デヴィッド・ボウイ バイオグラフィー

 

「ジャズ界におけるマイルス・デイビスのように、ボウイは自身のイノヴェーションを体現するだけでなく、

文学、アート、ファッション、スタイル、性的探求、社会的主張が一体化したイディオムとしての

モダン・ロックのシンボルとなった」

――ローリング・ストーン誌

 

ボウイはロックンロールという音楽を、ひとつの芸術形式としか説明できない境地へと高めた男である。

 

大概のポップ・アーティストよりも完全に深遠な原動力に突き動かされたデヴィッド・ボウイは、たぐいまれなサウンドと果てしないヴィジョンという非常に特別な世界に生きている。ロックの巨匠たちのマンネリズムに甘んじることを拒絶し、陳腐という屈辱的なネガティヴ・スパイラルに陥ることを避けながら、ボウイは好きな曲を好きなときに書いて演奏する。彼が参加しなかったレッド・カーペット系のイベントや賞のセレモニーは数え切れないほどあるものの、彼の次の動向への興味は増すばかりだった。

 

デヴィッド・ロバート・ジョーンズは1947年1月8日、ブリクストンで生まれた。ロンドンのウェスト・エンド地区のジャズ・シーンに影響を受けた彼は13歳でサックスを手にし、ロニー・ロスに弟子入りを志願する。初期の彼はザ・コン・ラッズ、ザ・キング・ビーズ、ザ・マニッシュ・ボーイズ、ザ・ロウアー・サードなどで活動し、ポップスとモッズの華やかな世界の洗礼を受ける。1966年にはデヴィッド・ボウイと名乗るようになり、長髪の頭にはスターへの願望が渦巻いていた。ケネス・ピットとマネージャー契約を結んだ彼のキャリアは、大半が記憶に残らず終わったシングルと頭いっぱいのアイデアとともに始まった。チャートに登場するようになったのは1969年の伝説の作品『スペース・オディティ』(最高位:全英15位)が初めてだった。60年代後半の若きボウイは音楽的に放浪しながら、メディア・ミックス、映画、マイム、チベット仏教、映画、恋愛においてエクスペリメンタルな日々を送った。最初に「デヴィッド・ボウイ」と名付けられ、続いて「マン・オブ・ワーズ、マン・オブ・ミュージック」と改題された『スペース・オディティ』は、ロンドンのアート・シーンから彼が受けた影響の全てに敬意を表した内容であり、才能溢れる若きソングライターの彼がロックンロール史上最高にしても最も独創的な作品を作り上げる前の状態が表れている。もっとも、世界が彼に追いつくにはそこからさらに数年かかることになるのだが。

 

70年代初期

ボウイのファースト・アルバム『世界を売った男』(The Man Who Sold The World)』はひとつの作品として録音され、初めてのクリエイティヴな拡大解釈を求める原点となった。本作におけるミック・ロンソンのギターはヘヴィ・メタルの誕生の瞬間と考えられることも多く、グラム・ロックの幸先の良い始まりであることは確実である。同作はマーキュリーから1971年4月にリリースされたがほとんど話題にならず、ボウイは同年春に初めて渡米し同作をプロモーションした。同年5月、当時の妻アンジェラとの間にダンカン・ゾウイ・ヘイウッド・ボウイが生まれている。

 

次にボウイと契約したのはRCAだった。同社との契約を完了させるために渡米したのち、彼はロンドンに戻り、ほぼ立て続けに2枚のアルバムを録音した。『ハンキー・ドリー』はレーベルの注目を呼び契約へと繋がった6曲入りのデモから生まれており、「チェンジス」と「火星の生活」(Life On Mars)が収録されている。そのほぼ直後にリリースされ瞬く間に名盤となったのが『ジギー・スターダスト』(The Rise and Fall of Ziggy Stardust and The Spiders from Mars)。これなしに「史上最高のアルバムリスト」の完成はひとえにありえない作品である。

 

