ジョン・メレンキャンプ
[BIOGRAPHY]

1951年 

10月7日インディアナ州シーモアに生まれる。小学5年の時からバンドを始める。



1965年 

R&B/ロック・バンド、クレープ・ソウル(Crepe Soul)に加入。



1966年 

スネイクピット・バナナ・バーン(Snakepit Banana Barn)のメンバーとして初ギグを体験。ギャラは週末ごとに30ドル。しかし、やがてバンドを追い出される。



1970年 

シーモア・ハイスクール卒業を機にヴァロニアという町のアパートに移り住む。



1971年 

ギタリスト、ラリー・クレインと共に60sのカヴァー・バンド、トラッシュ(Trash)を結成。



1975年 

ヴィンセンヌ大学卒業後、地元の電話会社に就職。が、じきに解雇。退職金とデモ・テープを持ってニューヨークに向かう。デモ・テープの中身はポール・リヴィア&ザ・レイダーズの“Kicks”のカヴァー。ニューヨークでデヴィッド・ボウイの所属するメインマン・マネージメントと契約。



1976年 

デビュー・アルバム『Chestnut Street Incident』リリース。が、本人の承諾なしにジョン・クーガーという芸名が使われる。



1977年 

メインマンと決別。インディアナ州ブルーミングデイルに戻り、次のアルバムに着手する。これはジョン・クーガー名義のまま、『The Kid Inside』というタイトルで完成するが、メインマンが所持することに。結局1982年に『American Fool』が大ヒットし、便乗リリースされるまで日の目を見ず。



1978年 

3月、イギリスで『A Biography』リリース。シングル“I Need A Lover”は、いずれメレンキャンプ自身とパット・ベネター両者の大ヒット・ナンバーとなる。



1979年 

バンドのザ・ゾーン(The Zone)と共にディック・クラークのテレビ番組「アメリカン・バンドスタンド」に出演。“I Need A Lover”と“Small Paradise”を演奏。アメリカでのサード・アルバム『John Cougar』リリース。『A Biography』からのナンバーも数曲収められ、アメリカン・チャート64位にエントリー。



1980年 

MG'sの伝説のギタリスト、スティーヴ・クロッパーをプロデューサーに迎えて、『Nothing Matters And What If It Did』をレコーディング。アルバム・カヴァーにはジョン・ウォーターズ監督のカルト映画で名をあげた、女優エディス・マッシーを起用。アメリカン・チャート37位まで上昇。ファースト・シングル“Ain't Even Done With The Night”は最高位17位。



1982年 

『American Fool』リリース。爆発的大ヒットとなり、同年度最も売れたアルバムとして記録に残る。10月には、ナンバー1アルバムと2枚のトップ10シングルを4週連続で同時にチャート・インさせ、ジョン・レノン以来の快挙を達成。その2枚のシングルのうち“Jack And Diane”はナンバー1の座を獲得。“Hurts So Good”は28週間に渡ってトップ100圏内に居続けた。またこの年のグラミー賞では3つのノミネーションを受け、その中から最優秀男性ロック・ヴォーカル・パフォーマンス賞を受賞。



1983年 

MTVという強力なバックアップを得て一躍スターの仲間入りを果たし、ミュージック・ビデオ界での先駆者的存在となる。“Hand To Hold Onto”は最高位9位。続くアルバム『Uh-Huh』も9位まで上昇。これはインディアナのスタジオ、ザ・シャックにて、たった16日間で録音された作品で、ジョン・クーガー改めジョン・クーガー・メレンキャンプ名義でリリースされる。シングル“Crumblin' Down”はチャート9位に。アルバムは『American Fool』に続き2枚目のプラチナムを獲得。



1984年 

2月にはシングル“Pink Houses”が8位に、5月には“Authority Song”が15位に。7月にはMTV主催の「パーティー・ハウス・ウィズ・メレンキャンプ」コンテストに優勝したスーザン・マイルズが、自分の家をピンク色に塗った。またこの年彼は、著名な作家ラリー・マクマトリーと共に脚本ライターにも挑戦。ミッチ・ライダーのカムバック・アルバム『Never Kick A Sleeping Dog』のプロデュースも手がける。



1985年 

3月、ブラスターズのアルバム『Hard Line』の中の“Colored Lights”をプロデュース。



1985年 

9月22日、ウィリー・ネルソン、ニール・ヤングと共に第一回ファーム・エイドをイリノイ州シャンペインで主催。アメリカ農民救済のための懇願書を地元の政治家に送り、アクションを起こそうと観衆に訴えた。ファーム・エイドは1996年まで11年連続で開催され、出演者たちは毎回自費で参加。NARAS(全米レコード協会)もこの功績を称え、彼に功労賞を送っている。



