨太でした。スコンときました。
戸澤(浦田)桂子さん(元Epic REcords販売促進部 バービーボーイズ宣伝担当)
「フジサンロクニオオムナク・・・」ってあれね。平方根。
「そうそう!延々と数字が続く訳だからジャケット一面数字だらけにしてね、部分的に色を変えるとかして遠くから見るとメンバーの顔に見えるな〜んてのできないかな〜」って。
 アルバム「√5」のジャケットの打ち合わせで、いまみち君が言い出したんだ。その場で断っとけば良かったのに「お、面白いアイデアだな!?ちょっと考えさせてくれる」なんて言っちゃったもんだから、さあ大変。
 数字の苦手な僕の手に負える話じゃなかったが、それでも確かどこかの大学の先生に電話で相談したんだけど、「ご自分で計算されるのが一番ですね」みたいな事を言われたように記憶してる。
 さんざん悩んだあげく出した答えは、それに変わるぐらいの何か凄い事やってのけるしかないってこと。「いまみち、面白いアイデアだと思ったんだけどさ〜っコンピューターにでも計算させないと厳しそうだな〜。仮に、数字が出たとしても仕上がりのインパクトを考えるとね、たいした事ないんじゃないかって思うんだ!どうせコンピューター使うなら、色んな技法を駆使した最先端のコンピューターアートってのやってみたいんだよね。どう かな?」
すると、いまみち君「そ〜かあ、やっぱり無理だよな〜。じゃ今回も植田さんに任せますよ。期待してます!」とあっさり納得。
コンピューターって言えば今じゃどのデザイナーの机の上にもMacが乗ってるけど、当時は印刷屋さんが無理して買ったイスラエルはサイテックス社のレスポンス何とかって何千万もするすご〜い機械のこと。
そのコンピューターを使った絵柄は既にあったけど、もっぱらアイドル写真の肌を奇麗にしたり、行ってもいない外国の景色に人を合成したりといったことに使われてた。しかも使用料がバカ高いので、滅多に使えなかったんだ。ところが根っからのアナログ人間の僕がコンピューターを使うって言ったもんだから印刷屋さんが大歓迎してくれて「是非、現場に来てモニターを見ながらオペレーターに自由に指示を出して下さい」ってことに。
それで、よ〜し!って作ったのがあのジャケット。
いつものようにカメラマンの大川直人君に別々に撮らせたメンバー写真を、自由に色やタッチを変えてアメコミの様な版画の様なタッチにしてくっつけていった。ところが、やってもやっても終わんないし、いちいち僕が考え込んじゃうもんだから、仕舞いにオペレーターも「続きはこちらで同じテイストでやっておきましょうか?」なんて明らかに迷惑そう。
印刷所に数日通いつめて歌詞の載っている内袋の絵にさしかかった時、無性にバックに派手〜な赤と青を敷きたくなった。で、出来上がった絵柄を見て気が付いた!「なんだ、これってビートルズのサージェントペパーズ〜とそっくりだ!」
最先端って思って作ってたものが、子供の頃から憧れてたあの絵柄だった。ピーター・ブレイクと写真家マイケル・クーパーにもう一度脱帽!
