Rachael Yamagata (レイチェル・ヤマガタ)

乙女座。日系3世としてヴァージニア州に生まれ、キャロル・キング、ロバータ・フラック、リッキー・リー・ジョーンズ等のアーチストの影響を受けて育つ。

初めての音楽経験: 12歳。誰もいない講堂で独りでピアノを弾く事に喜びを見出す。

初めて作った歌のテーマ: “片思い“(それは現在もさして変わってはいない)。

性格: 優柔不断な仕切り屋。救いようの無いロマンチスト。



自分のバイオグラフィーを自ら執筆するという出しゃばったマネをしてしまって恐縮です。でも、自分の精神や心理を自分自身でも理解できていないのに、他人の解釈を通して私のことが語られるのはどうしても納得いかなかったのです。優柔不断な仕切り屋で救いようのないロマンチスト等々…の世界にようこそ。



『Happenstance』John Alagia ジョン・アレイジア(ジョン・メイヤー、デイヴ・マシューズ等)のプロデュースによるこのアルバムは、全てではないにしろ、主に愛をテーマとした私の絶え間ない熟考や内省にインスパイアされた曲のコレクションである。偶然の結果と、何事にも理由がある、という2通りの思考が心の中でバトルを繰り広げて出来た作品。アルバム・タイトルとバック・カバーに追加した“the never can be”(あり得ない)という言葉には、本当は偶然に頼り切っているわけではなくて、繰り返しのハートブレイクには何らかの理由があるはずだ、と主張する私の本音が表れている。その理由とは、より良い状況の約束だったり、勉強となるような経験だったり、より大きな愛への期待だったり。永遠に終わらない議論だ。それに、アルバム・タイトルがこれに決まったのも“偶然の結果”に過ぎないし…。結局、理由というものが持つ希望がなければ、人間関係の浮き沈み、そして愛と呼ばれる素晴らしいガラクタのようなものと付き合っていくのはちょっと難しいことなのかもしれない…。



セカンド・アルバムを作る頃にはもしかしたら、何もかもがダメになって、何もかもが意味をなさなくなって、偶然が優勢となり、もっとシニカルなアプローチを取ることになるかもしれないけど…。



私はヴァージニア州アーリントンでバーバラとベン(なんと、同じ誕生日で同じ年齢、ベンジャミンとレイチェルの双児を授かった両親)の間に生まれた。しばらしくして、自然の成り行きとも言える両親の離婚を経て、2人の義理の父母と義理の兄弟が私の家族に追加された。そして若い頃から移動を重ねる日々となり、落ち着きのない性格と1つの場所に長くいられないという人格が養われていった。これはそっくりそのまま私の人間関係にも当てはまる特徴で、その結果、理想の関係を永遠に探し求めるはめになってしまった。



若い頃からメリーランド州ワシントンDCとニューヨーク州北部を行ったり来たりしてた。この移動のパターンはそのまま大学時代まで続いた。まずはノースウェスタン大学、それからヴァサール大学、そして演劇を勉強するために再びノースウェスタン大学へと舞い戻った。当時を振り返ってみると、大学に通う代わりに旅をしていた方がよっぽどよかったと思ってしまう。だけど、流浪人生にうまく切り出せなかったがために、オペラ学生のための演劇クラス、という訳の分からない場所に身を置くことになってしまったのだ。



自分のハスキー・ヴォイスに気が付いたのは、シカゴのバンド、BUMPUS(バンパス)に参加してからだった。BUMPUSはスライ・ストーン、プリンス、モス・デフ、ジョージ・クリントン等から影響を受け、ファンク/ソウル/ヒップホップといった音楽要素を取り混ぜたハイ・エナジーなバンドだった。独学でピアノを習得した私はそれまでバンドでプレイすることなんて、まず考えたことはなかったけど、BUMPUSの演奏を目の当たりにした時、彼らと一緒にステージに立ちたい、という抑え切れない衝動に駆られてしまった。私に与えてもらった最初のパートはタンバリン。午前2時にバンド練習をしてる彼らに、よくコーヒーとドーナツの差し入れを持っていって、屋根の上に座り込んで彼らの演奏に合わせてシンガロングしてたのを思い出す。そんなある日、サード・ハーモニーが必要となる場面に私は居合わせていた。私の人生を変えた瞬間だった。ベースとドラムとの間のスリリングな絡み、エレクトリックなライヴ・パフォーマンス、ホーン・セクション、それに作曲活動の核となるメンバー間の対立さえ、バンドという集合体が放つ魅力的な世界に初めて触れることができたのだ。

