ウェイクフィールド
WAKEFIELD

ライアン・エスコロピオ(VO,G)

アーロン・エスコロピオ(DR)

J.D.テニソン(G,VO)

マイク・スクールデン(B,VO)





メリーランド州Mechanicsvilleは、必ずしもロック・バンドに適した土地柄とは言えない。カヴァー・バンドやカントリーでさえ、同じことだろう。つまりピンポンのようにバウンドするサウンドがいつまでも頭のなかで響いているような、ヘヴィなメロディのフックを与えるバンドなど、もってのほかということだ。たばこ畑とアーミッシュ・コミュニティは、そういった音楽とは相容れないらしい。

 しかしだからこそこの場所は人々の脱出したい、逃れたいという夢を誘発し、JDとライアンにとってはウェイクフィールドというバンドをスタートさせる十分なキッカケとなったのだ。小学生時代の友人であるこの2人にライアンの兄のアーロンと従兄弟のマイクを加えたバンドは、3年間ひっきりなしに行ってきたリハーサルの後、アップダウンするギター・リフとドラム・ビートと3人のハーモニーによって、無頓着でいながらときに激しい楽曲を詰めこんだアルバム『アメリカン・メイド』を産み落とした。

 このアルバムは楽曲「ソールド・アウト」(歌詞は皮肉に満ちている:おれたちは金のためにやっている/そしてグルーピーたちのためにな、ハニー/だからソールド・アウトさ)の食らいつくような激しいギターで幕を開け、ストレートなパンク・ポップ「アン・スウィート・シックスティーン」から、スカっぽいサウンドでセレブリティを突き刺す「インファマス」へと滑って行く。速いリズムのファースト・シングル「セイ・ユー・ウィル」ははしゃいだラヴ・ストーリーで、映画「スクリーム」にインスパイアされたかのような印象を持つトラックだ。

「何度か悲しいおもいをすれば、悲劇は物語として展開し始めるんだよ」

 と18歳のライアンは言う。「アメリカン・メイド」は整然とした4分のスペースに描かれた、鮮明なスナップ写真のパッチワークなのだ。



 メリーランド州セント・メリーズ・カウンティのゆったりとした生活は、人々の怠惰を助長するものかもしれない。だがウェイクフィールドの2人の発起人にとって、その広く空いたスペースは、彼らの野心の導火線となっていた。中学1年で初めてドラム・キットを手に入れたとき、JDはプレイしたくてうずうずしていたし、幼稚園生のころからローカル・タレント・ショーに出演していたライアンにいたっては、もっと以前からそんな気持ちを抱えていた。

「おれの父親はジャーニーやシカゴのカヴァー・バンドのメンバーだったんだ」とライアン。

「だから子供のころから音楽に囲まれて育ったよ。それこそガース・ブルックスからシャナイア・トゥウェインやブッチ・ウォーカーやブリンク182までね」

 スクールで出会い、グリーン・デイやポリス、スリップノットといった好みの共通性を見出したライアンとJDは、自らカヴァー・バンドを結成する。

「レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンとデフトーンズをカヴァーしていたよ」

 JDは当時を思い起こす。14歳の彼らがプレイできるところなど無く、したがって両親に設備資金調達を求め、代わりの場所を見つけた。

「バースディ・パーティやガレージや、プレイさせてくれるところならどこへでも行ったよ」

 2人は笑う。時折、彼らのバンドSoar(「スペル間違いだよ。Soreとなるはずだった」とライアン)は、ローカルで有名なグッド・シャーロット(ライアンの兄アーロンがドラマーだった)などともプレイした。そしてファン・ベースが形成されて行く。

 

 しかしカヴァー曲ばかりの演奏はやがて彼らの輝きを失わせ、JDはドラム・キットの後ろに閉じ込められていることに我慢ができなくなってきた。

「当時を思い出すと、ライアンはステージでイカれてたし、ほかのヤツらはただ鼻くそをほじっていただけだ」

 そしてJDは即座にギターにスウィッチする。ライアンの従兄弟でいくつかのバンドでギタリストを務めていたマイクは、ベースを弾くことに合意した。アーロンは、まるでそうなることが運命であったかのように、グッド・シャーロットとかけもちでドラムを叩くことを決める。このようにしてウェイクフィールドは誕生したのだ。いや、そればかりではない。

「おれたちはもとはニンジャ・ペンギンズっていう名前になるはずだったんだ」

 JDはそう言うが、バンドの名前はアーロンとライアンが育ったストリートにちなんで名づけられている。彼らは更にカラフルなバックストーリーを、まだ創っている途中なのだ(それは本人に尋ねて欲しい)



 週末はもちろんウィークデイも放課後には毎日集まって、この4人は楽曲制作とリハーサルを繰り返した。

「おれたちは1年後には契約することを決意していた。お金を沢山借りて、夢を高いところにセットしていたんだ」とライアンは言う。「集中したよ。何よりもバンドを優先した」

 ウェイクフィールドを結成して1年と1ヶ月後、彼らはデモをすべてのメジャー・レーベルに送りつけた。もう少しですべてのレーベルが彼らをNYでのパフォーマンスに招くところだった。まもなく彼らはショーケースを行った……アリスタ・レコードと。

「アリスタの会長でCEOのLAリードがクラブにやってきたときに、すべては始まった」アーロンは言う。「それはあらゆる出来事には理由がある、ってことの証明さ」

 ウェイクフィールドはその場所でアリスタ・レコードに飛びつかれたのだ。そしてレコード製作の時がきたとき、バンドの夢を実現させるプロデューサーとして、マット・ウォレスを選んだ。

「ザ・リプレイスメンツのアルバムを制作した男だよ。おれたちが探し得る最もコアなプロデューサだ」とJD。彼らはLAへ移動し、17歳という成熟した年齢で、ロック・スターのライフスタイルを実現した。

 そしてレコーディング漬けの4週間が過ぎ去ったとき、快活なサウンドの11曲を手にして彼らは現われた。それは復讐や名声、そしてもちろん女のコのことなどすべてを包括する内容で、キッズたちをジャンプさせる楽曲の集合だった。

「おれたちのショーに来て、満足して微笑みながら帰って欲しい」とマイクは言う。「“アメリカン・メイド”はいろんなエモーションが詰まったアルバムだけど、最終的にはおれたちみんな“楽しむ”ことを大切にしているから」



 今「アメリカン・メイド」は全米でリリースされ、バンドはこのデビューアルバムを引っさげツアーを精力的に行っている。

「ライヴこそおれたちが望むものなんだ」とライアンは言い、ウェイクフィールドのショーがしばしばソールド・アウトとなることに触れる。楽曲「ソールド・アウト」で歌っているようなグルーピーたちにも実際出会ったことがあり、そのなかには彼らのライヴを見るために遠くから車でやってくる者たちもいるのだ。

「オーディエンスの前でプレイするときこそ、おれたちのハーモニーとエネルギーが合体し爆発するんだ」