ウィル・ヤング
前作から12ヶ月を経た今、これまでにも増して豊かで甘い響きを持つ歌声と共に、ウィル・ヤングがニュー・シングルとニュー・アルバムを携えて帰ってくる。さらにソウルフルでジャジーになった真のクリエイティビティーを持つ.ポップ・アイドルのO.G.が、再び我々の前にやってくるのだ。

O.G.というイニシャルは(ご存知無い方のためにお教えすると)、オリジナル・ギャングスターの略である。ウィル・ヤングとすぐに結び付けられるフレーズとは思えないが、

「アメリカの人々は僕が最初の“ポップ・アイドル”だってことが面白かったみたいだ」

と、ウィルは笑って言う。

「きみはO.G.だ!なんてみんなに言われ続けたよ。僕がもっとアティトゥードを見せるべきだって彼らは思ったんだね。僕は本当にイギリス人なんだな、って感じたよ」

 ウィルはポップ・スターとは思えない側面を持った人物だ。政治学の学位を持ち、The New Statesman誌を購読し、“名声の解説”や“機能する資本主義の例としてのポップ・アイドル”といったテーマを雄弁に語ることさえできる。

「コンテストに出場していたときだって、僕は“有名になって、プレミア・ショーに出かけて、リムジンに乗りたい”なんて考えたことはないよ。ただ歌うチャンスが欲しかっただけだし、中流家庭出身のゲイでジャズやソウルを歌うちょっとエキセントリックな学生(つまり僕)なんかに、一体誰が投票なんてするんだろう、って思っていたしね」

 しかしウィルの並外れたヴォーカルの才能と人間的魅力、そしてサイモン・カウウェルの辛辣な批評に対する率直な態度は、完全に英国民を味方に引き入れた。

「常に物事をポジティヴに考えるべきだと思う」

 と彼は語る。

「人生には挑戦することが沢山あって、いろんなことを楽観的に解釈できなかったら失敗してしまう。誰でも人々のネガティヴな意見を自分自身の活力として生かすことができるんだと僕は信じるよ。見方を変えて、人々が間違っていることを証明するために、嫌な経験を強さに変えるんだ。それが意地悪な意見や批判なんかに対処する方法だと思う。だからもし僕が通りを歩いていて急に誰かにののしられたとしても、 “ありがとう、ブリット・アワードの会場からまた手を振るよ!”って受け流すことができるんだ。それは 丁寧に“ファック・ユー”って言うのと同じことさ」



そんな彼が“ポップ・アイドル”に出演した直後の年は、サクセスとメディアの熱狂に取り巻かれた嵐のような日々だった。

「なんとかやって行くだけでも大変だったよ」

 とウィルは言う。デビュー・シングルはUKでの初日の売り上げ記録を更新し、さらに4曲のナンバー1ヒットも記録、デビュー・アルバム「フロム・ナウ・オン」は85万枚のセールスをあげた。バッキンガム宮殿では女王の前でパフォーマンスを行い、ブリット・アワードで新人賞を受賞し、ヨーロッパ中でトップ5のヒット曲を連発。またフェスティヴァルでヘッドラインを務めたイタリアでは、ル・ウォモやヴォーグやカフェ・ラッテといったヒップな雑誌で絶賛され、スタイルに敏感な人々の間でアイコン的存在となった。

「イタリアでは上手く行くだろうと思っていた。とにかくぼくはイタリアという国も人々もライフ・スタイルも大好きなんだ」

そんな彼の気持ちとイタリア人の感覚がぴったり合ったのだろう。しかし2002年も終わりに差し掛かったころは、ウィルはアメリカとアジアのマーケットで彼の商品をセールスすることのプレッシャーに耐えていた。

「僕はソングライティングに集中したかったんだ。前の年はプロモーションやらなんやらでクレージーなほど忙しかったから、やっとアーティストとして成長できるよう学ぶ時がきたと感じていた。もしもあらゆる場所でプロモーション活動を続けていたなら、そんなことは可能じゃなかったと思う」

2003年を通して、ウィルはソングライティングと歌に全力を傾けた。彼はデビュー・アルバムで6曲コラボレートを行っていたが、プロモ活動の嵐に囲まれたまま、アーティストとして自分自身の歌声を見出し、それを製作過程で生かそうとすることはあまりに困難であると知ったのだ。

「大学ではよく物を書いていたけれど、自信を持てるほどじゃなかった。前作で共同制作した楽曲は、与えられた時間のなかで最大限に行ったものだから、言いたかったことすべてを伝えられたのかどうかはわからないけれど、自信を持つことができるようになって良かったよ」

