河村尚子 デビュー10周年とラフマニノフについて、大いに語る
2004年11月4日、東京オペラシティ・コンサートホールでの東京フィルハーモニー交響楽団演奏会。急病でキャンセルしたウラディミール・フェドセーエフに代わり、指揮台に立ったのは小林研一郎。そして前半に演奏されたショパンのピアノ協奏曲第2番で独奏をつとめたのが、河村尚子さんでした。この時が河村さんにとっての日本デビューとなった演奏会。それから10年。その10年間を振り返りつつ、ラフマニノフやレコーディングについて、大いに語っていただきました。
―――デビューからの10年を振り返って、今、どのようなことを感じますか?
公私ともにさまざまな方との巡り会いがあったこと、こうして健康でいられることなど、さまざまなことに感謝しています。そして、私はとにかく運が良かったと思います。人生山あり谷あり、いろいろなことが起きながらも、学生から社会人になり、ピアニストとして演奏活動を行い、さらに大学でピアノを教えるという機会も得ています。自分が好きなピアノを仕事とし、プライベートも充実している現在は、本当にありがたいことだと思います。10年前は、今のようになるとは想定していませんでしたし、そもそも10年後にどのようになっているかということを思い描くことさえしていませんでした。ただ将来も「ピアノを弾き続けていたい」という気持ちはありましたね。
―――日本デビューは2004年11月の東京フィルハーモニー交響楽団の演奏会でした。フェドセーエフさんのキャンセルで、小林研一郎さんの指揮でショパン:ピアノ協奏曲第2番を演奏されましたね。
2003年のゲザ・アンダ・コンクールに入賞したとき、審査委員長であったフェドセーエフさんから表彰していただいたのですが、その時は特に言葉を交わすこともありませんでした。しばらくして、東京フィルの事務局から連絡があり、フェドセーエフさんが来年の定期で私をソリストとして起用したいと。コンクールでは個人的な付き合いはなかったので、これにはとても驚きました。それまで私は日本の音楽界とは特に接点はなかったですし、東京オペラシティやサントリーホールといっても、写真や映像で知っているだけ。実際に行ったことはなかったのです。
結局フェドセーエフさんは風邪でキャンセルなさったので、小林研一郎さんが代役に立ってくださったのですが、私の方はとにかく自分の演奏をベストに持っていくことだけに集中していました。初日の東京オペラシティでの本番では、緊張していたせいか、自分の音楽を理性的に演奏できなかったのですが、2日目のサントリーホール公演では、自由に思うがまま演奏できたということが記憶に残っています。それと、舞台裏で、朝や午前中でもないのに“おはようございます”と挨拶する日本の音楽界の習慣にとても驚きました。それ以外でも、とにかく東京という都市そのものにカルチャーショックを受けていた感じです。
─――この10年で、ピアニストとしてターニングポイントになった演奏会の思い出はありますか?
この10年間、いろいろなことに挑戦させていただきました。なかでもやはり、“敬遠していた曲を乗り越えられた”演奏会がターニングポイントになっていると思います。自らのセーフティーラインを越えてゆく勇気を掴んだポイントでもあり、後々の自信にもつながる大切な経験でした。
例えば、2009年の春、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」を初めて演奏したとき。この時は飯森範親さん指揮の大阪フィルと共演させていただきました。また同じ年の夏、フェドセーエフさん指揮のモスクワ放送交響楽団の日本ツアーで、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を演奏したとき。2011年の春にリサイタルでシューベルトの「さすらい人幻想曲」を取り上げたときもそうでしたし、2012年秋に、大友直人さんの指揮する日本フィルとラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を初めて演奏したときも。そして2013年の春、ショパンのバラード4曲をリサイタルで取り上げたときなどでしょうか。
─――20代から現在にかけてという変化の大きな10年間で、もっとも大きな出来事はなんでしょうか?
