初来日したアレクシス・フレンチに聴く。「過去・現在・未来」(最新インタビュー2019年6月12日@ソニーミュージック六番町ビル)
アレクシス・フレンチのピアノを初めて聴いた瞬間に心奪われて、さまざまな感情が体の奥底から噴き出してくる感覚に襲われた。最初は、淡い印象だった演奏がアルバムを聴き進むと、どんどんドラマティックに物語を語りかけてくるようになり、そのイマジネイティヴな演奏からモノクロの映像がまぶたのスクリーンに映し出されていく。そして、意外性に満ちた『ザ・ラスト・ポスト(未来へ)』という曲でアルバムの本編は終わる。
聴けば聴くほど、なぜこのようなピアノが弾けるのか、という思いが膨らみ、音楽のエリートコースを一直線に進んできたプロフィールを読むにつれて、クラシック界は保守的な体質ではなかったのか、という疑念が広がっていく。
どんな人生を歩んできたのだろうか。初来日したアレクシス・フレンチに話を聞いた。
■天賦の才能
――子供の頃に、どんな音楽教育を受けたのか。教えてください。
「4歳頃に、スティーヴィー・ワンダーの歌に合わせて、ダイニングテーブルをピアノ代わりに叩くようになった。その姿を見ていた両親は、きっとその音が煩かったんだろうね。ある日、本物のピアノが家にやってきた。すごく嬉しくて、毎日、夢中になって弾いたよ。それを見た父が今度は、ピアノの先生を探してきてくれた。その先生が素晴らしかったんだ。小学生にもならない幼い僕に、バッハやショパンのエチュードといった難しい課題を与える一方で、それまで僕がひとりでやっていたインプロビゼーションを否定することなく、レッスン後に自由に弾くことを許してくれた。その楽しさもあり、僕は1日3時間以上も練習に没頭するようになった。
そして、7歳の頃には教会のセレモニーで演奏するオルガニストになった。それは、僕にとって練習でインプットされたものをアウトプットするいい機会になり、一端のパフォーマーになったつもりで演奏していた」
――そして、11歳でロンドンのロイヤル・アカデミーに入学するわけですよね。
「当時住んでいたサリー州のギフテッド・チャイルド(天才児)向けプログラムのオーディションに受かったことが伏線となり、ロイヤル・アカデミーに入学することが出来た。この学校の素晴らしさは、一流の教授に直接教えてもらえること。どの先生も愛情を持って教えてくれたので、僕の音楽への愛は、道を間違えることなく、順調に育っていった。さらにもっと良かったのは、同じような境遇で育った子供達、それは、他の同級生とは違い、音楽の特別な才能に秀でた同世代の生徒と出会えて、友達になれたこと。それこそが僕にとって、ラッキーなことだった」
■親友との出会いと、転機
――そうか、音楽の話も存分に出来るし、共感しあうことも出来る同世代と、初めて出会うことができたのね。
「ロイヤル・アカデミーで初めて出来た親友がクリストファー・デュークだった。ものすごく才能のある人で、彼とはロイヤル・アカデミーの後、パーセル音楽院にも、ギルドホールにも奨学金を得て、一緒に進学することが出来た。そんな彼が20歳を過ぎてから、深刻な病気に罹ってしまい、そこからさまざまな障害を抱えるようになり、心の病まで患い、最後に自殺してしまった。
あまりのショックで、その影響からか、僕も病気になってしまい、当時出場予定だったチャコフスキー・コンクールを断念しなくてはいけなかった。そのことがまたショックで、しばらく何もすることが出来なかった。長く、出口の見えない時間が僕にさまざまなことを考える機会となり、クリストファーの分まで将来成功したいと考えるようになった」
――それがクラシックのピアニストではなく、自作曲を演奏するピアニストの道を歩むことになったのですか。
「暗闇にいた時間で、自分と対峙するなか、思い出されたのは、初めて自分のピアノを所有した4歳頃の、純粋に音楽を楽しんでいた自分だった。それが本来の自分だと思い、戻りたいと考えた。それが方向転換のきっかけになった。とは言っても、すぐに昔の自分を取り戻せたわけではない。大学では難解で、50分にも及ぶような曲を書いたり、そういう作品を学んでいたので、自分の中にある概念を払拭するのに時間がかかった。学校で培った基礎や技術がなければ、自由に演奏することは出来ないけれど、難解が美徳とされる価値観や、不要である知識を一旦忘れる作業に取り組んだのが、僕の20代だった」