 “音楽のアイデンティティの危機”を経験したことでは、新作の製作過程でも同じだったと彼は言う。

「僕は24歳にしてゼロから初めているんだと感じた。サクセスを手にしていてもそれはあまりにバランスが悪く、音楽性も早く追いつくようにしなくてはならなかった」

 彼はジャズから、彼が言うところの“くそみたいなポップの音”まで、あらゆるサウンドを検討した。そして休日をメキシコで過ごしていたときに、古いビル・ウィザーズの歌を聴き、ひらめいたのだ。

「ぼくはそのビートで自分自身のメロディを口ずさみながら急にピンときたんだ。誰だってひとつのベースラインで沢山のメロディを書くことができる。僕はピアノでそれを弾くことができるけど、でも誰かと共同で製作するときは、最高のグルーヴを持つ人が必要なんだ。だって僕は本質的にメロディとリリックの男だからね。つまりグルーヴを手に入れたら、残りはすぐにできるんだ!ってこと」

彼のコラボレーターたちはポップ・シーンで常に名前の挙がる人物たちではない。彼はEg White(元イギリスのインディーズで活躍していたEg and Alice)と、無名のアメリカのシンガー・ソングライターRobin Thickeと共に製作を行っている。

「Robinは天才だと言えるよ。からだのなかに常に音楽が流れているんだ!僕はマネージャーのSimon Fullerに“彼とやらせて欲しい、彼は最高だから”ってお願いしたんだよ」

 ウィルはLA、マイアミ、ロンドンを往復しながら彼らとコラボレートを行った。デビュー・アルバムで複数のプロダクション・チームが関わったのに対して、セカンド・アルバム「フライデーズ・チャイルド」はSteve Lipsonひとりが(アニー・レノックス、ポール・マッカートニー、スティング、ホイットニー・ヒューストンなど)すべての楽曲を手がけている。

「今僕は自分自身のサウンドを手に入れたんだと感じる」とウィル。

「このアルバムには自由がある。ちゃんと歌うことができれば装飾なんて必要ない。歌声を聴くことが大切なんだ」

 テーマは彼が言うには“楽観主義”だという。なぜなら、「ぼくは本当にポジティヴな人間だから」ということだ。そして歌詞は本質的に哲学的なものが多い。

「ラヴ・ソングや恋愛関係の歌からは離れたかった。それは前作で何度も歌ったし、僕自身そんな経験なんかないからね!僕は上手く行っている物事について書いたし、実際それらはすごくパーソナルなものなんだ。僕は皆と同じように嫌な経験もしてきたけど、今現在は楽しいときを過ごしている。それをはっきり伝えられることは良いことだと思うよ。このアルバムには最高の楽曲が詰まっているんだ、って誰に対しても言える。これが僕の製作したものすべてであり、アルバムとしてひとつにまとめることができた。“誰になんと言われても気にしないよ。だってぼくは最高のアルバムだと思っているからね”って言えるのは気分がいいね」

 音楽的に成長を遂げたことは、ウィルにとって非常に嬉しいことだ。

「もしぼくが有名になりたくてここにいるのだったら、“Heatのカヴァーを飾るなんて最高だな!”なんて感じてたことだろう。サクセスとはそういうことなんだと思っている人もいるよ。でも僕にとってのサクセスとは、プロのシンガーになることだったんだ。そして今僕は自分自身の作品を歌っている。スタジオではみんな僕のことをおかしいと思っているだろう。だっていつも“最高だ。これを自分が作ったなんて信じられない!”なんてことばかり言っているんだからね」

それが自己満足でないことは明らかだ。彼はヴォーカル・テクニックを懸命に学んできた。

「声は良くなったと思う。タバコも止めたし、その結果ヴォーカル・レンジも広くなったし、裏声もよく出るようになったしね。誰だってシンガーなら人々を元気付けることもできるし、適当にやって行くことだってできるだろう。でも自分自身をプッシュし続けなくてはならないと僕は思うんだ。ぼくはよく “人々を感動させろ、大声で歌え!”って自分に言い聞かせていたけれど、このアルバムでは静かな楽曲もあるし、その歌の持つ親密さは人々をひきつけることができるだろう。ぼくが理解したことはそれなんだ。歌声は明らかに良くなっているよ」



ウィルは早く人々の前に立って、彼自身を知って欲しいと願っている。





「ポップ・アイドルではみんなが僕に投票してくれた。でも彼らが僕をこの場所へ連れてきてくれたことに対して僕には少し責任があると思うし、まだそれを果たしきれていないと感じていたんだ。僕はソウル・ジャズ・シンガーであり、番組ではずっとそれを歌ってきた。けれど前作の内容は違うものだったから、みんなにこう言われたよ。“私あなたに投票したのよ。だからアルバムを買って聴いたわ。最高だったけど、いつになったらもっとウィルっぽいものを歌うの?”なんてね。そういった言葉には本当にエキサイトするよ。だってこのアルバムで、“とうとうやったよ!”ってみんなに言えるんだから」