一つだけ挙げるとすれば、“一人立ちできたこと”だと思います。ウラディーミル・クライネフ先生が3年前に他界され、それはとても悲しいことではありましたが、それをきっかけに自分の道を歩めるようになったと思います。今、私はミュンヘンに暮らしていますが、もしも先生がお元気だったら、先生のお住まいがあったハノーファーに今でも住んでいたかもしれません。音楽的に信頼し、意見を聞けたり、甘えられたりする存在を失ったことで、自分だけの考えが求められる状況になったわけです。師匠の死によってはからずも起きたことではありますが、自分の道を進む良いきっかけになったと感じています。
─――演奏活動のほかに、レコーディングも始められましたね。
最初のレコーディングは日本デビューの前の2002年のことで、フランスのオーヴェル・シュル・オワーズ音楽祭との関連で制作しました。その時は音楽祭のスタッフがレコーディングも手掛けるような感じだったので、自分でテイク選びまでやりました。当初は一瞬で消えてゆく演奏会とは違って、繰り返しテイクを重ねてそれを聴く、という行為が苦手でした。レコーディングがどういうものか分かっていなかったせいでもありますが、私の中には、“音楽というものは一瞬一瞬のものであり、そこに創造性があり、その瞬間の新鮮な思いを聴く人に届けたい”という気持ちがありました。レコーディング・セッションで演奏の完璧さを目指して、テイクをパズルのように切り貼りしていると、どんどん人工的なものになってくるし、際限もなくなってきます。それが嫌でしたね。
しかしレコーディングを重ねるにつれて、そうした感覚が変わってきました。演奏や解釈は耐えず変わっていくものです。しかし、10年前の演奏と今の演奏と比べると、変化しているのは確かなのですが、それが100%良くなっていることにつながっているかというと、必ずしもそうではありません。10年前にできていたことが、今はできなくなっているかもしれない。年月が経てば必ず演奏が向上するというわけでもないのです。10年前にはその時しかできなかったことがある。レコーディングというものは、それを記録することができるという点で貴重な行為だと思います。
─――ご自分のディスクをお聴きになることはありますか。
ごく最近、2013年7月に録音したショパンの「バラード」のディスクを聴いてみました。今の私の解釈とは違っているのですが、その違いにむしろ新鮮さを感じました。これがレコーディングというものの面白さなのかなって。“今の自分の演奏を録音する”とか“その瞬間にベストな状態を記録しておく”とも考えるようになって、レコーディングを前向きに楽しめるようになってきました。またレコーディングという機会は、異なった観点の演奏の解釈をいくつか試してそれを実際に耳にすることができる実験の場でもあります。それを実感できたのもショパンの「バラード」のセッションでした。
そうした反面、マイクロフォンが捉える音と、私が楽器を弾きながら実際に聞いている音とではどうしても違いがあるのです。レコーディングは、マイクのセッティング、全体の音のミキシングやバランスで大きく変わりますが、それが自分自身の音のイメージと噛み合っているかどうか、という点は大事なことです。舞台で演奏者が聴く音と、ホールでお客さんがお聴きになっている音とは異なるし、ホールに響いている音とそれをマイクロフォンで拾った音にも違いがある。さらに、それをプロデューサーやエンジニアがどう聴いているかも異なっています。レコーディングは、演奏会と違って、演奏者一人で行うものではなく、プロデューサーやエンジニアなど複数の人間がかかわる共同作業です。彼らがどういう耳を持っていて、どういう点を重視していて聴いているかは、録音を創り上げていく課程でとても重要なポイントですね。
―─今回の録音で取り上げるのは、ラフマニノフの作品の中でも、ピアノ協奏曲、室内楽作品、ピアノ・ソロ作品と多彩です。
実はこれまで、ラフマニノフを敬遠してきたところがありました。それが、一昨年、昨年とピアノ協奏曲第2番を弾く機会が多く訪れ、いろいろな指揮者の解釈に触れながら演奏を重ねていくうちに、改めてその魅力に気が付いたのです。ピアニストとしてのラフマニノフ自身の演奏を聴いて、一般的に彼の作品に対して持たれがちな甘くて優美というイメージだけではなく、シャープで無駄な贅肉のない一面、冷静さの中に秘められた熱いものを感じました。そしてピアノ以外の作品、ラフマニノフの生涯などについて勉強していくうち、幅広い作品におけるラフマニノフをみなさんにお届けしたいと思うようになったのです。今回のアルバムには、ラフマニノフが若き日に書いた作品を集めました。
―─―ラフマニノフが苦手・・・というのも不思議な気がします。
ラフマニノフの作品を弾くと、“指がこんがらがる”とでもいうのか、彼の作品の音型や和声、フレージングなどに私の指が馴染んでいなかったです。おそらく子供のころからラフマニノフの作品をよく弾いてきたピアニストであれば、そうは感じないでしょう。ピアノ協奏曲第2番をはじめ、このところラフマニノフの作品を弾いているうちに魅力を感じるようになりましたし、彼の「音楽の作り方」にも大分慣れてきました。
―――ラフマニノフは名高いピアニストでもありました。レコーディングも自作自演を中心にかなり残されていますね。しかもいわゆる一般的な「ラフマニノフの作品のイメージ」とは異なる解釈です。
ピアノ協奏曲第2番を勉強し始めてから、自作自演も聴きましたが、私が当初楽譜から読み取っていたものは、どちらかというと20世紀後半に「ロシア的」とされていたラフマニノフのイメージでした。しかし自作自演を聴くと、テンポも速く、演奏もきびきびしているし、とてもシャープです。これがラフマニノフが弾いたピアノ演奏の真実だとしたら、人間が伝える伝統というのはやはり確実なものではないかもしれません。あるものが世代を経て伝承されていくうちに新鮮さが失われて形骸化していく、あるいは誤ったものになっていく。それを改めて検証するモノサシになってくれるのがレコーディングというもの効用でもあります。
─――河村さんの恩師クライネフ氏といえばラフマニノフ演奏の名手として知られていますが、師からロシア音楽について教えられたのはどんなことでしたか?