1972年は、ボウイが世界的なスーパースターへの出世を果たした年である。「GQ」誌編集者のディラン・ジョーンズは、1972年7月6日の「トップ・オブ・ザ・ポップス」に出演し、何百万世帯もの無防備なお茶の間に初めて姿を現し、アルバムのリード・シングル「スターマン」を披露するという象徴的なできごとについてこう語っている。「このパフォーマンスを境にボウイはスターになり、ジギー・スターダストのペルソナを国民の意識に植えつけた」。同年春ロンドンで初演された、彼自身の手によるロックンロール作品『ジギー・スターダスト』は当時最も鮮烈で画期的なライヴ・パフォーマンスとなり、ロックの生番組というパラメーターを拡大するとともに、グラムの人気を世界中で爆発させるきっかけとなった。

 

世界中で浴びたスポットライトの眩しさも、ボウイの猛烈かつ多くのものを生み出す創造的集中力をそぐことはなかった。1972年の夏、ボウイは2つの名盤のプロデューサーを務めている。ルー・リードのアルバム『トランスフォーマー』はニューヨークの音楽史において画期的な作品となり、「ワイルド・サイドを歩け」(Walk on the Wild Side)というまさかの安打を放った。また、パンクのプロトタイプとグラムを融合させ、恐るべき影響力を持ったイギー・アンド・ザ・ストゥージズの作品『ロー・パワー』も手がけている。(ボウイはイギーの後年の作品『イディオット』と『ラスト・フォー・ライフ』のプロデュースも手がけている。前者に収録されたポップとの共作「チャイナ・ガール」は、のちに『レッツ・ダンス』に改めて収録された。) ボウイは1972年がそれでも十分ではなかったかのように、モット・ザ・フープルの『すべての若き野郎ども』[All The Young Dudes]のプロデュースも手がけ、ヒット曲となったタイトル曲も書いた。

 

『ジギー』の全米ツアーは9月に始まり、ソールド・アウトとなった各公演では日本の舞台劇から星間を巡るSFまで様々なものにインスピレーションを受けた衣装、ミック・ロンソンの唸るギター、そしてオーディエンスを別世界からやってきた救世主を求めるロックンロールの熱気へと駆り立てる、パフォーマンスへの大胆不敵なアプローチなどがみられた。1973年春までにジギーは世界を一周し、ロンドンから日本までの各地では、髪を鶏のトサカのように刈り立て、買ったばかりのロンドンブーツで「サフラゲット・シティ」(訳注:『ジギー・スターダスト』収録曲より)を闊歩するキッズが続出した。ボウイは1973年6月3日、「ロックンロールの自殺者 (Rock ‘n’ Roll Suicide)」演奏前のこのような発言によって、ジギーとスパイダーズを突然葬り去ってしまった。「今回のツアーで行った公演のうち、これが一番思い出に残るものになるだろう。今日はツアーの最終公演なだけでなく、最後の公演でもあるのだから」。この言葉にはバンドのメンバーはもとより、会場の誰もが驚いた。

 

『ジギー』フィーバーの真っ只中、1973年4月には全米ツアー中の経験にヒントを得て生まれた『アラジン・セイン』がリリースされた。「ジーン・ジニー」、「デトロイトでのパニック(Panic in Detroit)」、「ドライヴ・インの土曜日(Drive-In Saturday)」、「気のふれた男優(Cracked Actor)」そしてマイク・ガーソンの熱狂的なピアノ・ソロをフィーチャーしたタイトル曲も収録されている。「スターダスト」公演をひと段落させた彼は渡仏し、続くアルバムの制作にとりかかった。彼が1964年~67年のロンドン時代に憧れていたアーティストたちへのトリビュートとして1973年10月にリリースされた全曲カヴァーのアルバム『ピンナップス』は、ボウイがギターにミック・ロンソン、プロデューサーにケン・スコットを迎えてレコーディングした最後のアルバムとなった。1973年4月、ボウイは次の段階の全曲オリジナル作品として、反ユートピア的で壮大な作品『ダイアモンドの犬』(Diamond Dogs)をリリース。騒々しいタイトル曲と永遠のグラム・ロックへの賛歌「愛しき反抗(Rebel Rebel)に強調されたテンションと予感に溢れた『ダイアモンドの犬』のコンセプト的な広がりは、当時電波を賑わせ始めていたディスコ・ミュージックへの強烈なアンチテーゼとなった。1974年夏にはこれまでの彼史上最大規模の全米ツアーを敢行し、巨大なセットと大胆な振り付けが話題となった。2枚組アルバム『デヴィッド・ライヴ』はフィラデルフィアのタワー・シアターにて録音されたものであり、このツアーの記念品としてとらえられている。