鍵盤に何か仕掛けがあるのか。そんな風に思ってしまうほど、ひとつひとつの音に粒立つ美しさと感情がある。さらに特徴のひとつとして、アレクシス・フレンチの日本デビュー・アルバム『エヴォリューション』は、収録曲がポップ・ソングのように3分前後と短いことがある。
■クラシカル・ポップ・ソング
――3分前後の曲ばかりですが、それは意図的にそうしているのですか。
「意識して、3分前後の曲を書いている。20代で自分と対峙する時間のなか、音のなかの空間を大切にしようという発想が生まれた。クラシックで言えば、シューベルト、最近のポップ・シンガーで挙げると、エド・シーランが空間の使い方がうまいと思っている。そのなかで僕は、クラシックのメソッドを用いながら、ポップ・ミュージックのようにダイレクトにリスナーとコミュニケート、交流できる音楽を作りたいと切望した。言葉を使わずにダイレクトにリスナーの感情に訴えていく。もちろんすぐに出来るような簡単なことではなかったけれど、20代から”クラシカル・ポップ・ソング”を書くことを目標にしてきた。意図的に3分前後の曲を書いている理由は、人々に届けたいものがあるからなんだ」
――その曲は、主にどのような方法で作曲されるのでしょうか。
「曲の断片が何千もストックされている。何かメロディーのアイディアが浮かぶと、携帯電話に録音することもある。インスピレーションは、ピアノの前に座っていない時、たとえば、誰かが話す会話の言葉とか、新聞の記事とか、そういうものからも受ける。そこから生まれた曲の断片が入った”魔法の箱”が僕の手元にある。それらの断片が曲に発展するわけだけれど、僕自身が厳しいジャッジでふるいにかけるので、実際曲になるのはそのなかの0.1%くらい。そして、断片をもとに作曲して、アレンジが完成するまでに時間がかかるので、アルバムを作るには1年以上を要するんだ」
■アルバム『エヴォリューション』
――予めテーマやヴィジョンを決めて、作り始めましたか。
「どんなアルバムを作りたいのか、僕の中に明確なヴィジョンがあった。人間の体験に潜在する脆さを映したアルバムを作りたいと思った。誕生から、生きること、失うことなど、今まで生きてきたなかで経験した全てが反映されている。強いて挙げるとすれば、”逆境を乗り越えること”がテーマになっている。
――プロデュースもご自身で?
「アルバムは、全て僕自身がプロデュースしている。レコーディングでもエンジニアはいるけれど、1曲終わるごとにコントロールルームに行って、音を聴き、演奏をジャッジして、次にオーケストラとの作業をする。外部からプロデューサーを招いた方が楽だとは思うけれど、僕は、頭の中で鳴っているサウンドを確実に再現したいタイプ。それがわかっているから、自分でプロデュースした方がいいんだよね」
――その音について教えてください。どうしたら、このような淡い音色、感情を揺さぶる演奏が出来るのでしょうか。
「子供の頃、先生からいつも”黄金の音”(ゴールデン・サウンド)の話を聞き、自分もたったひとつの美しい音を目指して、毎日何時間も練習していた。温かく美しい音を奏でたいと思った。僕の演奏スタイルは、厳密な研究から生まれたもので、いろいろなコンビネーションから成り立っている。そして、演奏している時は、何か別の世界とつながりを持とうとしている感じなんだ。それを言葉で説明するのは難しいけれど、肉体的な感覚が抜け落ちて、どこか遠い世界に導かれる感覚と言えばいいかな……」
――収録曲の中で、『ザ・ラスト・ポスト(未来へ)』について伺いたいのですが、哀切な響きのトランペットは、何の象徴なのでしょうか。
「直接的には第一次世界大戦の犠牲者に哀悼の気持ちを捧げている曲なんだ。一方で、アルバムのコンセプトで言うと、人生や音楽が前進していくイメージの曲であり、クラシック音楽の再考という意味合いも兼ねている。過去を思い出しつつ、未来を見据えるような曲を入れたかった」
――最後に『エヴォリューション』に続く、アルバムの予定を教えてください。
「実は、すでに曲は書き終えた。1年前から制作を始めて、アレンジもすでに終わり、レコード会社の担当者に聴かせる段階にまでようやく漕ぎつけた。あとは、いつレコーディングするか、というスケジュールの問題だけになっている」
――アルバムの方向性としては?
「さらにエボリューション(進化)している。方向性としては変わらないと思うので、『エボリューション2』という感じのアルバムになると思うよ」
(インタビュー:服部のり子)