レーベルチーフ・プロデューサーが語るフラカンとは?

レーベルチーフ・プロデューサーが語る、フラカン・メジャー復帰からニューアルバム『ハッピーエンド』までの4年間

メジャーからドロップアウト→メンバーがマネージャーを兼ねる完全にDIYなインディー活動→じわじわと上昇(ただしほんとに「じわじわ」レベル)→だんだん世の中が再発見→まさかのメジャー復帰、という道を歩んだのが2008年までのフラカン、そして『たましいによろしく』『深夜高速トリビュート』『フラカン入門』『チェスト! チェスト! チェスト!』と、オリジナル2枚・それ以外2枚のリリースを経て、14枚目のアルバム『ハッピーエンド』に辿り着いたのが、2012年秋までのフラカン。その2008年から現在までの流れを、フラカンのスタッフのひとりであり、直接的に関わったのは2008年以降だがバンドのことは1993年頃から知っているレーベルチーフ・プロデューサー、薮下晃正にきいた。

──そもそも、デビュー前からフラカンはご存知ですよね。あの時はどういうふうに見てたんですか?

薮下:あの時は、先輩の丸澤さんがディレクターだったから、もちろん知ってたし、応援してた。当時、俺も丸澤さんもキューンにいて、キューンが立ち上がった頃の新人枠で、フラカンをやりたいって丸澤さんが推したんだけど、当時のボスがどうしてもOKしなくて。で、「何でだよ!」って、みんなで会社の机にフラカンのステッカー貼りまくったりして。それが逆効果だったって説があるんだけど(笑)。丸澤さん曰く、「おまえがあんなイタズラしたから契約できなかったんだ」って。
だから、すごいおもしろいバンドだなあと思ってて。「キチガイのふりしてさ」を、はたしてメジャーから出せるのかって問題は、当時あったんだけど(笑)。(※当時のフラカンの代表曲、"紅色の雲"の中のフレーズ。のちに2ndアルバム『フラカンのマイ・ブルー・ヘブン』に、その箇所をごまかして収録)。だから、もちろん視野に入ってたし、応援してたし。あと、当時俺が担当してたバンド、カスタネッツとか、エレファントラブとかとも接点があったしね、フラカン。対バンしたりして。


──その頃はどう見てたんですか? こう、がんばってはいるし、そこそこはうまくいってるんだけど、そこまでうまくはいってないフラカンというのを。

薮下:いや、傍目にはうまくいってるようには見えたけどね、ある程度。でも、あの時代って、それまでのメジャーのやりかた……「ジャケットは顔写真!」みたいな世界じゃなくて……ちょうど渋谷系の頃だから、もっと斜に構えたアプローチが出てきた頃だったでしょ。だから、それとは逆行してるというか、ちょっと前のメジャーっぽいというか、80年代っぽいアプローチだな、もったいないなあと思ったことはあった。ライヴで観ると、もっと尖がったバンドだったしね、フラカン。そうだ、これ、今回絶対言いたいなと思ってたんだけど、そのデビュー前の頃、俺、兵庫くん(インタヴュアー)にさあ、「薮さんやったらいいじゃないですか」とか言われたんだよ(笑)。「いや、先輩がおっかけてるバンド、さすがにできないだろ俺が!」って思ったんだけど。

──いや、当時、なかなかメジャー契約が決まらなくて困ってたんで、「やってくれればいいじゃん!」って思って(笑)。で、話を戻すと、デビューしてしばらくはよかったけど、うまくいきかけてるんだけどうまくいかない、っていう状態が続いているうちに、事務所がなくなり、レコード会社がなくなり、薮下さんの視界から消えていったと思うんですが(笑)。それが再度視界に入ってきたのは、いつ頃なんですか?

薮下:いや、もちろん"深夜高速"とかは、めちゃめちゃいい曲だなと思ってたし。で、トラッシュレコードで、インディーズ的なアプローチでがんばってやってるなあって思ってたけど。でも、一緒にやるとかいうことは、考えてなかった。正直、メンバーもそういうつもりはないんだろうな、って思ってたし。バンドとしても、インディーズで自分たちでやってる今の状態を、よしとしてるんだろうなって。それこそ、曽我部(恵一)くんのROSE RECORDSとか、向井(秀徳)くんのMATSURI STUDIOみたいに、自分たちでやる動きとして、確立されてるんだろうなと思ったし。

──それが変わりだしたのは?

薮下:やっぱりARABAKI ROCK FES.で久々に観た時だなあ。2008年の。ミドリとゆらゆら帝国が出るから行って、そこでたまたま観たんです。その時の"この胸の中だけ"がめちゃめちゃよかったんだよねえ。それでしびれて。「なんかすごいことになってるな、フラカン」と思って。そのあと、またライヴを観に行くようになって……フラカンは本質的には変わってないんだけど、むしろ時代の状況が追いついちゃって、昔よりもよくなってる感じがすごくしたんですよ。"東京タワー"なんかも、あれかなり前の曲だけど、今聴くとむちゃくちゃいいんだよね。今だと響き方が違うというか、フラカンの負け犬系の曲に、現実が追いついてきちゃったっていうか。すごいリアリティ持ってるな、今、必要なロックだなって感じがしたのね。なんか、時代に発掘されてる感じがした、フラカンが。

──で、アプローチしたんですか?

