HEATWAVE

その成り立ちから非常にユニークなバンド、ヒートウェイヴ。

アメリカ人、イギリス人、スイス人などによってドイツで結成され、短期間のうちに世界的名声を博した。

しかし、その短期間に、彼らにはまったく予期せぬ悲劇が次々と起こる。ヒートウェイヴは呪われたバンドか。グループが直面するその数奇な運命とは−−−。



PROLOGUE

 初めてヒートウェイヴというグループの作品を聴いたのは、デビュー・アルバム『トゥ・ホット・トゥ・ハンドル』で、77年初めの頃だった。これがイギリスから登場したアルバムだったので、すっかりイギリスのグループだと思った。ソウルっぽいが、白人的なサウンドで、アメリカのソウル、R&Bに耳慣れた者にとってはちょっと違ったソウル・ミュージックだという印象を持った。まもなく、このグループはドイツで結成されたグループだとか、メンバーにはアメリカ人もいるが、レコードがイギリスのレコード会社から発売されてイギリスのチャートを上昇したといったような情報が錯綜しながら入ってきた。

 彼らに対する最初の疑問が「彼らはどこのグループだ?」というものだった。

 そして、まもなくその答えがわかる。彼らはアメリカ人を中心にしたグループでドイツのアメリカ軍の基地で結成され、イギリスのレコード会社と契約し、デビューしたということだった。まさにどこの国のグループというよりも、多国籍グループといった感じだった。



1. ドイツの米軍基地で

 米軍は、世界各地に基地を持っているが、西ドイツ(当時)にも基地があった。そこに駐屯するアメリカ軍兵たちが、遊び半分で結成したバンドがそもそもの始まりだった。

 

 当初彼らは「カシミアーズ」と名乗っていた。彼らは同じ頃基地内で結成されていた女性だけのグループ、ブラック・パールズと手を組み、このグループは「カシミアーズ・アンド・ザ・ブラック・パールズ」と名乗り、ライヴを行なうようになった。しかし、メンバーはそれぞれ次の赴任地に赴くため、グループを脱退。結局、残ったメンバーのうちジョニー・ワイルダー・ジュニア(オハイオ州デイトン出身)と他3人の計4人で新しいヴォーカル・グループを結成した。それがノーブルメンというグループだった。そして彼らはヴォーカル・グループだったので、バック・バンドとして全員ドイツ人のバンドを雇い入れた。

  

 その後も何度もメンバー変更を繰り返し、いつしかジョニー・ワイルダーはグループのリード・シンガーとなった。その頃までにグループは、「ジョニー・ワイルダー&ザ・ソウル・セッション」という名前になっていた。ジョニーの69年からの約3年の兵役が終わる頃のことだった。

 彼の友人にアップセッターズというバンドをやっていたトミー・ハリスという男がいた。ジョニーとトミーはそれぞれのメンバーがみんなばらばらになってしまうので、二つのグループを一緒にしようかと話し合った。

 こうしてアップセッターズとソウル・セッションがまとまってひとつの新しいグループができあがった。これが、ヒートウェイヴである。72年8月頃のことである。

 

 当初のメンバーは、ジョニー・ワイルダー、トミー・ハリスの他にエリック・ジョセフ、エリック・ジョンズ、ジェシー・ウイッテン、バーバラ・ベルだった。

 彼らがずっとリハーサルをしていたドイツの古いビルでは、なぜか暖房が一年中ついていた。そこで、真夏でも暑かったためにグループ名をヒートウェイヴ(熱波)と名付けたのだ。

 最初は遊び半分だった彼らは、自分たちの音楽で音楽界に熱波を巻き起こすという真剣な夢へ変わっていった。そして、その夢のために皆が一丸となりはじめていた。

 

 そしてまもなく、このバンドに地元で活躍する女性シンガー、プーチーとイギリス出身のロッド・テンパートンというキーボード奏者、そして、スイス生まれ、スペインはマドリッドに住んでいたベースのマリオ・マンティースが加わった。

 テンパートンの口利きで彼らはドイツとイギリス、ヨーロッパでクラブ・ツアーを敢行。この頃、ひとり女性シンガーが辞め、ラティーシャ・ハーモンとオードリー・ヘイズのふたりが加わった。



2. ジェシーへ捧げるアルバム

 徐々にイギリス、ドイツなどで評判を集め始めた彼らだが、この頃、グループに第一の悲劇が襲った。

 なんと、オリジナル・メンバーのジェシー・ウイッテンが交通事故にあい死亡してしまったのである。それはあまりにあっけない死だった。

 