 

70年代半ば

これら2作はボウイがアメリカで耳にした音楽への興味を垣間見せたアルバムだとすれば、正統派のソウルをユニークなイギリス的視点でとらえるという、真の意味でボウイ独特の視点は、その後間もなくオマージュ以上のものとなった。ボウイは1975年、その強い興味を『ヤング・アメリカン』というマニフェストにまとめた。リズミカルでソウル色の濃いこの力作は、だった。ニューヨークのエレクトリック・レディランド・スタジオでの臨時セッションによって生まれ、発売直前にアルバムに収録されたジョン・レノンとのコラボレーション曲「フェイム」は、ボウイにとって初めての全米1位を獲得したシングルとなった。同作にはもう一人、デヴィッドが発掘したシンガーがフィーチャーされているが、このシンガーは間もなくR&Bシンガーのルーサー・ヴァンドロスとして知られるようになる。ボウイのライヴでバッキング・ヴォーカルを務めていた彼は、ウィリー・ウィークス、アンディ・ニューマーク、デヴィッド・サンボーン、マイク・ガーソンら伝説の若手アメリカ人ミュージシャンたちと肩を並べ、ヴォーカルで参加している。

 

同作が発売されて間もなく、デヴィッドはロサンゼルスに移住し、ニック・ローグのカルトSF映画の名作「地球に落ちてきた男」(The Man Who Fell To Earth)に主演した。彼は撮影が完了するや否やスタジオに戻り、ある種の紀行作といえる『ステイション・トゥ・ステイション』を録音した。この作品は10分以上にわたるオープニング曲や「ゴールデン・イヤーズ」、「ステイ」、そしてホログラムのテレビが語り手のガールフレンドを呑み込んでしまうという予知的な物語「TVC15」を収録。続いて行われた「ホワイト・ライト」ツアーではボウイがアルバムの歌詞にある「シン・ホワイト・デューク」(痩せた色白の公爵)のペルソナに命を吹き込み、過去のツアーにおける鮮やかな色彩の芝居がかったステージの代わりに、飾り気のない表現主義的な白黒映画の雰囲気を取り入れ、ひとつひとつのパフォーマンスのドラマティックなインパクトをますます高めた。この時期にはまた、1976年5月にはRCAからデヴィッド初のヒット曲集『チェンジスワンボウイ』(ChangesOneBowie)をリリース。ひとつの場所に長く留まることをしないデヴィッドは、ツアー終了後間もなくベルリンのシェーンベルク地区に移住した。

 

70年代後期

動きのあるところにボウイがいるのか、それともボウイのいるところに動きがあるのか、時には判断しづらいこともあったが、いずれにせよ、ベルリンの壁の傍にあるハンザ・スタジオでボウイが1976年にセッションを行っていた間には、歴史の地殻変動が起こりつつあった。デヴィッドとイギーが潜伏していたことで有名だった当時のベルリンは、鉄のカーテンが依然としてヨーロッパをはっきりと分断していることが他のどの都市よりも色濃かった。続いて制作された音楽は、ロンドンで浮上しつつあったパンク・シーンと対比する雰囲気を作った。彼の伝説は‘77年、イギリスで彼らしくミステリアスな凱旋公演を行い、イギーとキーボードを演奏したことで強化された。必要最小限のプロダクションはボウイの知られざる圧倒的な影響力を浮き彫りにし、時代のムードに完璧にマッチした。やがて彼はふたたび表舞台に表れることになる。

 

