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introduction
1999年、紫のスリーヴから10年。1989年にロブ・ミッチェルとスティーヴ・ベケット の2人のインディ・キッズ達によって設立され、常にエレクトロニック・ミュージック ・シーンの最先端を走ってきたUK・シェフィールドの老舗レーベル「WARP Records」。この「WARP 10 BOX」は、常にインディ・スピリットを持ち、あのエイフェ ックス・ツインやスクエアプッシャーに代表される超個性的なアーティスト達を輩出し 、UKのアンダーグラウンドから世界の音楽シーン全体の方向性に多大な影響を与え続け たこのレーベルの、10年間の集大成ともいえる。

エレクトロニック・ミュージックとは何か?クリエイティヴィティとは何か?インデ ィ・スピリットとは何か?
そして、真の新しさとは何か?

その答えが、ここにある。WARP10周年、おめでとう。

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release story

1987年、時代はインディペンデントのレコード・ショップを開店するにはふさわしくないようだった。チャートはストック・エイトキン・ウォーターマンのプロディースする曲がひしめき、音楽紙はというとNME紙がリリースしたコンピレーション・アルバム「C86」をハイライトに、やらせのようにインディーズ・ギター・サウンドばかりを取り上げていた。しかしシェフィールドのレコードショップ、ワープ・レコーズとそれを主宰するふたりの自称“インディ・キッズ”、スティーブ・ベケットとロブ・ミッチェルには救いの光があった。それはそのショップの一角にあった初期シカゴ/デトロイト・ハウスのサウンドを集めたコーナーだ。

今やハウスサウンドのビートやエレクトリックなビープ・サウンドがファミリー・カーのCMにすら使われるのを考えると、80年代後期のこの頃に初期のハウス・サウンドがそれほどに耳新しかったというのは奇異な感すらあるかもしれない。しかし当時レコード・プレスの状態の良くないトラックス・レコーズのソウルや、新しいモータウン・サウンドと言われたデトロイト・テクノ、ヘヴィーなベースを持ったビートが魅力的なカナダのビッグショット・レーベルは別世界から来たかのようだった。荒削りなフューチャーの「アシッド・トラックス」、「ヌード・フォト」の機械的なソウル、ミスター・フィンガーズの壮大な「キャン・ユー・フィール・イット」といったミステリアスなグルーヴはイギリス北部がアシッド・サウンド・ブームになるにつれて口コミで伝説になっていった。その頃ロンドンのダウンスフロアでは依然レアグルーヴが主流であった。

1989年、イギリスのいくつかのアーチストたちがインディーズ・シーンで成功したのにインスパイアされ、レコード・ショップ、ワープ・レコーズは地元の才能を育てるレコード・レーベル、ワープ・レコーズを設立する計画をたてた。マンチェスターでは808ステイツがシカゴ・ハウスに劣らず新鮮でエキサイティングなアシッド・アルバム「ニュービルド」を創り上げた。また、そのレコーディングに関わっていたジェラルド・シンプソン(ア・ガイ・コールド・ジェラルド)はその夏に「ブードゥー・レイ」をスマッシュ・ヒットさせた。それはダークでありながらアップリフティング、アンダーグランドでありながらチャートを賑わせる要素も兼ね備えたものだった。その頃ロンドンではベイビー・フォードやバング・ザ・パーティーがアメリカのサウンドを擬したトラックで成功を手中にしていた。

 ロブとスティーヴはワープ・レコーズの最初のEPをリリースするにあたって、デトロイトとシカゴのサウンド、ヒップホップとラガの要素をミクスチャーした作品をつくっていたブラッドフォードに住む4人の10代の若者たちに(失敗に終わったが)アプローチした。彼らのダークでヘヴィーなベースを持ったサウンドには、さらにブリープ・サウンドが融合していた。ユニーク3の「ザ・テーマ」は真にアンダーグランドなサウンドで、スティーヴとロブはそのトラックを当時レゲエやヒップホップをミックスしてプレイするブルース系のパーティーですら耳にした。

