マリアン・アンダースン

マリアン・アンダーソン(コントラルト)


マリアン・アンダーソンは、1897年2月27日にフィラデルフィアで生まれた。3人姉妹の長女のマリアンは、ユニオン・バプテスト教会の児童合唱団にわずか6歳で加入。石炭と氷の販売を行っていた彼女の父親は、マリアンの音楽的興味をサポートし、8歳のときに彼女のためにピアノを購入。一家にはレッスンを受けさせる余裕は無かったが、彼女は独学で学ぶ。マリアンの音楽への取り組みと歌手としての才能は様々な音楽活動を通して人々に感銘を与え、ピープルズ・コーラスと教会の牧師であるレヴェレンド・ウェズリー・パークス、そして黒人コミュニティの長たちが必要な資金を用立てし、メアリー・ソーンダーズ・パターソンに歌唱を学んだ。サウス・フィラデルフィア高校を卒業後、フィラデルフィア音楽アカデミーを受けるも、白人しか入学できなかったため門前払い。


しかし、マリアンはジュゼッペ・ボゲッティから2年間学び、ニューヨーク・フィルが主催するコンテストに参加した後、ニューヨークのルウィゾーン・スタジアムで歌うチャンスを獲得し、多くのリサイタルが続く。1928年に彼女は初めてカーネギーホールで歌い、最終的にジュリアス・ローゼンヴァルト奨学金でヨーロッパ・ツアーに乗り出す。ヨーロッパではアメリカで経験したような人種差別に出会うことはなかった。1933年、ロンドンのウィグモア・ホールでヨーロッパデビューを飾った彼女は熱狂を巻き起こし、1930年代後半までに大西洋圏全土で最も有名な歌手の一人となった。アメリカでは、フランクリン・ルーズベルト大統領とその妻エレノアから、アフリカ系アメリカ人として初めてホワイトハウスでの演奏に招待されるという栄誉を受けた。


その成功にもかかわらず、アメリカのすべてが彼女の才能を受け入れる準備ができていたわけではなかった。1939年、ワシントン・コンスティテューション・ホールの公演は、ホールの所有者である「アメリカ革命の娘たち(Daughters of the American Revolution=DAR)」は、「アンダーソンが人種を隔てない聴衆に向かって歌うことを許可しない」というポリシーで開催を拒否。このことを知ったDARの会員でもあったエレノア・ルーズベルトや千人を超す会員は組織を脱会。エレノア・ルーズベルトは、代わりに彼女を日曜日のイースターにリンカーン記念館で歌うように誘い、アンダーソンは75,000人を超える群衆の前で魅力的なパフォーマンスをし同時に何百万人ものラジオリスナーに生放送された。

第二次世界大戦と朝鮮戦争の間、アンダーソンは病院や基地で兵士を慰問。1943年にはDARの招待に応じて、かつて歌うことを禁じられたホールで人種を区別しない聴衆へ歌を披露。1953年には来日公演も実現。1955年1月7日、アンダーソンはアフリカ系アメリカ人として初めてメトロポリタン歌劇場でのヴェルディ「仮面舞踏会」で、ウルリカ役を歌いました。1961年にはジョンF.ケネディ大統領の就任式で国歌を歌い。1963年にはワシントン大行進でも歌唱。同年には改めて制定された大統領自由勲章の初回の31人の受章のひとりに選ばれた。


1965年に引退後、コネチカットの農場に定住。1991年、音楽界は彼女を称え、生涯功労賞を受賞。彼女の最後の年は、彼女の甥である指揮者のジェームズ・デプリーストと共にオレゴン州ポートランドで過ごし、1993年4月8日に亡くなった。享年96歳。


2016年4月、米国財務省は、1939年のリンカーン・メモリアルでの演奏が米国での市民権運動の開始に貢献したとして、マリアン・アンダーソスンが新5ドル札に登場すると発表している。