薮下:うん。まあ、元々知ってるし。で、話したら、向こうは逆に「え、今さらメジャーの話なんてありえるの?」みたいな(笑)。その頃、同じような感じで、「最近フラカンいいよね」って、いくつかマネージメントからアプローチされてて、そのマネージメントの誘いで、何社かレーベルも来たりしてたらしいんだけど。でも、まあ、結果うちになって。

──あの、素朴な疑問として、レーベルは違うけど同じソニーグループじゃないですか。松田聖子みたいに、移籍した大物が戻ってくるっていうのはわかるけど、言ってしまえば売れなかったから契約を切られたバンドともう1回契約するっていうのは、ほかに例ってあります?

薮下:……確かにあんまりないよね(笑)。でも、別に、会社には止められなかったし(笑)。まあ、昔も俺がディレクターやってて、また俺がやるっていうだったらなかったのかな?って思うんだけど、そうじゃないから。自分としても、昔のバンドが戻ってくるって感じじゃなくて、視線的には、新しく発見した新人に近い感じで、やりたいと思ったんですよね。 で、フラカンはトラッシュ・レコードを辞めて、次が決まってなくて、でも「いざとなったらライヴで手売りしよう」みたいな感じで、次の『たましいによろしく』を作ってたタイミングで、もうほとんどできていて。「そのまま出していいよ」と。だから、最初の1枚は、ほとんど触ってない。 で、『たましいによろしく』って、フラカンの転換期というか。いちばんフォークっぽいアルバムで、どの曲もイントロなしみたいな。で、この次からどうするか……自分のやり方でいうと、そのバンドのいちばんいいところを、どう抽出して見せてあげるのか、っていうのが最初の仕事だから。だから、メンバーはすぐ新曲をやりたがるけど、数を出せばいいってことではなくて。フラワーカンパニーズとは何ぞや、というのを見せないと、と思って。
 その時20周年だったから、トリビュート盤とベスト盤を出したい、っていうのがバンド側からあって。メンバーからのアイディアもいろいろあったけど、「"深夜高速"がいちばんの名曲なんだから、"深夜高速"1曲のみのトリビュートでいいじゃん!」っていうめちゃくちゃな企画を出したら、意外とメンバーものってきて。トリビュートにありがちな、誰も知らない曲をいぶし銀的にやってもらっても意味ないなあ、と思って、レゲエのワンウェイものじゃないけど、1曲のみのトリビュート、"深夜高速"か"真冬の盆踊り"しかないだろう、と思って、やってみたんだけど。それがすごく化学変化を起こしたというか。あれで注目してもらえたし。


──その次のベストアルバムの方は?

薮下:さっき言ったように、昔の曲を今聴くと、今の方がリアルに聴こえる、っていうのがフラカンはあるから、このタイミングでベスト盤っていうのはいいと思って。以前出てるベスト盤とはちょっと違った視点で、まさに入門編を作って、それをポップに見せられないかなあと。あのジャケットの、石ノ森章太郎の『マンガ家入門』って、フラカンや僕ら世代の、当時の小学生のベストセラーなんだけど。あのデザインすごいよくて、あのネタいつか使いたいな、って前から思ってたから、「ここだ、じゃあ『フラカン入門』にしちゃおう」って、ジャケットも込みであのアイディアで。真心ブラザーズを担当していた時、『KING OF ROCK』から信藤三雄さんにジャケット頼んだんだけど、それと近い感じだった。『フラカン入門』も信藤さんなんだよ。 で、"深夜高速"も"東京タワー"も、すげえいい曲だし、ファンやフェスに来る子は知ってるけど、ただ、実際売れてないからさ(笑)。それをもう1回世に問う、というのは、意味があると思ったし。
例えばフラカン、アウェイなバンドと一緒にライヴやっても、 "深夜高速"のイントロが始まると、お客さん、「おおーっ!」ってなるじゃない? あの2曲って、今の「非リア充感」みたいなものに、めちゃめちゃはまる曲なんだよ。その力は、もう1回ちゃんと形にしないといけないな、と思ったし。


──なるほど。その次の『チェスト! チェスト! チェスト!』は?