それ以来、僕は無理に新しいものを追いかけるのをやめた。印刷屋さんも僕を現場に呼んでくれなくなった。
植田敬治さん(BARBEE BOYSプロダクツ / アート・ディレクター)
僕が「パチパチ」でバービーボーイズを担当していたのは、解散前の2年程で、ちょうどソロ活動なんかも始まったりして、全員というよりは、毎月誰かと企画記事を作らせていただいてました。
カジノ、旅、来日ライヴ、楽器部屋、自転車、夜のパトロール……思い出多いっす。
連載「杏子の恋愛相談室」は人気がありました。杏子さんはロック少年少女の恋愛師範でしたから。笑。
ハガキ選びもエスカレートしていって、先生と生徒、近親とかね。いやあ、懐かしい。
17年ぶりの再結成ライヴは実に感慨深かったです。が、相変わらずの“すかしたやんちゃっぷり”に涙腺緩ませたのは最初だけで、オリジナリティ溢れる楽曲の連続と圧倒的な存在感(パフォーマンス)に、このバンドがいかに“希有”な存在だったのかを再確認させられてしまう。
後に東京事変が「C'm'on Let's go!」のカバーなんかでそれを証明するわけですが、サウンドの要は、いまさのギターリフで、紛れもないギターロックバンド。
流石に歌詞のレトリックは時代的古さはあるものの、サウンドはむしろ新しい。ギター+男女ツインボーカル+サックス。これは他にない。
途中からはノスタルジーに浸るというより、ピュアにライヴを楽しんでしまった。杏子さんが楽しそうにくるくる回るのを見てると、なんだかうれしくなっちゃいます。
というわけで“いつもよりセンセイション わくわくなっちゃいそう”なバービーボーイズの今後に期待するわけです。
村田 茂さん(元「パチパチ」編集担当、現(株)ソニー・マガジンズ代表取締役)
1990年リリースのアルバム「eeney meeney barbee moe」の時にプロモーション担当でした。
それで、アルバム宣伝用のキャッチコピーを考えたんですが、中々思いつかず、ドツボにはまりながら悩みに悩んだ末、アルバムタイトルが赤ちゃん語をもじったものだったのでそれをを逆手にとって、『子供には無理かな』としました。
その後広告が出来上がってしばらくすると、突然イマサさんから「会いたい」という電話がかかってきまして、青山一丁目の喫茶店で待ち合わせました。
そこでイマサさん曰く、「あのキャッチコピーは違う。今回は俺達は子供にこそ聴いて欲しいんだ。だからつけるなら『オヤジには無理かな』なんだよ!」と。
僕は自分の判断が完全に裏目に出たことに眩暈がしたと同時に、アーティストとの日常のコミュニケーションの重要性を改めて思い知らされました。
イマサさん始めメンバーの皆さん、その節は大変失礼致しました。
もらった説教、その後の仕事に生きました。感謝です。
藤井敏文さん(元Epic Records販売促進部バービーボーイズ宣伝担当)
1987年3月、メンバー5人は河口湖のスタジオでプリプロ合宿に入っていた。 同年9/9にリリースされた4枚目のアルバム『LISTEN!』のためで、バンド合宿はそれ以降はもう無かったように記憶している。
急遽合流する事になり、仕方なく飲んだ風邪薬の影響でボーっとしていた私は、休憩時間にスタジオの芝庭の椅子に座って日向ぼっこをしていたのだが、ふと気づくと杏子ちゃんが左隣に立っていた。
手に持ったイチゴをさり気なく私にすすめ、そっと気遣いをしてくれる気持ちの優しい女の子が杏子ちゃんだった。
しばしの間ただぼんやりと眺めていたあの青空と風に揺れる木々の景色と甘いイチゴの香りを、何故か今でも鮮明に覚えている。
また、1988年頃、レコーディング技術が世界的に大きく変化し、アナログ最末期〜デジタル時代の幕開けという時に、当時の最先端24chデジタルマルチレコーダー/SONY3324を世界で初めて使用したのはバービー。
信濃町SONY STUDIOにまだ実験的に持ち込まれ、ビニールが掛かった最初の3324をひっそり剥いで使ったから世界初なのだが…。
20年以上前のどうでもいいような密かな話も懐かしい。
園田一恵さん(元Epic Records制作ディレクター)
「Fake Band」の撮影は控え室もメンバーごと別々で、撮影も必要なメンバーごとに別々に収録、何か言い様のない緊張感がありました。
撮影が夜中になることがあり、そんな時は中華街からコックさんを呼んで飲茶を作ってもらったのを覚えています。緊張感の中、この食事の時が現場が安らぐ時間でした。
このビデオの契約の時だったが、ENRIQUEがわざわざ自分の印鑑を作ってきたのを覚えています。
それから、確か武道館ライヴの直前に、KYOKOがダンスのレッスンをしたいという事になり、急遽レッスンスタジオを押さえたのですが、このスタジオに行くと、背の高い若者がいて一緒にレッスンをすることになるのですが。
その後彼が超有名俳優になるとは当時は全然想像もしませんでした。
花田良知さん(映像ディレクター)
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