ルービン・シュタイナー
幼いころから、フレデリック・ランディエは、音楽をやりたいと思っていた。12歳のころ、自分の部屋でいろんなものをいじくりまわしていた彼は、バロウズやシェーファーのような『カットアップ』スタイルのライティングを見出し、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテンの楽曲の断片を逆回転させ、名前になりそうなものを探してみた。Niebuhr Rehniets(NIBUR RENIETS)は、後ろから読むとルービン・シュタイナーとなる。それでこの名前が誕生したわけだが、もちろん別の意見もあるだろう。専門家たちは、いまだに議論を重ねている。別の説、両親がマイク・ブラントを大好きだから、というのが彼らはお好みのようだ。(ルービン・シュタイナーとは、結婚によりブラントのいとこになった人物)ともかく、現在ルービン・シュタイナーは存在し、運命を必要としている・・・

アスファルトに立った『恐るべき子供たち』のように、大きく転んだフレデリック・ランディエは、ストリートに背を向け、身も心も音楽に捧げるようになった。デッド・ケネディーズやレイプマン、カルト・ヒーロー、ミュール、ザ・ピクシーズ、ニルヴァーナ、ステレオラブ、フガジらの楽曲を、友人のために一生懸命テープにまとめていたのは1989年。この当時は、ワシントン・スタイルのエモコアやカリフォルニアのハードコアが全盛で、みんなボロボロのバンに乗り、ドイツ語っぽい名前のビールを飲んでいた時代だ。ハードコアにかけるルービンの情熱と、予想外のジャンルのサウンドは、自然に地方のラジオ局(Radio Beton)を支配するようになる。この局で、彼は、Nuisanoes Sonores(厄介なサウンド)という、真面目で気楽な番組に参加していた。好みの音楽を自然に構成することと折衷主義への偏愛は、この当時すでに見出すことができたという。その後彼はペンを持ち、90年代で最も鮮烈でオフビートな同人誌の編集にチャレンジする。様々な才能が集まったその『Le Stéréophile』誌には、インディーの破壊的展望やメインストリーム、そしてアンダーグラウンド・カルチャーが溢れていた。それは彼をユニークな実験(例えば、パリの環状道路を車で飛ばしながらの、プライベートなアウトバーン・コンサートなど)の成功へ導いた綿密なおふざけや、学問、散乱した逸楽といった、生命と完全性のダイジェストだった。

だが、そうはいっても、頭のなかは、バロック音楽のモンタージュや、ミンガス、ダフト・パンク、ビースティ・ボーイズなどのカップリング、さらにパブリック・エネミーからソニック・ユース、コルトレーンまでを結びつけようという大きな夢でいっぱいだった。そしてそれは『Lo-fi Nu Jazz』(UHS, 1998)となって姿をあらわすことになる。これはルービンのスキルと才能の種を生み出したレコードであり、独創的で革新的で、コンパクトなセルフ・プロデュース作品だ。最高傑作が詰まった小さな実験だといえる。

 その後は、Placidoとのワイルドなライヴもあった1999年8月の「Dancing Music Show」(ほぼ50日)にいたり、ジョージ・ベンソン、ジョーイ・スター、ジョージ・マイケルらの音源を重ねたクロスオーバーのダイジェストで、2 many DJ’sよりも3年早く、事実上『海賊版』の親の立場であることを公言。ファースト・アルバムの続編『Lo-Fi Nu Jazz Vol.2』は、当初Un Hiver Sale/Platinumからひっそりとリリースされたが、注目を浴びたことで、コンピレーション・アルバムなどをリリースするチャンスが与えられた。

 そして2002年の『ヴァンダーバール・ドライ』は、このアーティストの大きな飛躍と、ルービン・シュタイナー・カルテットというライヴの形を特徴付けるものとなった。それはセンセーショナルなエレクトロ・ジャズをパフォーマンスする、VJ(François Pirault)、デカダンなトロンボーン(Benoit Louette)、ミュータントなダブル・ベース(Svlvestre Perusson)という編成だ。このアルバムはジャンルやスタイルの繊細なアンソロジーであり、完全にジャズともロックともヒップホップとも、ボッサやレトロともいえないものだ。だがこの否定の方程式から、ルービン・シュタイナーは、サウンドの鮮やかな定理をあっという間に作り出し、カテゴリーを覆い隠す自由な音楽を演奏し、彼独特のメロディに対する力を明確に示した。

