オペラベイブス
 それはまさに現代のお伽話と呼ぶにふさわしい。2001年の春、カレン・イングランドとレベッカ・ナイトの2人は、他の多数の歌い手やパントマイム・アーティスト、曲芸師、その他いろいろな変わった人たちと一緒にコヴェント・ガーデンのピアッツァで大道芸を披露していた。そしてその数週間後、2人はFAカップ(サッカーのイングランド国内カップ戦)の決勝戦と欧州チャンピオンズ・リーグの決勝戦を見つめる大勢の人の前で演奏していた。今では2人は音楽界の巨人ソニーと録音契約を結び、5月20日にはデビュー・アルバム『ビヨンド・イマジネーション』が発売され(ヨーロッパ)、バッキンガム宮殿とロイヤル・アルバート・ホールでも演奏した。以下はそんな2人を巡る驚くべき物語である……



 カレン・イングランドは8歳の時から歌いたくてしかたがなかったという。いたずら好きのオペラの遺伝子が隔世遺伝したのではないかと彼女自身は思っている。彼女の母親はクラシック音楽にほとんど関心がなかったのに対して、祖母はイタリアでソプラノの勉強を受けたらという申し出を断った経歴があったからだ。イングランド中部ダービーシャー州の小さな村で育ったカレンはあらゆる機会をとらえて歌った――学校の演劇、地元のコンクール、そして英国国立少年合唱団(National Youth Choir of Great Britain)に参加して世界各国をまわった。

 高校卒業後、カレンはリーズ大学で国語と音楽を学び、さらにロンドンのギルドホール音楽演劇学校の研究科に進んだ。彼女の心はオペラ歌手として成功すること、と決まっていたが、希望に満ちた多くの若者と同じく、卒業後の時間の大半はオーディションを受けることと収入を補うための様々なアルバイトに費やされた。だが間もなく、“本業”が軌道に乗り始め、定期的に仕事が来るようになった。アイルランドで上演されて絶賛された《カルメン》のタイトルロールをはじめとするソロの仕事が次々と舞い込んできたのだ。

 レベッカ・ナイトの経歴はもっと演劇寄りだ。彼女の母、名の通ったオペラ歌手であるジリアン・ナイトは有名なドイリー・カート・オペラ団でレベッカの父親となる男性と出会ったのである。レベッカはかなり早い時期にロイヤル・オペラ・ハウスで腕白小僧役(!)を演じて初舞台を踏んだが、母親の跡を継いでオペラの世界に飛び込むつもりはなかった。その代わりに彼女が選んだのは踊りと演劇だった。有名な演劇学校で学んだのち、レベッカはアテネに行き、その後、週末のイギリス海峡横断(イギリスとフランスを隔てる)に始まる地球半周の船旅に出かけた(現在の彼女は船長の資格も持っている)。

 この旅のあと、レベッカ・ナイトは舞台、映画、テレビのための執筆活動に入り、ある短編映画ではいくつか賞まで獲得した。しかし、4年前のこと、彼女は何かが足りないと感じるようになった。そう、オペラである。レベッカは歌い始めた。母親と高名なソプラノ、リリアン・ワトソンの2人に学んだ。ほどなく、レベッカのもともと傑出していた声はオペラ団に入っても十分通用するほどにまで洗練されたものとなった。

 カレン・イングランドはケンブリッジでのある雨の日のことを振り返る――中国薬についてまくし立てる奇妙な中国人と出会ってレベッカと大笑いしたこと。それが2人の友情の始まりだった。2人は同じオペラ団に所属し、モーツァルトの《魔笛》に出演してツアーに出た。そんな数か月の後に2人は大の親友になった。

 だがそうやって友情を深めていく一方で、2人はしだいにツアーそのものに幻滅を感じるようになっていった。《魔笛》を、“狂気”に入り込むことなく演じる機会があまりに多すぎるのだ。だが2人にどうしようがあったろう? 買物旅行に出かけたある日、コヴェント・ガーデンで開場を待つ人々を楽しませている大道芸人たちの姿を目に留めたカレンは、すぐさま、大道芸としてオペラを歌ったらおもしろいのでは、と思いついた。レベッカが賛成し、オペラベイブズが誕生した。

 コヴェント・ガーデンのピアッツァの常連となったレベッカとカレンは、心を振り絞って歌ったのに見守る観客たちはたったの40ペンスしかくれなかったなど、時には落ち込みそうになりながらも、ほとんどの場合は気前のいい観客を大勢引きつけた。そんなある日、イベント運営会社The Production Teamのスカウトが2人に目をつけた。そして間もなく、カレンとレベッカはカーディフのミレニアム・スタジアムで行われる2001年FAカップの決勝戦で賛美歌「Abide With Me(日暮れてやみはせまり)」を歌うことが決まった。オペラベイブズが一方のチームに肩入れしていると思われてはまずいということから、2人はそれぞれアーセナルとリヴァプールのシャツを着た。

 サッカーとオペラのつながりは強い。それはまずワールド・カップ™のテーマ曲に選ばれてルチアーノ・パヴァロッティが歌った「誰も寝てはならぬ」に始まり、続いて3大テノールに、そしてごく最近ではマンチェスターのテノール、ラッセル・ワトソンへと引き継がれてきた。その伝統を受け継ぎ、FAカップ決勝戦でのオペラベイブズの演奏は大成功を収め、競技場に詰めかけた7万人強の観衆とテレビで観戦した何百万の人々を魅了した。その翌週、オペラベイブズはミラノで行われた欧州チャンピオンズ・リーグの決勝戦で歌い、今度はドリーブ《ラクメ》からの「花の二重唱」がオペラの本場イタリアで大成功を収めたのだった。

 その頃になると“オペラベイブズ現象”はイギリスの各メジャー・レコード・レーベルの注目するところとなっていたが、カレンとレベッカが望んでいる路線と最もしっくり合ったのがソニー・ミュージックだった。すでにソニーは、世界的に知られたシャルロット・チャーチでクラシック音楽と非クラシック音楽の垣根を見事に取っ払った実績があった。そのソニーが今度はオペラベイブズに大きな期待をかけ、そのユニークな才能の将来性に絶対的な確信を抱いているのだ。

 オペラベイブズは2001年11月にロイヤル・アルバート・ホールで行われた英霊記念日の式典ではクィーン・エリザベス2世の前で歌った。2002年の2月には再びロイヤル・アルバート・ホールに登場し、「ティーンエイジャー・キャンサー・トラスト」コンサートの1つで演奏した。最近では2002年イギリス連邦競技大会に際してバッキンガム宮殿で歌い、3月にはイングランド対ウェールズのラグビー・インターナショナルでも見事な演奏を披露している。

ヨーロッパでの爆発的な人気をうけて、2003年の1月にはアメリカでのデビューも果たし、好評を博している。そんな彼女らがついに日本に上陸する――。