 さらに、ヨーロッパのクラブを中心にツアーをしていた彼らのうち、トミー・ハリスがツアーに疲れたということで、グループから離脱。一方で、ドラマーのアーネスト・バーガー、さらに、ギターのエリック・ジョンズ・ラスムーセンが参加。

 ジェシーの死は、メンバーに大きなショックを与えたが、それでも彼らはイギリスに本拠を構え、クラブ・ツアーと同時に、デモ・テープを作り始める。ちょうどこの頃、リード・シンガーにジョニーの弟、キース・ワイルダーを加え、グループは2人リード・ヴォーカルの体制を整える。このときのデモ・テープは、いずれもロッド・テンパートンが書いた作品だった。

 

 そして、彼らはこのデモ・テープをあちこちのレコード会社に売り込んだが、ほとんどのレコード会社が断ってきた。また、彼らはロンドンにやってくるビッグ・アーティストの前座を積極的に務めるようになる。そして、その前座ぶりを見たあるレコード会社がヒートウェイヴに興味を持った。

 それがGTOレコードというレコード会社でヒートウェイヴはGTOと契約することになった。76年のことだった。

 アルバムに先がけて、シングル「スーパー・ソウル・シスター」がリリースされる。そして続いて「エイント・ノー・ハーフ・ステッピン」と続く。

 それぞれイギリスのディスコではちょっとしたヒットにはなっていたが、全国チャートに入るヒットには至らなかった。

 

 77年1月、イギリスで第3弾シングルが発売される。それが、「ブギー・ナイト」というタイトルのアップ・テンポの作品だった。これは、イギリスのヒット・チャートを瞬く間にかけあがり、大ヒット、すぐにアメリカのエピックが発売権を獲得。6月に全米リリースすると、やはりアメリカでもブレイク。ソウルで5位、ポップで2位を記録する大ヒットになったのである。

 

彼らのデビュー・アルバムには、「ジェシー・ウイッテンの想い出に捧げる」というクレジットがのった。ジェシーへ捧げたアルバムとなったのだ。

 このアルバムには、ロッド・テンパートンが書いた美しいバラードがある。

 「いつでも、永遠に、君と一緒にいる瞬間、それは僕にとって夢のような時間/僕が君を見るとき、いつも太陽が輝く・・・」と歌われる作品のタイトルは、「オールウェイズ・アンド・フォーエヴァー」。もちろんこの作品自体の全体のトーンは、男と女のラヴ・ソングだ。しかし、そのメッセージの中には、不慮の死をとげた仲間であり、成功を見ることなくこの世を去ったジェシーへのささやかな気持ちもくみとれる。

 そして、ロッドとメンバーの気持ちが乗り移ったかのようなバラードの「オールウェイズ・アンド・フォーエヴァー」は瞬く間に大ヒット、ソウルで2位、ポップ18位を記録する。「オールウェイズ・アンド・フォーエヴァー」には、ジェシーのソウルが宿っていたのかもしれない。

 

彼らのデビュー・アルバム『トゥ・ホット・トゥ・ハンドル』は、76年暮にイギリスで発売され、77年7月に全米発売となる。もちろん、これは、シングル・ヒットの影響もあり、すぐにベスト・セラーとなり100万枚以上のセールスを記録するプラチナム・アルバムになる。





3. マリオを襲う第二の悲劇

 「ブギー・ナイト」は、既に世界的な大ブームになっていたディスコでも大ヒット、さらにラジオ局でもブレイクし、彼らはライヴや、テレビ出演、インタヴューなどを受けるためにアメリカ、イギリス、ヨーロッパなどを忙しく行き来するようになり、いきなりスターの座につく。

 

そんな多忙を極める77年11月3日の夜。ヒートウェイヴは、ライヴ・コンサートのためロンドンに戻っていた。

 メンバーで、ベース奏者のマリオ・マンティースはショウを終えて、帰路についていた。すると、突然金目当ての暴漢が出てきて、彼の胸を刺した。あっという間の出来事だった。意識を失ったマリオは病院に担ぎ込まれたが、大量の出血と深い傷で緊急手術が行なわれた。心臓を開く大きな手術になった。一度では思ったほど回復せず、二度目の心臓手術が行なわれた。しかし、この二度目の手術のとき、彼の心臓は8分間停止し、意識不明のこん睡状態に陥る。こん睡状態は5週間におよんだ。

 マリオは、この間、まったく考えられないような体験をした。

 彼が振り返る。「自分が自分の肉体を離れたような感覚だったんだ。そして、長く素晴らしい旅に出た。おそらく天国と地獄というものを見て、たくさんの天上の人々に会ったんだ」

