[L←R]
ケリー・ジョーンズ(ヴォーカル&ギター)
ジェイミー・モリソン(ドラムス)
アダム・ジンダーニ(ギター)
リチャード・ジョーンズ(ベース)

【Biography】
ウェールズの小さな田舎町カマーマン出身。幼馴染のケリー・ジョーンズ(Vo/G)とスチュアート・ケーブル(Dr)が中心となり前身となるバンドを結成。後に同じく幼馴染のリチャード・ジョーンズ(B)が加わる。本格的な活動開始は92年。当初は4人編成でトラジック・ラヴ・カンパニーと名乗っていたが、スチュアートの父親が持っていた60年代製のステレオ・レシーヴァーに書かれていた“STEREOPHONIC”を見て改名、3ピース・バンドとなる。
ヴァージン・グループの総帥リチャード・ブランソンが立ち上げたV2 RECORDS契約第1弾アーティストとして、96年11月「ルックス・ライク・チャップリン」でデビュー。97年8月1stアルバム『ワード・ゲッツ・アラウンド』がUKアルバム・チャート6位の大ヒットを記録。既発シングル『ローカル・ボーイ・イン・ザ・フォトグラフ』は5thシングルとして再リリースされ14位を記録。(この曲は彼らの最初期の魅力が凝縮された名曲として必ずライヴでプレイされる)
98年ブリット・アワード「最優秀新人賞」、NME誌「ブラット・アワード」、ケラング!誌「最優秀ブリティッシュ・バンド賞」を受賞。6月ウェールズの由緒あるカーディフ城で1万人動員の野外ライヴを成功させる。7月本国での発売から約1年後、V2レコーズ・ジャパンの第1弾としてデビュー・アルバムが日本でも発売。直後の第2回フジロックで日本初ライヴ、オーディエンスはすでに大合唱状態となる。10月単独来日公演。(98-99年の1年半でプロモーション含めて5回来日、UKとのタイムラグを一気に埋める勢いで頻繁に日本を訪れる)
99年2月(UK3月)2ndアルバム『パフォーマンス・アンド・カクテルズ』がUKアルバム・チャート初登場1位、200万枚のセールスと大ブレイク。シングル・カットされた5曲すべてがヒット、特に1stシングルの「ザ・バーテンダー・アンド・ザ・スィーフ」はバンドの勢いと見事にシンクロしたアップ・テンポのハード・ロック・チューンで人気爆発、3位を記録。ハイライトは夏に開催したウェールズのモーファ・スタジアムでの5万人動員の野外スタジアム・ライヴの成功。名実共にUKにおける90年代後半デビュー組で最大の成功を収めたバンドとなる。(以降6作目で07年のアルバム『プル・ザ・ピン』まで、5作連続で初登場1位。90年代以降のUKロック・バンドのアルバム・チャート連続1位記録は、オアシスの7作が最高、次点でブラー、レディオヘッド、ステレオフォニックス、コールドプレイの5作)。6月単独来日公演。
00年8月レディング・フェスでヘッドライナーを務める。
01年3月(UK4月)3rdアルバム『ジャスト・イナフ・エデュケイション・トゥ・パフォーム』発売。1stシングルの「ミスター・ライター」は、それまでの彼らとはかなり異なるダークな曲調に歌詞も“メディア批判”の歌。これが大きな物議を醸しメディアから逆に酷評されるもチャート5位を記録。続いてカットしたタイトル通りのさわやかポップ・チューン「ハヴ・ア・ナイス・デイ」(日本では08年にホンダのCF曲に起用される)も同じく5位を記録。7月フジロックで来日。同月ドニントン・パークとミレニアム・スタジアムでバンド主催のフェス「ア・デイ・アット・ザ・レーシズ」を開催(ブラック・クロウズ、アッシュ等が出演)、2日間で14万人を動員するなど人気フェス並みの動員を記録。この年のツアーでは初めてサポート・メンバー(ギター、キーボード、女性コーラス)を多数起用する。
02年1月単独来日公演。6月グラストンベリー・フェス、Vフェス、8月アイルランドのスレーン城コンサートでヘッドライナーを務める。
03年5月(UK6月)4thアルバム『ユー・ガッタ・ゴー・ゼア・トゥ・カム・バック』発売。1stシングル「マダム・ヘルガ」が4位、2ndシングル「メイビー・トゥモロー」(05年公開の米映画「クラッシュ」〈監督:ポール・ハギス/アカデミー賞受賞〉の主題歌に起用)が3位を記録。8月サマーソニックで来日。9月USツアー中にドラマーのスチュアート・ケーブルが脱退、地元ウェールズのラジオDJ/TVパーソナリティーとなる。その後のツアーはブラック・クロウズのスティーヴ・ゴーマンが代役を務めるが、05年よりハヴィエ・ウェイラーが正式ドラマーになる。
