warbearオフィシャルHPスペシャル・インタビュー
「すごく自分に近しい音楽が生まれているという実感」
warbear/戦う熊。ソロ・アーティストとして再出発するにあたって尾崎雄貴は、北国の伝説に登場する生き物みたいな、ミステリアスな名前を選んだ。アイデアを提供したのは彼の息子だという。「1歳位になって喋り始めた時によく叫んでいた、意味のない言葉のひとつが“warbear”でした。しかもすごくいい発音で(笑)。僕はそもそも強い人間じゃないから、常に何に対しても挑みかかるような感覚でいないと、満員電車に揺られるだけで地獄の苦痛を味わってしまう。とにかく自分の肌に合わないものに対してめっぽう弱いし、友達にもよく“いつも闘ってるね”と言われるんです。だから開き直って名前にしようかと(笑)。熊という動物も大好きで、北海道出身で何度か野生の熊を見かけているし、すごくしっくり感じられたんですよね」。
そう、彼が稚内で生まれ、現在は札幌で暮らしていることはご承知の通りだが、全ては、10年にわたるGalileo Galileiの活動に終止符を打って北海道に戻った時に始まったというから、改めて出自を確認するという意味でも相応しい名前なのだろう。2016年10月11日、日本武道館での公演をもってバンドを“終了”させて札幌の自宅に戻った瞬間、世界が違って見えたと話す。
「武道館のアンコールあたりまでは、まだ終わって欲しくないと思ったりしたんですが、いざ終わると解放されたというか、次の一歩を踏み出した気分でした。というのも僕は10代でプロになって、それ以降全てがバンドというフィルターを通して自分に入ってきて、特殊な成長をしてきた人間だと思うんです。だからそのフィルターを通さない景色が、新鮮でしょうがなかった。それに、ずっと活動に追われていて出来なかったことも出来るようになって、旅行にも行けたし、家族とも過ごせたし、友達にも会えたし、独りでぼーっとする1カ月間があったり……。生きている感覚というか、人間として生活することって大事なんだなあと思いました」。
そんな札幌での生活の中心になったのは、自宅にある“わんわんスタジオ”。そこで新たに、当然のように、曲作りをスタートした彼は、アルバムを構成するに十分な数の曲をスピーディーに書き上げてゆく。「毎日起きたらスタジオに行って、好きな曲を聴いたり、映画を観たり、全てがその部屋ありきの生活を送っているうちに、自然に曲を作り始めていました。でもアルバムの全体像はほぼ無かった。唯一分かっていたのは、明るいものにはならないだろうってこと。すごく自分に近しい音楽が生まれているという実感があって、ってことは明るくはならない。かつ、面倒くさい作品になるなと(笑)。Galileo Galileiと違うものを作ろうという意識もなかった。バンドへの反発みたいな音楽を作る気はなかったし、そういう意味では何も考えずに作っていって、その間にダンスチューン的な曲が出来たり、アコギの弾き語りの曲が出来たり、気分によって出てくるものも変わる。それでいて、最終的には今までの作品と比べても、うまくまとまったと思う。とにかく“考えないこと”を意識していたんです。考えるよりも感じよう、と」。
つまり、『warbear』とずばり題されたこのファースト・アルバムは、目の前に広がった新鮮な景色に刺激を受けながら過ごした1年間の記録であり、言葉もサウンドも自然に流れ出るままに任せて、自分であることに一切妥協せずに作り上げたセルフ・ポートレイト。彼は“名刺”とも呼ぶ。「自分がどういう人間なのか音楽を通して見つめ直して、自分にすごくよく似た人物を、生き物としてこねて作っていくというか、それをアルバムの中に生かしてあげる感覚だったかな」。だから可能な限り自ら楽器を演奏して、曲ごとに頭の中で鳴っている音を表現し、ほかには部分的に、弟の尾崎和樹がドラムスを担当したり、アメリカ人奏者ダン・ウォレスがサックスを吹いたりしたのみ。マルチ・プレイヤー/プロデューサー/アレンジャーとしての途方もない力量も見せつける。マンドリンやフルートからシンセに至るまで無制限の音のパレットからひとつずつ選び抜いて、揺らぎ方、重なり方を計算し尽くして構築されたサウンドは、ただただ、息を呑むほどに美しい。