ロシア音楽はロシア大陸のように大きくとらえなくてはいけない、あなたの生まれた日本は小さな国だろうけれど、ロシアはずっと大きいからね!とよくおっしゃっていました(笑)。これはすばらしい美徳でもあると思いますが、日本人は、細部にこだわり、気を配って、綺麗にまとめようとする傾向があるかもしれません。一方のロシア的な感性においては、物事を小さく見すぎず、大きく捉えて音楽を創ってゆくことが大切なのだろうと思います。
─――ピアノ協奏曲第2番は、昨年秋のチェコ・フィルハーモニー管弦楽団定期公演デビューを収録したものです。チェコ・フィルとの共演はいかがでしたか?
ビエロフラーヴェクさんは、大きなフレーズ感とともに作品の構造を捉えるタイプの指揮者で、自然な流れの音楽づくりをされます。そして、チェコ・フィルは、他では聴くことのできない独特の響きを持つオーケストラ。とくに弦楽器の歌い回しがとても素敵なんです。たっぷりと歌うオーケストラに巻き込まれて、私も歌心豊かに演奏できました。
─――チェロ・ソナタは、ドイツ、エルマウ城でクレメンス・ハーゲンさんと行った演奏会のライヴ録音です。
ハーゲンさんとは2013年の日本ツアーで初めて共演しました。彼は、ゆったりとした音楽の流れの中にも熱いものを込める、とても魅力的なチェリストです。私の意見もたくさん聞いてくださり、楽章ごとに細部にわたって意見を交わしながら、多くのリハーサルを重ねて音楽をつくりました。納得のいく解釈ができあがったと思います。
─――ピアノ・ソロの作品としては前奏曲からの2曲を収録されています。
ラフマニノフが若いころの作品をまとめるということで、ピアノ協奏曲の2年後に作曲された前奏曲集作品23からの2曲を選びました。こうして協奏曲からソロまで多様なスタイルの作品を聴いていただくことで、ピアノという楽器が自由自在にさまざまな役割を果たすことができるのだということを感じていただけたらと思います。
─――今回はいずれも演奏会でのライヴ・レコーディングになりましたね。
プラハでのピアノ協奏曲第2番は3日間の演奏会とゲネプロを収録し、パッチ・セッションもありました。チェロ・ソナタと前奏曲の方は、演奏会は1日だけでしたが、前日にセッションで一通り細かく録音をしておきました。ですので、いずれの場合も、修正の効かない一回きりのライヴ収録というストレスからは解放され、かといってセッションの時ほど繰り返し録音して吟味していく余裕はないので、その意味ではちょうどうまい具合に適度な緊張感を保つことができたのではないでしょうか。
また今回はソロだけではなく、オーケストラもしくはチェリストとの共演によるレコーディングでもあったので、自分が聴いている音のイメージを、必ずしも録音スタッフが共有しているわけではないんだなということを痛感しました。そしてプロデューサーとディスカッションを重ねていく過程で、彼の意見を聞くことで、自分が見えていなかったポイントが見えるようにもなりました。この点はまさに目を見開かされる思いでした。
─――さて、10年前と現在で、ご自分の中で変化を感じることはありますか?
もちろんいろいろあります。一番大きな変化は、自分を信じるようになったというところでしょうか。不安や疑問だらけではなく、自分自身を信じて次のステップに進むことができるようになりました。
─――9月にはお子さんを出産されますが、音楽的にも心境に変化はあるのでしょうか?
以前はコンサートで思い通りの演奏ができなかったあと、自己批判をして長く落ち込むほうだったのですが、“次に頑張れば良い!”と、前向きに考えられるようになりました。お腹の中に何より大切な命があることが、そう思わせるのだと思います。お腹に赤ちゃんがいる状態でステージに立つという経験は本当に貴重で、素敵な時間だと感じています。
[2014年7月、東京にて]
(聞き手:高坂はる香)