20年後には、みんな『オアシス』をありのまま認めて買って聴くようになるよ。大事なのはそういうことだ。」

 ―19948月、ノエル・ギャラガー

 

デビュー・アルバムが発売直前のバンドのギタリストの言葉としては、極めて自信に満ちた言葉ではある。しかし、オアシスは自らの才能については常に確信していた。そして世間も彼らと同様、この5人組の行く先が間違っていないことを十分理解していたのだ。

 

統計の話はさておき、1994年8月に発売された『オアシス』は、発売第1週目にして86,000枚という、デビュー・アルバムの発売第1週としては全英最高の記録的な売り上げを博し、その後全世界で500万枚を売り上げている。2009年にオアシスはその活動にピリオドを打ったが、これまでにトータル7,000万枚以上のアルバムを売り上げている。

何より、楽曲が20年前と同様に新鮮で今日的な意味を帯びているのが素晴らしい。逃避を熱望する気持ちというものはいつでも実感を伴って聞こえるものだ。それがリアム・ギャラガーのような魅力的な歌い方をされ、リアムの兄ノエルらしい切迫感をもって書かれたものであれば尚更。4作のシングル「スーパーソニック」、「シェイカーメイカー」、「リヴ・フォーエヴァー」、「シガレッツ・アンド・アルコール」は、名曲としての地位を確立している。さらに感心させられるのは、「ロックンロール・スター」や「スライド・アウェイ」といったアルバム収録曲の枠を出ることがなかった楽曲もまた、今もあらゆる世代の音楽ファンに知られるラジオの定番の名曲として生き残っていることである。

すべての楽曲が不滅のパワーをたたえているようであるにも関わらず、オアシスの誕生は不穏なものだった。1991年、ギタリストのポール・“ボーンヘッド”・アーサーズ、ベーシストのポール・“ギグジー”・マッギガン、ドラマーのトニー・マッキャロルは、ビートルズのB面曲や地元マンチェスターの不名誉な雨の多さにちなんで「ザ・レイン」という名前のバンドを結成し、ボーンヘッドの友人リアム・ギャラガーをシンガーに起用した。曲を書いたのはリアムとボーンヘッドだったが、まだ10代だった彼らの書いた曲は控え目に言っても未熟だった。あるいは、リアム自身がのちに認めたように「クソ」だったのだ。

一方ノエルは漂流の日々を送っていた。水槽製作、看板書き、パン職人の助手、肉体労働などを転々としたノエルは、20代半ばでマッドチェスターの中心を担っていたインスパイラル・カーペッツのローディーを務めていた。彼はインスパイラルズのライヴの音響担当マーク・コイルと仲良くなった。つまり、バンドの機材のセット・アップが終わったら、インスパイラルズが登場するまでその会場で自分の曲を何時間も練習できるようになったということである。

マークは自宅の寝室にスタジオを持っていた。ツアーから戻ると、ノエルは彼に出来上がった曲を聞かせた。それらは、漂流したまま終わりたくないと決心したひとりの作曲家の情熱や欲望をすべて集約したものだった。「曲の素晴らしさに衝撃を受けたよ」とマークは振り返る。「聴き終わってすぐにノエルに言ったよ。『プロデュースは俺の仕事だ。話し合うまでもない、俺がやる』ってね」。

ノエルがそれほど素晴らしい曲を書いているという認識がなかったリアムは、兄にザ・レインのマネージャーを引き受けてくれと頼んだ。ノエルにはもっといいアイデアがあった。バンドに自分の曲を演奏させるのだ。彼は自分がリード・ギタリストとして加入し、のちに名曲となったこれらの曲をセットリストに選ぶことを提案した。オアシスの誕生である。

1992年1月、この5人組はマンチェスターの有名な会場、ザ・ボードウォークで初めてのギグを行った。そこではリハーサルも延々と行われた。「曲の裏も表も知り尽くしたよ」とボーンヘッドは語る。「仲間として初めての小手試しをしたのさ」。

オアシスはコイルとともにリヴァプールの裏通りにあるスタジオでデモ・テープを録音したが、そこからプレスされたのはわずか8枚だった。必要がなかったのだ。1993年5月、オアシスはプライマル・スクリーム、マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン、ティーンエイジ・ファンクラブらが所属することで名高いインディー・レーベル、クリエイションのバンド、18ホイーラーの前座として、グラスゴーのクラブ、キング・タッツ・ワー・ワー・ハットで4番目に出演した。クリエイションのボス、アラン・マッギーが早く到着したのは単なる偶然だったという。「1曲目は素晴らしかったけど、酔っ払ってボーっとしていたから、そのせいだったかどうか分からなかった」と彼は語る。「でも3曲目には『俺が引き受ける』と決めたよ。ショウの後ノエルのところに行ってこう言ったんだ。『俺はアラン・マッギーだ。レコード契約はどうだい?』ってね」。