薮下:あのアルバムはねえ、20周年が終わって、「まず1枚とにかく名盤を作って」って。それが売れなくてもいいから、トータルで、今バンドがやれることの全力を出して、けじめをつけてほしい、っていう。貯まりに貯まった曲もあったから、あの時点のフラカンのトータリティを出せるタイミングだったし。50曲ぐらいあったしね。ただ、基本はあんまりうるさく言わないで、ある程度好きにやってもらった感じだけど。エンジニアを「この人がいいよ」って推薦したぐらいで。そういった意味では、あの時点でのある種バンドからのステイトメントとでも言うべき名盤になったんじゃないかなと思う。
あと、それくらいのタイミングで、大根(仁)さんにMVを撮ってもらうようになったり、『モテキ』のマンガとテレビドラマで"深夜高速"が使われたり。そういうふうに、非リア充系の今の子たちに、新たに届き始めたりしている感触もあったし。


──で、新しいアルバムの『ハッピーエンド』では、どうなっていくんでしょうか。

薮下:まあ、だから……『チェスト! チェスト! チェスト!』までは、鈴木圭介の自己治癒時代というか(笑)。プライベートも含めて、相当、頭の中がぐるんぐるんしてる中で、作った……ほんとにぐるんぐるんしてる曲ばかりだし。あれがあるから再スタートできてると思うし、あれがないと次に行けないという意味では、必要なアルバムだと思うんだけど、今聴くと、痛い曲が多いよね。悶々とした感じが伝わるというか。
だからまあ、いいアルバムなんだけど。でも、次は……いつまでも自己治癒し続けてもらってても困る、っていう(笑)。このまま自己治癒し続けるんだったらインディーズでもいいじゃん、もっとしっかり時代を見すえて……せっかく時代が追いついてるのに、このままだとどっかでY字路で分かれちゃうぞ、追い抜かれちゃうぞみたいな(笑)。っていうことになる前に、ちゃんとしたものを作らないといけない、ということを、初めて話し合ったかな。
だから、相当、曲のダメ出しはした。「アルバムを代表するグッとくる曲がない!」っていう。で、具体的に指針を……「なんかピンとこないんだよね」とかじゃなくて、どこがどう弱い、というのを、具体的に。震災とかさ、時代との落とし前のつけかたがぬるい、っていう話をしたりとか。圭介は、いろんなことに対して、自分なりに意見はあるんだけど、それをまだ消化できてないというか。で、それを消化できないから、曲になると今までどおり、「昔はよかったな、今も中学時代と変わらないんだ」みたいな曲ばっかで、「これもう100回は聴きましたよ」って(笑)。少年時代の歌とか、「俺は大人子供だ」みたいな歌で埋め尽くされてたから。
今の時代のリアリティっていうかさ、テレビとかマスコミとかも信用できないし、特に震災以降の中で、何をミュージシャンが物語るかってものすごく重要だし。対象との距離の置き方だったり、真摯な取り組み方ってすごい重要じゃない。いいミュージシャンは、みんなそれやってるじゃん。そういう悶々としたものを自分の中にすごい持ってるのに、それを隠蔽したままっていうのは、すごい不自然だし。自分の立ち位置を明確にしないで、中学生の歌ばっかり歌ってるっていうのはどうなんだ? っていう。今の時代にどう対峙するか、っていうことが見える曲が1曲でもないと、成立しないんじゃないか、っていう話をしたんだけど。


──そしたら鈴木圭介はなんと?

薮下:悩んでた(笑)。で、それで、じゃあ自分はどう対峙するか、っていうやり方を考えて書いたのが、 "エンドロール"なんだけど。でも、"エンドロール"は、最初はホントまとまりがなく、作品として破綻してて(笑)。それで、本人から、一緒にやるようになってから初めて、「これじゃできない」「客観的な視点を持っている人とやりたい」っていうリクエストがあり、常田(真太郎)くんっていうアイディアが本人から出てきた。で、あの曲ができて、初めて、今回のアルバムの最後のピースが埋まったというか、時代と対峙するものができたのかなあ、と。
ただ、"エンドロール"を作ったのが、アルバムの最後の1曲だから(笑)。そこで常田くんとやって、すごくいろんなものをつかんだみたいだから、本当に大きく変わるのは、この次のアルバムからかもしれないですね。



薮下晃正
1965年生まれ。ファッション雑誌の編集アシスタントを経てソニーミュージック入社。
キューンレコード(当時)、ソイツァーミュージックを経て現在はソニー・ミュージックアソシエイテッドレコーズA&R本部チーフプロデューサー。
これまでに手掛けてきたアーティストは、真心ブラザーズ、スチャダラパー、ソウルフラワーユニオン、ネーネーズ、コーネリアス、こだま和文、リトルテンポ、SILVA、YOU THE ROCK、ゆらゆら帝国、ミドリ等多岐にわたる。
現在は同レーベルにてフラワーカンパニーズをはじめフジファブリック、凛として時雨、女王蜂、黒猫チェルシー、ザ50回転ズ、amazarashi、オレスカバンド等バンドを中心とした制作部A&Rルーム3チーフ。
一時はプライベートでレゲエDJとしても活動し、コンピに端を発するレゲエイベント『RELAXIN' WITH LOVERS』を主宰。
2000年、当時ディレクターを務めていたこだま和文のセレクターDJとして、フジロック・フェスティバルに出演した経験もある。


兵庫慎司(ロッキング・オン/RO69)