そして、アメリカのインディ・ロック界で活躍するミックス・エンジニア――フィル・エックとブライアン・マクティア――の手を借りて鮮明に刻んだそんなサウンドには、長年にわたって蓄積され、自分の血肉となった洋楽体験と知識が愛情たっぷりにちりばめられている。80年代ニューウェイヴや00年代以降のインディ・ロックなど、尾崎の洋楽への関心はバンド時代にも様々な形で作品に反映されていたわけだが、本作からは、70年代の音楽にも深く傾倒していたことが窺える。きっかけは、Galileo Galileiのサード『ALARMS』をプロデュースした盟友クリス・チュー(POP ETC.)を介して知ったフリートウッド・マックだ。
「ソングライティングも、曲も、彼らが持っているドラマも、全てが衝撃でしたね。フリートウッド・マックを出発点に、70年代の音楽をガーっと聴いていって、その中で音楽の楽しみ方が無限に広がっていった。楽器の音のひとつひとつに喜びを感じるようになっで、以来“楽しくてやめられない!”という感じになりました。実はクリスと出会う直前くらいに、“もう全てやめたい”みたいな時期があったんです。でも彼と出会って色んなことが切り替わって、何よりもソングライティングが良くないと意味がないってことを、まざまざと見せつけられた。そこに影響されて、自分が好きな音楽をちゃんと自己消化して出せるようになったという実感はあります」。
実際彼は、洋楽との非常に深いレベルでの共鳴を見せて、様々な時代とジャンルを自己流にシャッフルし尽くしている。リンジー・バッキンガムやジョン・マーティンやニール・ヤングのギターが、ジョニ・ミッチェルの言葉が、アンディ・マッケイやクラレンス・クレモンズのサックスが断片的に聴こえ、随所で『SO』時代のピーター・ガブリエルのプロダクション、ジョニやニック・ドレイクのソングクラフト、ザ・キュアーのポップセンスに裏打ちされているが、そこから英語は聴こえない。英語で歌われているところが想像できない。丁寧にオーバーダブされた自然体な声と、日本語の詞があって初めて楽曲として完成している。しかも耳馴染みのいい、往々にしてキャッチーな楽曲に。
「人からどう思われたいかより自分がいいと感じるものを作りたい」
「それはやっぱり、歌ってもの自体がすごく好きだからじゃないかな。僕がやっているのはインストじゃないから、曲とメロディとそこに当てはまる言葉がないと成立しない。“洋楽の影響は分かるけど、日本の歌として着地している”とよく言われて、自分でも誇りに思っています。はっぴいえんどにしても、サウンドはリトル・フィートなんかの影響を強く受けているけど、歌が乗ることによって急に日本の風景が見えてくる。そこは自分の中ですごく大事なところかな」。
このアルバムの場合、見えてくるのはもっと具体的に、北海道の風景、かつ尾崎自身の心の風景、と形容するべきなのかもしれない。彼はアルバム制作のほぼ全プロセスを自宅のスタジオ内で完結させ、必要ないと思われる情報を排除し、外の世界から自分を切り離して、限りなくピュアな環境を確保。そこで26歳の孤独感をつぶさに検証し、バンド時代のようにストーリーを伝えたり、他者を代弁することにこだわらずに、自己との対話を展開する姿には、まさに“闘う”という言葉が似合う。
ちなみにアートワークも海外のクリエイターに依頼したもので、The 1975とのコラボで知られるサミュエル・バージェス・ジョンソンが手掛けた。隔絶した空間で、花びらの涙を流している蘭の美しさ、静謐さ、孤立感、悲しみはまるで、ここに収められた音楽の鏡像。そんな自分の分身を、愛おしそうに眺める尾崎の気配さえ背後に感じられる。10年活動を続ける中でいつの間にか、「人からどう思われたいか、どう思われなきゃいけないのかってことが音楽作りの原動力になっていた」と彼は振り返る。でも今はそうじゃない。尾崎を突き動かしているのは、自分を表現したい、自分がいいと感じるものを作りたい、自分にしかできないことをやりたいという想いだ。「このアルバムを作ってそう思えるようになって、すごく安心しました。“よかった、僕はミュージシャンだったんだ”と(笑)」。
インタビュー・文:新谷洋子