ザ・バーズ

チャド・ミッチェル・トリオやボビー・ダーリンのバックでギターを弾いていたジム・マッギンは、ビートルズに影響を受けながらもL.A.をベースにライヴを行っていた。ニュー・クリスティ・ミンストレルズ出身のジーン・クラークとフォーク・シンガーだったデビッド・クロスビーの2人はジムとトルヴァドールで出会う。



当初ジェット・セットと名乗っていたが、ザ・ビフィーターズと改名しエレクトラからシングルを1枚発表。その後、ブルーグラス・バンドにいたクリス・ヒルマンとマイケル・クラークが加わり、ザ・バーズが誕生する。



ジム・ディクソンのプロデュースによりデモ・テープを制作。CBSと契約を果たし、65年1月20日”ミスター・タンブリン・マン”を録音。プロデューサーはテリー・メルチャー。このデビュー・シングルは全米NO.1となった。



ボブ・ディラン作のフォーク・ソングをエレクトリック・ヴァージョンに変身させることに成功した第1作に続きセカンド・シングルもディラン作「オール・アイ・リアリー・ウォント」を発売。40位まで登るヒットとなった第3弾はピート・シーガーが聖書をもとに作った「ターン・ターン・ターン」であったが、再び全米NO.1獲得する。フォークにロック・ビートを取り入れ、12弦ギターが印象的な独自のサウンドそしてディランを中心とした詩の持つ世界観は、まったく新しいものであった。こうして、ザ・バーズは、フォーク・ロックのスタイルを確立していく。しかし、彼等はそこにとどまらなかった。



サード・アルバム『霧の5次元』は、その内容などからスペース・ロックと呼ばれサイケ調、ラガ・ロック調サウンドが目立った。そうした意欲的な試みを行う一方トラディショナルなものも以前と変わらず取り上げている。そんな中ジーン・クラークは、グループを脱退。続くアルバム『昨日よりも若く』は大きな路線変更はなかった。



しかし、この頃デビッド・クロスビーが抜け、ジーン・クラークが舞い戻って2週間だけ在籍したりとメンバー・チェンジが頻繁に行われる。傑作との呼び名が高い『名うてのバード兄弟』に至ってはジム、クリス、マイクの3人しか正式メンバーとして残っていなかった。グループの主導権を誰が握るかで、ジム、デビッド、ジーンの3人に確執があったといわれるが、73年の活動休止まで残っていたオリジナル・メンバーはジムだけである。彼の意欲的な試みは次作『ロデオの恋人』においても開花している。カントリー・バンドにいたグラム・パースンズが参加したこのアルバムはグラムの思考が色濃く打ち出され、カントリー・ロックというスタイルを作り上げる。ボブ・ディランは『ナッシュビル・スカイライン』を発表し、カントリー・サウンドが大きくクローズ・アップされ、またしても彼らは、革新者であったのだ。



グラムは半年間活動を共にしただけで、ザ・バーズを去り、クラレンス・ホワイトが加入。彼の紹介でドラムスにジーン・パースンズが参加。クリスもグラムの後を追って脱退したため、変わりにジョン・ヨークが入る。



グラムが抜けても、カントリー・テイストは残っており、これは73年の活動休止まで続く。クラレンスの見事なギター・プレイが重要な位置を占める様になり、ライヴ・バンドとしての力量も充分なものになった。



70年に発表された『イージー・ライダー』は、テリー・メルチャーがプロデュースしたもので、映画「イージー・ライダー」の主題歌が収録されている。この曲は最初の何行かをボブ・ディランが書き、ロジャーにプレゼントしたと伝えられている。



初のライブ・レコードは、2枚組アルバム『UNTITLED』の内の1枚として発表される。ベースはスキップ・バッティンに変わったが、バンドとして最高のコンビネイションを見せている。この時期になると彼等の音楽的な展開は幅と奥行きがあり○○ロックというものではなく包括的なものとなった。ここにバーズ・サウンドは完成したといっても良い。



しかしながら続くアルバム『バードマニア』の評判は芳しくなかった。それはテリー・メルチャーのオーバー・プロデュースによるものでメンバーの意向とは食い違っていたと伝えられている。ザ・バーズ最後のアルバムはロンドンでレコーディングされる。前作の反省からか、自然で伸びやかな出来となっている。11枚目のアルバムであった。



73年にオリジナル・メンバーの5人が集まりアサイラムからリユニオン・アルバムを発表。ロジャーの構想による企画であったが、彼の色は薄く、メンバー5人のキャリアを反映する作品となった。



激しいメンバー・チェンジにより数多くのすぐれたミュージシャンが飛びだち、サウンドの変遷は音楽シーンに新たな創造性を生み出したザ・バーズ。彼等は60年代から70年代にかけてアメリカン・ロックを型づくったのである。