 深紫のレーベル・スリーヴに納められた初期のワープ作品はブリープ・サウンドの世界観を押し進めたものだった。エレクトリック・サウンドのパイオニア、キャバレー・ボルテールのリチャード・カークとカリスマ的アシッド・サウンドのDJ、DJパロットのふたりが組んだスウィート・エクソシストの「テストワン」は鉄鋼の街、シェフィールドにおける鉄と同じくらいシェフィールド的だったのだ。レコード・ショップ、ワープ・レコーズの上のフロアでロブとスティーヴは自分たちのレーベルのA&Rを行っていた。下階から聞こえてくるブリープ、ベース、ビートの中に彼らの耳にとまるものを見つけるとすぐさま下階へ走っていった。ナイトメアーズ・オン・ワックスはジョージ・イブリンが自主製作したレコードを売ろうとショップへ訪れた時にワープと契約した。その時のことをスティーブはこう回想する「彼が“あの”トラックをそこでプレイするとみんなブッとんだんだよ」。正式契約されたそのトラック「デクストラス」はトップ40入りを果たした。

フォージマスターズ名義でワープの最初のリリースを飾ったウインストン・ヘイゼルは、ハダースフィールドのクラブ<サンセット・ブルーバード>でDJをしていた。 ロブとスティーヴはそのクラブをしばしば訪れたが、そこでDJマーティンがファンキーなドラムのブレークビーツと腹部に響くようなベースを持ったトラックを納めたテープをプレイしているのを耳にした。それらのトラックは自らをLFOと名乗る彼の友人たちがつくったものだった。そのグループ名と同じタイトルが付けられたデビューEP(WAP005)はそれまでレーベルでリリースされたものを創造性的に凌ぐ勢いで、商業的にも12万枚を売り上げた。悪意ではなくこの時期のインディーズ系ディストリビューションについて、スティーヴは「倉庫街をうろつくマリファナ常用者たちみたいだった」と振り返る。

 ファビオ、グルーヴライダーといったDJたち、ベースとブリープの支持者はそのサウンドをハードコア、そしてドラムン・ベースに取り入れていったが、ワープはそこで再び方向を変え、ダンスフロアから離れていった。

アーティフィシャル・インテリジェンスは当時イギリスで最高のエレクトリック・アーチストたちを紹介した。そのジャケットにはピンク・フロイドの「狂気」、クラフトワークの「アウトバーン」といったヘッドホン・アルバムのクラシックに囲まれた部屋でマリファナをふかすロボットの姿。怠惰なジャーナリストたちが機械の音楽に何ら個性など見当たらないと信じていたときに、ワープは不朽の才能たちを一同に集めたのだ。

アーティフィシャル・インテリジェンスの美意識やコンセプトは、ホワイト盤の何のクレジットもなく市場に蔓延していたことに危惧を抱いていたインディー・キッズたちに明確な“入口”を示した。それ以来彼らはワープ・レコーズの中でも独自の道を歩んでいくエイフェックス・ツイン、オウテカ、そしてザ・ブラック・ドッグといったアーチストたちに傾倒してゆくことになった。

堅実な歩みとファンの支持に、ワープはエレクトリックの枠を越えたアーチスト ・ベースのレーベルに変貌を遂げた。その先鞭を切ったのはテクノ・シーンのクラッシュ、セイバース・オブ・パラダイス。それに続いたのはレッド・スナッパーの生ドラ ムン・ベース、ジャズとレイヴの問題児、スクエアプッシャー、そしてひとりパーラメ ントことジミ・テナーと続いた。すべてがまったく異なっていながらも、どういうわけ かすべてがとてもワープ的。そう感じられるということがワープの大きな業績だ。

1999年、紫のスリーヴから10年。ベース、ブリープ、そしてワープはこれまでで もっともエキサイティングなときを送っている。ボーズ・オブ・カナダはこの数年のエ レクトリック・ミュージックのシーンに大きな影響を与えた。3年前につくられたにもかかわらず3年進んでいる感すらするエイフェックス・ツインの「ウィンドウリッカー」は、クリス・カニンガムの近年稀に見る卑猥なプロモーション・フィルムに影響を与えた。スクエアプッシャーはロンドン・シンフォニエッタ・オーケストラから共演を(彼はそれを遠慮したが)依頼された。プラッドはその最高作をリリースし、バームンガムの軸をなすふたつのグループ、プローンとブロードキャストは共に今年デビュー・アルバムをリリースする。

10周年を記念し、ワープはサージョン、スピリチュアライズド、そしてステレオラブといった共感できるアーチストたちに、ワープのこれまでの作品のリミックスを依頼した。それに対しアプローチを受けたアーチストたちが(a)アプローチされたことを喜んだ、(b)敬意から通常より低い報酬を申し出た、(c)それがいいからと、過去のすべてのワープ作品を欲しがった、等々...というのはこのインディペンデント・レーベルのこれまでの功績に対する敬意の表れである。

これを私たちのエレクトリックな友人たちへ。

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