ジョップリン風のパワーを私の中のどこかから引き出さなければ、巨大なベース・アンプやギターのサウンドに負けて自爆してしまう、という試練に直面した。そこで、まるでシェールのような、“やったもん勝ち”スタイルで、がむしゃらに立ち向かった。

4人のソングライターと3人のフロントメンバーと共に、セット・リスト絶妙な組み立て方、ライヴ・パフォーマンスの芸術性、そして観客の心の掴み方など、他では得る事のできない知識やスキルを身につけることができた。



悲しいかな、私は絶えず恋したり失恋したりしてて、私の感情を吐き出せるクリエイティブなアウトプットを必要としていた。結局、当時のバンドメンバーの男達はキャロル・キング、ロバーター・フラック、ジェームス・テイラー、リッキー・リー・ジョーンズ、サイモン・アンド・ガーファンクルあたりからはほとんど影響を受けていなかったため、私とメンバー達の方向性はどんどん離れていく一方だった。私の曲がバンドに合わなくなり、参加してから6年経った頃、溜まりに溜まった感情をどうにか発散し、浄化させたいという一心で、私の楽曲をオープン・マイクの場で試してみることにした。その翌日、あるアーティストに偶然、出会い、あるスカウトマンの名刺を渡された。そして、私の初ジョ−ケ−ス・ライブとなったヴァイパー・ルームでのライブが2001年に実現したのだ。



これまでの私の音楽キャリアは、何故か、出来事の順番が逆に起きる傾向があるので、ある程度の混沌は最初から覚悟している。ニューヨークでの初ライブはリヴィング・ルームというクラブで、チューニングの狂ったピアノでやらざるを得なかった。2度目のライブは、デイヴィッド・グレイの前座として、マジソン・スクエア・ガーデンでのソールド・アウト・ショーだった。たしかに、狂ってる。考え過ぎてしまうと恐ろしくなってくるので、あまり考えないようにしている。



ちょうどこの頃、5曲入りのデモのCDプレスを請け負ってくれたCDプレス屋の経営者が私のマネージメントも引き受けてくれることになった。メジャー・レーベルのA&Rを前にしてのショーケース・ライブをさらに幾度か重ね、ようやくRCAビクター・グループに落ち着いた。

私を待ち受けていたのは、共同作曲活動、プロデューサー探し、ブッキング・エージェントとの交渉、音楽出版社探しといった嵐のような日々だった。ようやく2003年の冬、プロデューサーのマルコム・バーン(エミルー・ハリス、ボブ・ディラン等)とEPの制作に取りかかった。場所はニューヨーク州キングストン。ウッドストックにある両親の家からわずか20分の場所だった。



私のソロ・ライブ・パフォーマンス活動の始まりと同じぐらい、ソロ・レコーディング活動も瞬く間に実現した強烈な体験だった。マルコムはアーティストの個性と強みを自然に引き出してくれる才能に溢れたプロデューサーである。マルコムは素朴で飾り気のない人間味溢れる感覚人間で、誰とでも率直に接してくれる。私のように全てを理解する時間も余裕もこれまでなかった新人アーティストにとって、マルコムは救いとなる存在だった。マルコムとコラボレートした作品は、シカゴ・トリビューン紙、ニューヨーク・タイムズ紙、フィラデルフィア・インクワイアー紙等の新聞で取り上げられ、また、MTVの「You Hear It First」番組やCNNの「The Music Room」番組といったテレビ・メディアにも取り上げられるほどの反響を得ることができた。EPはさらに、ザ・ギャップ、ノースウェウト航空のフランス便、ヴァージニア州にあるゴルフ・コース、ウッドストックにあるフルーツ・スタンドでも流されるようになった、と家族や友人が逐一、報告してくれる。最近、スターバックスのサンプラーにも収録されていることを聞き付け、もしかしたらコーヒーを何杯か無料でサービスしてくれるんじゃないかと楽しみにしている。