批評家に絶賛され、コンサートに集まった多くのファンたちを喜ばせた『ヴァンダーバール・ドライ』は、素晴らしく耽美的なサウンドを響かせ、フランスのエレクトロニック・シーンのライバルたちよりはるかに優れたこのアーティストを、トップの地位に立たせることになった。

この『ヴァンダーバール・ドライ』は、2002年5月に初めて日本でもリリース。IDEEとのコラボレーションや、初来日も実現。IDEE/SPUTONIKではフレデリックによるDJ、La Fabriqueではルービン・シュタイナー・カルテットとして、バンドでのパフォーマンスも披露した。

今、ルービンのプロジェクトは、果てしなく広がり開花している。Dit terzi、Julien Ribot、Bosco, Arthur Hらを見いだす一方、Travaux Publics label、Les Rockomotivesらに手を貸す彼は、フランスのレーベルIci D’ailleursが持つカタログ(Bästärd, Married Monk, Tiersen & co)を、「Oumupo」というプロジェクトのためにリミキシングし、トッド・ブラウニングが1927年に発表したサイレント映画「知られぬ人(原題The Unknown)」のシネミックスを行っている。そして2003年には、「Guitarlandia」がNinja Tuneレーベルの手に委ねられたことで、国際的なステイタスと母国フランスでの確固たる地位を固めた。

本国では2005年2月にリリースとなった「ドラム・メジャー!」は、作り手である彼自身を反映している。ジャンルを転換し、カテゴリー化を混乱させ、厳しいプロダクションとアレンジの複雑さで、メロディックな創造力に溢れた楽曲と視覚を重ね合わせているのだ。そしてまたしても、オールド・スクール・ヒップ・ホップ、エレクトロニック、ジャズ、パンクロック…といった様々なサウンドをアレンジしている。このリズミックなニュー・アルバムは、これまでよりも強い一貫性を維持しているといえるだろう。幾何学的で気まぐれなサンプルとサウンドのウェーヴ、歪められた音声、何度もシンコペートされたビート。それらが、この新しく極めて洗練されたレコードの、カラフルな世界と抽象的な網を織り成している。

「Your life is like a Tony Conrad concert」、「Ten Drummers Back」、「Put your horn in your ass and pull off」といったトラックから、ときにカタレプシーな「Murderation」、「An introduction to sweet music」、「My own style」や、フェミニンな印象の「Que Bonita es la vida」、「 Universe」まで、グルーヴするサウンドは、部分的にMr Neveux(Microbe records)と共同でミックスされている。

そんな「ドラム・メジャー!」は、ビースティ・ボーイズやエスクィヴェル、デス・イン・ヴェガス、ジミ・テナー、ブラッカリシャス、プレヒューズ73、フルテらが生み出した作品の長い列に、きっと加わることだろう。もしくは、それらすべての概要といえるかもしれないが。 

この急進的なアルバムは、Neue Bandという形にセットアップされた新たなステージを必要としている。Neue Bandは、ルーベン(サンプラー、ラップトップ、ギター、ヴォーカル)、Boogers(ドラムズ、トイ・シンセサイザー)、Oliv’yeah Claveau(トロンボーン)、そしてSylvestre Perrusson(ダブル・ベースをベース・ギターと交換した)らが結集した才能の集合体だ。彼らは白熱したパンクロックのエフェクト、情熱的なジャズ―エキゾティカ・エフェクト、ダンサブルなエレクトロニック・ヒップ・ホップ・カウンター・エフェクトを、新しいナンバーに与えている。

疲れを知らないサウンド・クリエーター、フレデリック‐ルービン・シュタイナーは、我々を無気力状態から引っ張り出してくれることだろう。仕事、才能、優雅さ。そのスタイルは、まるで「才能は、日に18時間努力することで育まれるが・・・さらに60本のタバコとビール12本も必要だ」という言葉に溶け込むかのようなアティトゥードを形成している。