コルネイユ
1977年3月24日、コルネイユはドイツ南西部にある小さな街、フライブルグで生まれる。両親はフライブルグの大学を卒業、その後、彼らの故郷であるルワンダに戻るまでの6年間をこの街で過ごした。そして、ルワンダの首都キガリに移るまでのわずかな期間、コルネイユはルワンダの小さな村で幼少時を送った。

13歳で将来はシンガーになることを決意したコルネイユ。そしてその決意を父親が強くサポート。コルネイユの音楽的影響は、プリンスをはじめ、スティーヴィー・ワンダー、マイケル・ジャクソン、マーヴィン・ゲイ、サム・クック、ナット・キング・コール等々−

16歳の時、地元TV局が主催する音楽コンテストの最終選考に残ったコルネイユはここで初めてレコーディングを経験。彼のキャラクターは音楽好きな両親のもと、この少年期に育まれていったといえる。

キガリでの生活は1994年、大統領が暗殺されたことで一変する。近代史の中でも最も残虐な大量虐殺が行われたのである。罪もない80万人以上の人々が次々と虐殺された、いわゆるルワンダの大虐殺である。

そんなコルネイユはまずコンゴの首都キンシャサに逃れ、その後、彼の両親の友人を辿って生を受けた地、ドイツへと渡った。それから最終的にモントリオールに落ち着くまでの3年間をドイツとパリで過ごし、ここで学士号を修得する。その後、モントリオールでも大学に入学したものの、その時すでに彼の目は音楽に向けられていた。

20歳の時、コルネイユはモントリオールでO.N.E.というバンドを結成。その意味はOriginal New Elementの略。2001年にバンドが解散した後、彼はソロ・アーティストへと転身する。

2002年、コルネイユはデビュー・アルバムを発表。当初、このアルバムはカナダにおいて反応という反応は殆どなかった。しかしフランスのレーベル、ワーグラムは熱心にこの作品のプロモーションを続け、結果アルバムのセールスは急上昇、このアルバムからは”Ensemble””Sans Rancunes”という2曲のヒット・シングルが生まれた。ただ、カナダでのセールスは相変わらずだったため、カナダのレーベル、DKDD(現DEJA Musique)はあらためて”Reves de Star”というナンバーをプロモーションすることで、その後にアルバムを再リリース。その結果、このアルバムのセールスは2004年までに大西洋をまたがって好調なカーブを描くようになった。カナダでの売り上げがプラチナに届いたと同時に、コルネイユはカナダの権威あるエンターテイメント賞、フェリックス・アワードにて一般からの投票によって選ばれる最優秀男性アーティストに輝くことに。一方、フランスではアルバムのセールスが50万枚を突破、そして現在、アルバムはフランスだけで100万枚を超えるヒットとなっている。

2005年に入ってもコルネイユの快進撃は続き、エイズ撲滅やユニセフのサポートのもと、セネガルのスーパースター、ユッスー・ンドゥールとのレコーディングを行う。そしてカナダ赤十字のスポークスマンともなったコルネイユはユニセフ親善大使にも任命された。コルネイユは現在も音楽活動を通じて、これら人道的な役割でも精力的に活動を続けている。

同年、コルネイユの2枚目のアルバムは熱狂的な賞賛をもって発表され、カナダそしてフランスにおいて大きなセールスをあげることになる。ソングライターとしても多様性を持ったこの作品は今まで以上にアダルト層が大きく支持。それに加え、セネガルで行われたフェスティバルでは想像を超えるたくさんのファンに迎えられた。また日本で行われた愛知万博にもカナダを代表するアーティストとしてアラニス・モリセットとともに共演、ヨーロッパとカナダでもツアーを行った。2006年にはフランス国内をはじめとする各地60ヶ所、合計で20万人を動員する大規模なツアーを敢行。また秋にはアコースティック・ツアーも行い、12月には有終の美を飾るように地元モントリオールでも大規模なコンサートを行った。

そして2007年、満を持して英語アルバムを制作。ここ日本を皮切りに全世界へ向けて、そのスウィートでメロウなサウンドと愛あるメッセージを伝え始める。あなたの目の前にいる人を愛せよ、と。本当の悲しみを知っている人間だからこそ発せられるリアルな言葉。