これまでの良い反響には心から感謝するばかりだけど、「落ち着いて、冷静に、調子に乗らないこと」と自分に言い聞かせながら過ごしている。「あまり考えないように。これで満足しちゃいけない」と。



EPの宣伝を兼ねて、リズ・フェア、ゴメス、ソンドレ・ラルケ、ダミアン・ライスといったアーティストとツアーを回った後、今度はフル・アルバムの制作に照準をしぼった。幸運にも、最後の最後でジョン・アレイジア(John Alagia)というプロデューサーに巡り会うことができた。ジョンとは何もかもに関してウマが合い、不思議な化学反応が起きてるような気さえした。ルーファス・ウェインライトの『ポージズ』、キャロル・キングの『タペストリー』、ジョニ・ミッチェル、エルトン・ジョン等々といった音楽の趣味から、旅と海に対する思い入れまで、共通の趣味がたくさん浮上し、2003年8月、バハマ諸島のコンパス・ポイント・スタジオでレコーディングを開始した。2人とも直感に従って、ニューヨーク、ロサンジェルス、シカゴ、それにロンドンからもこのプロジェクトにぴったりのミュージシャンを探し当ててセッションに招待した。デモを新しく蘇らせる作業が最大のチャレンジだった。結果、いくつかの新曲にいくつか違ったヴァージョンが誕生した。それぞれの曲を1つの作品と見なして、曲によって、曲の魅力を最大限に引き出してくれるプレイヤーをその都度、選んだ。多くの素晴らしいミュージシャンが私達のために集ってくれた。ケヴィン・セイラム(「Paper Doll」のプロデュースも手掛けた)、アーロン・コメス(スピン・ドクターズ)、ジョン・コンティ(アラーナ・デイヴィス、ピーター・ウルフ)、マット・ウォーカー(スマッシング・パンプキンズ、ガーベイジ)、マット・ジョンソン(ジェフ・バックリー、ルーファス・ウェインライト)、スチュアート・マイヤーズとブライアン・ジョーンズ(エージェンツ・オブ・グッド・ルーツ)、オリバー・クラウス(チェロ奏者−ベス・オートン、エド・ハルコート、トム・マックレー)、ジェームス・ジョンストン(バンパス)、ロバート・カーライル(ニューヨーク・シティ・バレエ団の終身フレンチ・ホーン奏者であり、私の叔父)、それにクレズマティックスといったアーティストまでもが参加してくれた。



通常のレコーディングとは違い、様々な場所を転々としてレコーディングを行った。バハマのコンパス・ポイントから始まり、ニューヨーク、ニュージャージー、ロサンジェルス、そしてとうとうジョンのスタジオがあるメリーランド州イーストンに辿り着いた。



ジョンと私はこのアルバムの作業に取り組んでいる間は探検家と化した。違った季節を巡り、命の危険にさらされる出来事にも遭遇した(午前4時頃にピザを焼こうとして、オーブンの火がついているのをすっかり忘れてしまった)。ジョンは私に、頭の中で巡るアレンジのアイディアを試す自由を与えてくれ、逆に私の考えがあまりにも道を逸れてしまった時にはガイド役として導いてくれ、方向修正をしてくれた。そして、出来上がった作品は2人共にとって新境地を拓く作品となった。エレクトリックで、みずみずしくて、感情がむき出しで、正直で、豊かな作品が誕生した。



愛と痛み、人間同士の絡み、魂が吐き出そうとしている感情について、私なりにベストを尽くして表現してみた。パフォーマンスとは、私にとっての瞑想の形であり、旅を共にする仲間のようなもの。アルバムに収録されている曲は全て、現時点での私を正直に描いている。私なりの人間観察を通した曲であり、ほろりとするようなところもありながら、どの曲にもどの痛みにも理由はあるものだと思える希望に満ちた曲のコレクションである。何も無駄にならないように。あり得ないことが起きるように。