04年6月ワイト島フェスのヘッドライナーを務める。
05年3月5thアルバム『ランゲージ.セックス.バイオレンス.アザー?』発売。1stシングル「ダコタ」がバンド初のUKシングル・チャート1位を記録。(この曲は23週に渡りチャート・インするなど彼らの最大のヒット曲となる)。6月単独来日公演。7月世界各国で開催された「ライヴ8/ロンドン」(ハイドパーク)に出演。
06年3月(UK4月)バンド初のライヴ・アルバム『ライヴ・フロム・ダコタ』発売。
07年3月ケリー・ジョーンズ初のソロ・アルバム『オンリー・ザ・ネイムズ・ハヴ・ビーン・チェンジド』発売。
10月6thアルバム『プル・ザ・ピン』発売。ギタリストにアダム・ジンダーニを迎える。
08年2月単独来日公演、7月ナノムゲン・フェスで1年に2度来日する。
09年6月ワイト島フェスのヘッドライナーを務める。11月バンド初のベスト・アルバム『ディケイド・イン・ザ・サン』発売。ミリオンセラーに。
10年1月(UK09年11月)7thアルバム『キープ・カーム・アンド・キャリー・オン』発売。
4月ブリティッシュ・アンセムで来日。6月オリジナル・ドラマーのスチュアート・ケーブルが他界(享年40歳)。
11年4月リアム・ギャラガー/ビーディ・アイの呼びかけによって開催された東北地方太平洋沖地震チャリティ・イヴェント「ジャパン・ディザスター・ベネフィット」にケリー・ジョーンズが参加。
12年7月スチュアート脱退後の正式ドラマーだったハヴィエ・ウェイラーが脱退、代わってジェイミー・モリソン(元ノイゼッツ)が加入。バンドのレーベル「スタイラス・レコーズ」を立ち上げ、そのレーベル機能を「イグニション」に置く。
12年10月ケリーが初監督した新曲「ヴァイオリンズ・アンド・タンバリンズ」の映像作品をWEB上で発表。
12年11月4日1stシングル「イン・ア・モーメント」をフリー・ダウンロード・シングルとして配信。
13年2月20日(UK1月20日)日本1stシングル(UK2nd)「インディアン・サマー」デジタル発売。
13年2月27日(UK3月4日)3年振りのオリジナル・アルバム『グラフィティ・オン・ザ・トレイン』発売。

【Early Days】
今や“国民的バンド”となった彼らだが、デビュー当時に他の同世代バンドと違ったのは、KERRANG! 誌のようなクラシック・ロック、オルタナティヴ/モダン・ロックを扱うメディアからも歓迎されたことだ。AC/DC、BLACK CROWES、GREEN DAY、PEARL JAM、FOO FIGHTERSなどのファンが好む要素があったのだ。「リチャード・ブランソンの新レーベル“ヴァージン2”(=V2)が最初に契約したバンド」という話題性に加えて、とにかくライヴの説得力が桁違いだったことが大きかった。ケリーのギブソンSGをガシガシ掻き鳴らす様、アーシーでパワフルな歌いっぷり、即座にオーディエンスを飛び跳ねさせるド直球の3ミニッツ・ロックンロールに労働者階級の琴線に触れるシンガロング系アンセムの多さは、それまでのブリット・ポップ勢にはない骨太さがあった。なによりヴォーカルが圧倒的に上手い、メロディーはキャッチーで演奏は豪快というシンプルな魅力にイギリスの若者が飛びついたのだ。また、“みんなと同じ場所にいる”感が滲み出た彼らの地に足の着いた言動、飾らないキャラクターも信頼感につながった。クラシック・ロックの錚々たる大御所たちからも早い段階から支持されてきたことは、彼らが一過性のバンドではないことを裏付けてもいた。ジミー・ペイジは彼らのエナジェティックなライヴに感心し、ロジャー・ダルトリーは息子同然に可愛がり、ポール・ウェラーはケリーの歌詞に共感を覚え、ロン・ウッドはケリーの“ウィスキー”ヴォイスに酔った。実際彼らはAC/DC、ザ・フー、エアロスミスのオープニングを務めるなどして、幅広いロック・ファンにアピールすることに成功した。同時にオアシスのギャラガー兄弟も(珍しく?)揃って認めており、特にケリーとノエルがとても親しい間柄となったのは面白い。