Dr.DOWNER

2003年の夏頃、オレがケイタ(高橋"JUDI"ケイタ)と某ドラマーと高校生の頃からやっていたバンドが解散し、暇になったオレは就職するという選択肢を選ばず横須賀横浜界隈のバンド二個でベースを弾いたり、ギターを弾いたりしていた。でも自分の曲をやりたいと思いその年の終わりに楽器の上手さとかは気にせずに身近にいた人に声をかけバンドを始めることにした。
解散したバンドではオレはベースボーカルだったのでそのまま自然な流れでオレがベースボーカルで横須賀かぼちゃ屋というライブハウスでいつも泥酔していた星野サトシという人物と前からバンド仲間でその時叩くバンドが無くて暇そうだった椎名ユウスケという人物から始まったこのバンドにDr.DOWNERと名付けた。

2004年から新宿初台WALLや横須賀かぼちゃ屋とかでライブをし始めデモテープ「4ディメンションジェネレーション」を発売。結構時間かかったけど売り切れた。
なぜテープを作ったのかというと横浜横須賀近辺のパンク界隈の人はカセットテープというメディアに過剰な思い入れがある人が多く、オレもその一人だったからだった。CD-Rで作れば良いのにそれをダサいと思っていた。
オレがバンドを始めるか始めないかぐらいに見に行っていたバンドは大体みんなデモテープとかいってカセットテープを作っていてそれがすごいかっこ良かったからだ。
そんな感じでとりあえずライブをひたすらやっていた2004年。

2005年の最初ぐらいにドラムが椎名くんから小石トモアキに交代することになる。色々な事情はあるが仲違いではない。
小石も横浜横須賀界隈にいたドラマーでこの時やっていたバンドが解散したタイミングだったので入ってもらった。
この年は音源とか全く作らず、基本的にみんなで飲みにいくだけでライブも1ヶ月ないとかあったけど、それはそれで楽しかった。

2006年にオレの前のバンドにいたギタリスト、ケイタが当時加入していたバンドが解散するっていう話を聞いて、ウチ入らない?って聞いたら入るっていうからケイタが入り、この年から割とちゃんとバンドをやり始め、地元のスタジオがやってるレーベルからミニアルバムを出した。「向こう側のレディオガール」ってミニアルバム、もう廃盤になっていてオレも持ってない。今でもたまにライブでやる曲入ってるかな。

で、それの翌年の2007年に地元の友達ポップパンクバンド、「CARAMELMAN」と「Phantom of the Punk Rock」ってタイトルのカセットテープを出した。
キャラメルマン面とドクターダウナー面、みたいな感じのテープ。これも売り切れちゃってオレも持ってない。

そしてひたすらライブをやり続けたのだが、そのお陰で地元パンクシーンで確固たる地位を築いた、訳ではなくロックにもパンクにも溶け込めない不穏で異様な存在感を主にパンク、ハードコアシーンにまき散らし始めた。
そうしたらある日、「ENDZWECK」というハードコア界隈では知らない人がいない感じのバンドと対バンしたときドラムの望月宇宙さんと仲良くなり、ウチから出さない?っていうノリでウチューさんのやっているレーベル「cosmicnote」からミニアルバム「スーサイドソルジャーマン26」を2009年初頭に出すことになった。
26歳の時に作ったから26って入っている。今でもライブでやる曲がたくさん入ってる。オレにとっては結構思い入れの深いミニアルバムです。

で、その直後にまたカセットテープを出したね、「Rockn'Roll難民」ってタイトルのヤツ。結局これもすぐなくなってしまった。そしてこれがオレの最後のベースボーカル音源になった。これはオレも持ってる、あげないけど。

実はDr.DOWNERと平行して2006年ぐらいから2年間ぐらいオレは「LINK」というバンドでサポートギターを弾いていてその間にアルバムを二枚出した。このときに幕張メッセとか横浜アリーナとかめっちゃでかい会場でやったりしていて今考えるとこれはとても良い経験だったな、と思った。

しかし、やっぱ自分のバンドの時間が削がれるのは良くないなって思って辞めちゃった。オレ最後のLINKでのライブは多分2008年の夏の八戸だったと思う。

「スーサイドソルジャーマン26」を出した後、ツアー出てファイナル終わって、なんか全部上の空になってオレは突然メンバーに「ベースボーカル辞めたい」って言った。
考えてみたらオレは昔やっていたバンドの陰から抜けきれずにベースボーカルをやっていたのかな、このままじゃダメだな、って思ったような気がした。
そして、ギターだった星野がベースになってオレがギターボーカルになり、これでダメならこのバンドはもういいかな、とまで思ったのであった。

そして2009年の暮れに掟破りのパートチェンジを決行し、バンドは瀕死の状態からとりあえずは復活を遂げた。けれどもそれと引き換えに経験値を全て失った。

だから今のDr.DOWNERは2009年の終わりに始まっている。

その数ヶ月後の2010年にいきなり出した音源は「さよならティーンエイジ」って名前。
ASIAN KUNG-FU GENERATIONの後藤さんがミックスとオレの歌録りディレクションと編集をやっているんだけど後藤さんはオレにとっては地元のバンド仲間で、小石星野にとっては大学の先輩です。

Cubaseっていうソフトでオレが録った音源をミックスしてよ、ってそのデータを渡したら「これは酷いな、、、」と言われそのまま流れで後藤さんのレーベルの「oniy in dreams」からその酷い音源のリリースとなった。

ここからすげえ色んなことが変わり始め、それからまた後藤さんディレクションで初のフルアルバム「ライジング」を作り、2011年にリリースする。

もちろん、状況が状況なので、注目度はかなり増えたってことは自覚し始め、でかいステージでやることも増えた。しかし、ここは現在進行形の出来事だからうまく文章に出来ない。

ライジング作った直後に後藤さんと次のアルバムどういうのにする?って話になり自然な流れで後藤さんと「幻想のマボロシ」というフルアルバムを作った。
後藤さんの肩書きはライジングの時はディレクターだったのが今回はプロデューサーって肩書きに変わっているけどやってることは同じです。

そしてそのフルアルバムを2013年7月にKi/oonから出すことになりました。
まあこっから先はオレたち次第なので、出来ることは全部やっていこうと思う。
ダメならダメでしょうがないけどやらなかったら何にもならないもんねー。
明日は全部自分次第をモットーに生きています、神奈川県横須賀市から来ましたDr.DOWNERです。