1985年

年末、新しく建てらたベルモント・モール・スタジオで『Scarecrow』を録音。祖父スペック・メレンキャンプに捧げられたこの作品は、アメリカン・チャート2位まで駆け昇り、シングル”Rock In The USA”は2位、“Small Town”も6位まで上昇し このアルバムから5枚連続ヒット・シングルが生まれた。



1986年 

9月、同じくベルモント・モール・スタジオで『The Lonesome Jubilee』のレコーディングに着手。



1987年 

『The Lonesome Jubilee』リリース後、アルバムはチャート最高位6位、シングル“Paper In Fire”は10月に9位まで到達。アルバムは27週間トップ10圏内にとどまり、メレンキャンプとバンドは9ヶ月に及ぶ10ヶ国ツアーに出発。150万人以上の前で演奏する。またこの年のクリスマスには、チャリティ・アルバム『A Very Special Christmas』に“ISaw Mommy Kissing Santa Claus”を提供。



1988年 

秋、『Folkways : A Vision Shared』と題された、ウディ・ガスリー/レッドベリー・トリビュート・アルバムに“Do Re Mi”で参加。また、ジェームズ・マクマトリーのデビュー・アルバム『Too Long In The Wasteland』のプロデュースを手がける一方、ボブ・ディランの“Political World”のプロモーション・ビデオを監督。この頃から絵を描く機会も増えていった。



1989年 

『Big Daddy』リリース。プラチナ・アルバムに輝く。



1990年 

自らが監督・出演し、スクリーン・デビューとなる『Falling From Grace』の撮影開始。サントラ盤ではジョン・プライン、ドワイト・ヨーカム、ジョー・エリー、ジェームズ・マクマトリーらとのスーパーセッションが実現する。



1991年 

ノードホフ・ロビンズ・シルヴァー・クレフ・アワードを受賞。これは、障害児や自閉症児のための音楽セラピーに貢献した人々に送られる賞で、メレンキャンプは改めて音楽の影響力の大きさを再確認する。



1992年 

『Whatever We Wanted』リリース。ただちに7ヶ月間のワールド・ツアーがスタート。アルバムからは“Get A Leg Up”がヒット。年末にはMTVアンプラグドに出演し、時を同じくして『Falling From Grace』が劇場公開される。



1993年 

『Human Wheels』リリース。11月にはプラチナ・アルバムに認定。



1994年 

夏、『Dance Naked』リリース。ヴァン・モリスンのカヴァーで、ミシェル・ンデゲオチェロとのデュエット“Wild Night”が大ヒット。ツアーも大盛況だったが、ツアー中の身体検査で軽い心臓発作を患っていたことが判明。残りの日程はキャンセルされ、本人はブルーミングトンに戻り静養生活に入る。



1996年 

『Mr Happy Go Lucky』で見事カムバック。プロデューサーに迎えたのは、ダンス・ミュージック界で大活躍中のミキサー、ジュニア・ヴァスケェス。メレンキャンプの飽くなき探求心を象徴する人選と言える。当時彼はこう話していた。「ジュニア・ヴァスケェスがロックンロール・バンドの一部になるなんてさ!つまり、“そろそろどこか違うところに行ってみよう”って気持ちで作ったんだ。異なるヴィジョンと可能性を持った者同士がぶつかり合うって素晴らしいチャレンジだと思うから」この『Mr Happy Go Lucky』も過去のアルバム同様、数週間でプラチナ・ディスクに輝いた。



1997年 

11月、初のベスト盤『The Best That I Could Do : 1978 - 1988』リリース。12月にはゴールドに、翌98年にはプラチナ・アルバムに認定される。



1998年 

SONY MUSIC(COLUMBIA RECORDS)と新たに契約。10月に通算15枚目となるオリジナル・ニュー・アルバム「JOHN MELLENCAMP」発売



1999年 

既発曲をアコースティック編成バンドでセルフ・カヴァーした括『Rough Harvest』発売



2001年 

通算16枚目となる『Cutting Heads/カッティング・ヘッズ』リリース



2002年10月7日、8日 

ボストンとNYで開催されたビルボード誌の元編集長ティモシー・ホワイトを悼むコンサートに出演し「帰り道に石がある」を含むセットを展開。



他スティーヴィー・ワンダーや、2002年2月に他界したカントリー歌手のウェイロン・ジェニングスへのそれぞれトリビュート・アルバムにも参加。ウィリー・ネルソン&フレンズのステージに飛び入りした



2002年秋 

FARM AID Concert for AMERICA。ペンシルヴァニア州バーゲッツタウンで開催されたライヴでもロバート・ジョンスンの「帰り道に石がある」を披露



2003年

イラク戦争と時を同じくして、彼のオフィシャル・サイトmellencamp.comで新曲”TO WASHINGTON”を披露。米大統領ジョージ・ブッシュに捧げられた反戦ソングとしてニュース等で社会的に取り上げられ話題となった。



6月25日『トラブル・ノー・モア』リリース