それほど素晴らしい曲を持っていたにも関わらず、バンドの猛烈なエネルギーをとらえるのは難航を極めた。ウェールズの田園地帯にあるモノウ・ヴァレー・スタジオで行われた初期のセッションは期待外れに終わった。彼らはセンセーショナル・アレックス・ハーヴェイ・バンドやザ・スキッズら70年代のアーティストを手がけたベテラン・プロデューサー、デイヴ・バッチェラーと一緒にスタジオに入れられたが、彼との年齢差やその過度にテクニカルな手法は、ライヴ演奏にしか慣れていなかったバンドの神経に障ってしまった。「俺たちはやるべきことをちゃんとやっていた」とボーンヘッドは語る。「でも、デイヴは俺たちのことを人間としてもミュージシャンとしてもよく知らなかったんだ」。

彼らはコーンウォールのソーミルズ・スタジオに移動した。地元のパブに行くのにボートに乗らなければならないほど辺鄙な場所である。このときには、プロダクションの任務はマーク・コイルとバンド・メンバーの手にあった。バンドのセット・アップと演奏をコンサートと同じようにするというのが明らかな解決策だと判断したのだ。「とてもリラックスして心地よく過ごせたよ」空き時間にはスタジオに隣接する入り江でリアムとカヌーを楽しんだボーンヘッドは言う。「コンソールの所で大きな赤い録音ボタンを押していたのは気心知れたマークだったしね」。

『オアシス』は2週間のうちにレコーディングされた。堂々たる主旨書のようなオープニングの「ロックンロール・スター」から、穏やかな最終曲「マリード・ウィズ・チルドレン」まで、収録された11曲の流れは完璧だった。ところどころに現われていたプロデューサーのスタジオ作業の経験不足は、ミキシング担当のオーウェン・モリスが見事に救済した。コイル曰く「いいものになるまで、オーウェンが切り刻んだり編集したりしてくれたんだ」。

クリエイションは1993年12月、唸る「コロンビア」のデモ・ヴァージョンを業界の流行仕掛け人たちに送付した。評論家たちの間で噂になることだけを意図していたクリエイションは、ラジオ1のプレイリストに載せられたときには驚いた。オアシスの音楽を一ヶ所に封じ込めることがとにかく不可能であるということが初めて確認されたのだ。

1994年4月、「スーパーソニック」が正式なデビュー・シングルとして発売された頃には、リアムの言葉を借りれば「ファッキンなくらいタイト」なボーンヘッド、ギグジー、マッキャロルのミュージシャン3人組に支えられたギャラガー兄弟が素晴らしいミュージシャンであり、大胆なほどに奇妙なスーパースターでもあることが世間にも知られていることを、扇動的なギグが裏付けていた。世界はオアシスを必要としていたのだ。そして発売第1週目に86,000枚を博した売り上げも、雪だるま式にあっという間に増大していった。

そのわずか1年後に発売されたセカンド・アルバム『モーニング・グローリー』は、世界有数のビッグなバンドになろうとするオアシスの隆盛を確かなものにした。このときも、「ワンダーウォール」や「ドント・ルック・バック・イン・アンガー」といったシングルに加え、「シャンペン・スーパーノヴァ」などアルバムにのみ収録された曲も時代を超える名曲となった。1996年8月にネブワースで行われたコンサートは伝説となった。2回にわたって行われたオアシスのショウのチケット25万枚が、オンライン発売前にあっという間に売り切れてしまったのだ。

サード・アルバム『ビィ・ヒア・ナウ』は第1週に65万枚を売り上げるという記録破りの作品となり、今も全英最速の売り上げを博したアルバムとしての地位を保っている。オアシスはその後も当たり前のようにスタジアム公演をソールド・アウトにし、フェスティヴァルのヘッドライナーを務め、チャートのトップを極めた。アルバムは8作が全英ナンバー1となり、「リトル・バイ・リトル」、「ソングバード」、「インポータンス・オヴ・ビーイング・アイドル」、「ライラ」など8曲のシングルが人々の心を動かす不変の名曲の仲間入りをし、チャートのトップを記録した。

と言う訳で、私たちは売り上げ枚数や、オアシスが音楽の顔をいかに変え、彼らの楽曲が何世代にも渡って新しいミュージシャンたちに影響を与え続けていることについて語ることができるのだ。あるいは、オアシスの本当のパワーを知りたいのであれば『オアシス』をかけることから始めなさいと勧めることも。

(英文バイオより)