エコーベリー

ロンドン郊外の出身であるソニア・オーロラ・マダンが、スウェーデン生まれのギタリストのグレン・ヨハンソンと出会ったのは8年以上前の話。高い音楽的欲求を持った2人は,楽しむことを主体としながらも、優美なメロディー・ライン、スピード感溢れるインテリジェントな曲を作り、数多くのライブをこなしていった。最初のうちこそ厳しい批評をうけていたものの、今や間違いなく90年代のUKのミュージック・シーンを代表するバンドにまでなった。ソニア(Vo.)、グレン(Gu.)、アンディー・ヘンダーソン(Dr.)、デビー・スミス(Gu.)、そしてアレックス・カイザー(Ba.)の5人からなるバンドは、様々な批評家、雑誌から賞賛の言葉をもって受け入れられる。

―エコーベリーこそ、新たなブリティッシュ・ポップ美学の星であるー(英セレクト誌 94年)



90年代のエコーベリーの人気は凄いものがあった。彼女達が巻き起こした人気はその後砂埃のように宙に舞っていた。



最初のEPである『ベリーエイク』はインディー・レーベルPandemonium(パンデモニアム)から93年にリリースされた。



94年にはRhythm King(リズム・キング)と契約を結び、デビュー・アルバムを作ると同時に、オアシス、ブラー、パルプ、エラスティカやレディオヘッドと共にブリット・ポップという荒々しい波にのまれていき、もちろんエコーベーリーもその中の最前線に押しやられた。



「私達は普通のブリテッシュ・ポップよりもっと大きな違う何かがある、といつも感じていたのよ」と、ソニアは言う。

「私達の歌は、他の流行りのバンドにはないもっとダークな面があると思うの。最初のEPからずっと私達の音楽はダークな要素を誇らし気に持っていて、その他に皮肉とウィット、そして同時に女性の力を感じさせてくれるものがあるのよ。」



無難に評価されることを嫌がる理由がソニアには充分あった。エコーベリーは他とは違うという意識である、ポップという枠の中の端っこにその居場所を見つけながらも。



デリーで生まれたソニアはポスト・パンク時代に郊外のヒリンドンで育った。その頃のティーン・エイジャーといえばポップ・チャート、ザ・ジャムやブロンディー、いわゆるパンク的に、髪の毛を染めたり何かに抵抗することに夢中だった。心理学の学位を修得したソニアはキック・ボクシングを学んだり、ニーチェを読むのが好きな大学生だった。それまで厳格なうちに育ち、初めての自由とも言えるべきものを手に入れたソニアが曲作りのパートナーであるスウェーデン出身のグレンや、ハードコアなアンディーとアレックス、そして何でもありのデビーと出会えば、何かが起こるのは自然な流れだった。



セカンド・アルバム『オン』が95年にはUKチャートで4位にまでランクインし、「グレイト・シングス」、「キング・オブ・ザ・カーブ」、そして「ザ・ワールド・イズ・フラット」などの華々しいメロディーを披露しながらエコーベリーは90年代後半ポップという手に負えない時期を大胆にも駆け抜けていった。ボバー・ブーツを履いた英国系アジアン女性シンガーをどう受けとめていいのか戸惑うポップ・シーンの中で、自分の意見をはっきりと言い放つソニアの存在は際立っていた。



違う角度から見れば、それは単純にソニアが楽しんでいるだけだったのかもしれない。



あのモリッシーと仲良しになる。「Suck My Ego(私のエゴを吸って)」と手に書いたソニアの写真。94年にニューヨークで行われたニュー・ミュージック・セミナーに参加。R.E.M.からの応援と、マイケル・スタイプからの電話。タイム誌からThe Big Issue(*ジェネレーションXのことをを取り上げた専門誌)まで様々な新聞や雑誌の表紙を飾った。

「私の国でもあるのよ」と書いたユニオン・ジャックのTシャツを着て話題となる。大成功だったグラストンベリー・フェスティバルでのパフォーマンス。



95年のリーディング・フェスティバルではソニアが女子高生の格好をして、また新たなスキャンダルとなる。そしてソニアのセックス、政治、ドラッグ、お手本になるには自分は相応しいか、猫や、堕落、夢、そして恐怖などについての考えが常に報道の注目となる。

ソニアは最初にこう言った:

「言いたいことをはっきり言わないと、頭の悪い女って思われちゃうでしょ。」

そして、『WOMEN REWRITE ROCK(女性がロックを書き換える)』という本(コートニー・ラヴやビョークなどが取り上げられている)に載ることを敢えて避ける。その後彼女はこう発言する:

「今インタビューをやりたくないのは、そのすべてが馬鹿げてるからよ。ただのマスターベーション、自己中なマスターベーションよ。それをみんなが一緒にやってるだけ。」

ひょっとすると、音楽誌で最も洞察に満ちたコメントかもしれない。



ツアーの減少やビジネスへの興味が徐々に弱まり、まず初めにアレックス、そしてデビーがバンドを脱退した。

その後も、マネージメント会社とレコード会社とが契約を結んだ後に、法的な問題が発生していたにも関わらず、97年にはギル・ノートンがプロデュースを手掛けた『ラストラ』をリリースした。



しかし、何よりもここで惜しいのは、彼女達が猛烈なライヴ・バンドであったということだろう。テレビで見るだけではその素晴らしさは伝わりきらない。95年には、リーディング・フェスティバルでのエコーベリーを「素晴らしい...出演アーチスト達の中で最も自由でナチュラルなバンド」と、メロディー・メイカー誌は書いている。

生意気で、勢いよくポップ・シーンに挑み、そして勝利を得たのだ。



そして2001年現在、エコーベリーはもっと神秘的なものへと進化し、まったく異なった燐光で精神的なサウンド溢れる4枚目アルバム『PEOPLE ARE EXPENSIVE』をリリースした。しかし、彼女達が聴く人達の至福感を揺さぶることだけを願っていたあの頃というのは、我々にとって価値ある遺産であることは間違いない。つい先日Q誌がバンドについてある記事を書いていた:

―女性としてのインパクト、そして人種に対しての政治的考えを持つバンド、というイメージだけでエコーベリーを見てしまっては、ポップバンドとしての彼女達の重要さを否定してしまう。―

おそらくこのアルバムをを聴いての記事なのだろう。

これ以上にポップをより鋭く、濃く、そして幸福感に溢れたものにしてしまうバンドはいないと言っても過言ではない。



95年にはエコーベーリーはこうも書かれたことがあった:

“エコーベリーを聴けば、何のためらいもなく心から一緒に歌いたくなる” 

これは彼女達の最高傑作。さあ、今すぐ聴いてみよう。