 その期間は、彼にとっては何千年もの長さのように思えた、という。こん睡状態から覚めたとき、彼は自分が盲目で、完全に体が不随で、話すこともできない人間、あたかも植物人間のようになったかと思ってしまった、という。だが、目を覚まし、外の世界を見たとき、彼は自分自身に計り知れぬ力があること、彼自身の中に無限の宇宙が存在することを知ったのである。そして、そうした力によって彼は厳しい状態を克服できると感じたのだ。

 しかし、体は元のように完全に戻ることはなく、ベースを弾くことはできなかった。そこで、彼はミュージシャンとしては引退を余儀なくされるのだ。





4. マリオとロッドの脱退

 一命は取りとめたものの、グループからマリオが失われた衝撃は大きかった。それはジェシーにつぐ第二の喪失であった。しかし、ショウは続けなければならなかった。

 

「ブギー・ナイト」、「オールウェイズ・アンド・フォーエヴァー」の大ヒットの後を受け、アメリカのエピック・レコードは彼らをアメリカに迎え、マーティン・ルーサー・キングの誕生日パーティー(78年1月)でパフォーマンスをさせ、彼らは1万6千人の前でライヴを見せた。

 

彼らは2作目のアルバム『セントラル・ヒーティング』を制作、78年4月に発売される。ここからは、「グルーヴ・ライン」がソウルで3位、ポップで7位という大ヒットになり、ヒートウェイヴの名前は世界中に轟くことになる。さらにミディアム調の「マインド・ブロウ・ディシジョン」も大ヒットを記録。正に向かうところ敵なしといった状況になった。

 彼らの人気の秘密は、アメリカのソウル・グループとは一味違った洗練されたサウンドを醸し出していたこと、ロッド・テンパートンが作るメロディー、楽曲がよい意味でポピュラー性を持ち広く支持された点にある。彼らのグループとしてのキャリアは、まさに順風満帆だった。

 

ヒートウェイヴは、続く第3弾アルバムのレコーディングに入っていた。前2作がベストセラーになっていたことから、この新作は予算もかけられ、あちこちのスタジオでぜいたくに作られた。

 

一方で、マリオはロンドンでの怪我のためにグループを脱退、また、それまでヒートウェイヴの作品を多数書いてきたロッド・テンパートンも作曲家、プロデューサーとしての活動に重きを置くために、ツアーの多いグループから脱退する。

 ロッドは、それまでにヒートウェイヴの様々なヒット曲を書いてきたが、78年のある日、彼のもとにひとりのプロデューサーから一本の電話がかかってきた。 

「今、マイケル・ジャクソンの新作を作っているのだが、一曲、書いてくれないか」

 それはあのプロデューサー、クインシー・ジョーンズからのものだった。

 ロッドは、クインシーに認められ、次々と曲を書くようになる。ロッドは、マイケルの「オフ・ザ・ウォール」を皮切りに、ジョージ・ベンソンの「ギヴ・ミー・ザ・ナイト」、ブラザース・ジョンソンの「ストンプ」、そして、マイケルの「スリラー」などを書き、一躍ホットなソングライターとなっていく。

 グループとして活動していると、どうしても世界的にツアーに出なければならないので、スタジオでの仕事ができなくなる。そこで、ロッドはグループを脱退したのである。だが、グループからの脱退は非常に友好的なもので、その後も曲作りなどで参加していく。





5. ジョニー・ワイルダーの事故

 第3作のレコーディングの合間をぬって、ジョニー・ワイルダーは、故郷のオハイオにしばらくぶりに戻ることにした。

 

1979年2月24日、彼がオハイオに戻り飛行場でレンタカーを借り、車を走らせていたところ、コントロールを失った大きなヴァンが彼の車に激突してきたのだ。

 ジョニーは意識を失った。救急車のサイレンの音さえ、はっきり覚えていない。彼が次に思いだせるのは、誰かが病室にいて、自分がベッドに横たわっているということを知ったときだった。

 彼は大けがをしたということはわかっていた。だが、自分の下半身が自由に動かない、などということはまったくわからなかった。医師は厳しい診断をジョニーに伝えた。「残念ながらあなたは、生涯下半身不随となります」

 ジョニーの入院生活は1年余に及んだ。一命をとりとめたものの、自らの足で歩くことができなくなった。そして、もちろん音楽活動もほとんどできなくなってしまった。

 彼が受けた精神的苦痛もはかりしれなかった。以後4年間、彼はデイトンに住むひとりの親友に苦しい胸のうちを吐露した。

 「一体なぜ自分がこのような目にあうのか」、「これからどのように残りの人生を生きていけばいいのか」

 答えのでない疑問が次々と飛びだしては、不安が襲いかかってきた。その度に、親友は親身になって彼にアドヴァイスを与えてくれた。

 例えば、たとえ生涯車椅子の生活を余儀なくされたとしても、ジョニーの価値というものはまったく変わらないものだ、といったことだったり、車椅子に乗っていてもレコーディングに参加することはできるといった現実的な示唆だったりした。

 そうした励ましもあり、ジョニーはヒートウェイヴの4作目、5作目のレコーディングに参加することになる。

 同時に彼は、弟が持つ教会に通い始め、神に祈りを捧げるようになる。妻のロザリン、娘のカーラも懸命にジョニーを励まし続けた。肉体的なリハビリと同時に、精神的なリハビリも続けられた。こうして運命の事故から4年の長い年月を経て、彼はついに自分は救われたと感じられるようになった。

 ジョニーの事故は、ヒートウェイヴにとって第三の悲劇となった。ほんの数年の間に、立て続けに3人ものメンバーに事故が起こる。ヒートウェイヴは、呪われたバンドかという噂がたち始める。

 

第3弾アルバム『ホット・プロパティー』の録音はジョニーの交通事故にもかかわらず続けられた。ツアーにはJ・Dニコラスを起用し、グループの人気維持を計った。『ホット・プロパティー』は、ジョニーの事故から3か月後の79年5月に発売され、ヒットする。

 下半身不随となったジョニーは、車椅子に乗りながら、曲作り、プロデュースなどで第4弾アルバム『キャンドルズ』のレコーディングに復帰した。しかも、彼は歌まで歌ったのである。しかし、ここからは、ヒートウェイヴのメンバーだけでなく、ロスのスタジオ・ミュージシャンなども起用、サウンド的にもすこしばかり変化の兆しが見え始めた。

 『キャンドルズ』は、中程度のセールスでとどまり、第5弾アルバム『カレント』が制作される。ここでもロスの売れっ子ミュージシャンが起用されている。特に最初のシングルとなったロッド・テンパートン作の「ザ・ビッグ・ガンズ」では、シンセサイザーにハービー・ハンコック、ピアノにグレッグ・フィリンゲインズという超一流どころを使っている。また、このアルバム制作時点では、ロッド・テンパートンは、正式にはグループを脱退しているが、ソングライターとして5曲を提供している。



『カレント』は、82年6月に全米で発売され、これを最後にヒートウェイヴは実質的に活動を停止する。

 ここからは、「レッティング・イット・ルース」がブラックで54位を記録するにとどまった。

 その後グループは94年にライヴ・アルバムを発表するが、以後はこれといった表だった動きはない。





EPILOGUE

 ロンドンの路上で暴漢に刺されたマリオは、現在は見ることも、歩くことも、話すこともできる。そして、マリオは、この事件のことを「きっとグルが仕向けたことなのだろう。なぜなら、そのときに肉体的な心臓は非常に大きな傷をおったが、宇宙の心が開かれたからだ」と振り返る。

 彼はそのときの死の縁からの生還を『ヴィジョン・オブ・デス(死の光景)』と題した本に記した。

 またその後、彼は3年間インドで過ごし、そこでも新たな体験をし、自身の体験を新たな本に記し、講演をしながら世界中を旅している。



 車椅子のジョニーはこう言う。「ヒートウェイヴ時代に自分が何を獲得し、成し遂げたかはわかっている。だが、その頃は今自分が得ているようなレベルの個人的な満足感というものはなかった」

 そして、88年、彼はソロ・アルバムを発表するが、それは、なんとゴスペルのアルバムだった。彼は神への感謝とメッセージを歌に託したのだ。タイトルは『マイ・ゴール』、さらに続いて96年に『ワン・モア・デイ』を発表している。

 彼は言う。「それぞれの人間が神の元へやってくる道筋は様々だ。僕が今やっている音楽は、自分なりの神への感謝の気持ちなんだ。僕は、自分の人生を悔いていないと自信を持って今は言えるんだ」



 彼らの自分たちの音楽で熱波を巻き起こすという夢は短期間のうちに実現した。その実現を見る前に死去したジェシー、その悲しみを乗り越えて作りあげたデビュー作のヒット、マリオの事件、さらに、ジョニーの事故。運命のいたずらに翻弄されたヒートウェイヴというグループは、今日でもそのいくつかのヒットで人々の心の中に宿る。ジョニーは、ゴスペルを歌い、マリオはスピリチュアル・メッセンジャーとして5冊の著作を出し、多くの人からの支持を集めている。

 マリオは、今日も様々なメッセージを伝えている。これはそのひとつだ。

 「愛の眼差しは、充足感の中に空虚を見、空虚の中に充足感を見る」