ボウイとトニー・ヴィスコンティが共同でプロデュースを手がけ、ブライアン・イーノとのコラボレーションにより録音された『ロウ』は、1977年に登場した。有名なベルリン3部作の第1作目なった『ロウ』はそれまでのボウイの作品、もとい他の何とも全く異なった音になっており、当初は評論家やファンを困惑させた。サイド1にはオープニング曲の「スピード・オブ・ライフ」とサイド1を締めくくる「ニュー・キャリア・イン・ニュー・タウン」を両端とする、先鋭的で簡潔な未来派ポップスを7曲収録。サイド2は6分以上にわたるボウイとイーノの共作「ワルシャワの幻想 (Warszawa)」に始まる、4つの催眠的でアンビエントなで構成されていた。フランスのラジオ番組とのインタビューで彼はこう語っている。「ベルリンには大切なものしか書きたくないと思わせる不思議な力があるんだ。他のものは気にも留めなくなる。そして最終的には『ロウ』を生みだすんだ」。当時流行していたテーマはシュールレアリズムと実験。それらの技術を前代未聞の音楽の領域に取り入れた『ロウ』は、今ではボウイにとってまたひとつの創造的なピークの始まりを示す作品として認識されている。そして、「サウンド・アンド・ヴィジョン」や「ビー・マイ・ワイフ」という人気を博したシングルひと組も。

 

三部作の2作目となった『英雄夢語り』(Heroes)はギターのロバート・フリップが前面にフィーチャーされており、1曲目の「美女と野獣」のオープニングにおけるテンションの積み上げから解放への流れ、同様にロックしている「ライオンのジョー(Joe The Lion)」と「ブラックアウト」、そしてダークで魅惑的なポスト・パンクのバラード「沈黙の時代の子供たち(Sons of the Silent Age)」から一瞬のうちに明らかなように、全体的にオプティミスティックな雰囲気を増したものとなった。6分以上にわたって続く純然たる運動性の美の中で、ベルリンの壁の前で逢瀬を楽しむ恋人たちを歌う同作のタイトル曲は、彼のシングルの中でも最高傑作のひとつであり、ほぼ間違いなく、歴史上においても音楽的ラヴ・ストーリーの名曲のひとつである。『ロウ』と同様、『英雄夢語り』のサイド2は概ねインストゥルメンタルの楽曲が占めているが、その5曲からなる組曲の中ですら、「V-2シュナイダー」のメジャー・コードが「疑惑(Sense of Doubt)」の陰鬱さと対照をなしている。『英雄夢語り』は「アラビアの神秘(The Secret Life of Arabia)」の楽観的な音で締めくり、ボウイの次なる文化的心酔の伏線となった。

 

彼の映画進出第2作は「ジャスト・ア・ジゴロ」。本人曰く「自分が持っている32本のエルヴィス・プレスリーの映画を1本にまとめたような内容」だった。1978年3月には再度ツアーを行い、1978年9月にはその全米ツアーの様子をとらえ、“ベルリン”時代の楽曲、『ジギー・スターダスト』、『ヤング・アメリカン』、『ステイション・トゥ・ステイション』からの定番曲をフィーチャーした『ステージ』をリリース。5月のオフ中にはフィラデルフィア管弦楽団との共演により「ピーターと狼」のナレーションを担当。これをきっかけに、彼は長年にわたって数多くの子供向けプロジェクトを絶えず支援することになる。(今では絶盤となったが、この作品はコレクターズ・アイテムの緑色のビニール盤としてリリースされた)。その後彼はスイスに移住したものの、異国情緒溢れるインドネシア、アフリカ、極東への熱を日に日に増した彼は頻繁に留守にしていた。

 

『ロジャー』(間借人)と適切に名づけられた作品は1979年5月にリリースされた。ベルリン3部作の完結編であるこの作品では、音的にも歌詞的にも冷戦時代のヨーロッパのはるか彼方まで足を伸ばした。ボウイにとって1970年代のイーノとの最後のコラボレーション作品となった『ロジャー』は、核の大災害の可能性を魅惑的に予期するオープニング曲「素晴しき航海(Fantastic Voyage)」に始まり、クラウトロック(訳注:1960年代~70年代に西ドイツで起こった実験的音楽)の催眠的なリズムの拍動を極東的に解釈した「レッド・セイル」に終わるという、世界をまたにかけたサイド1において、エイドリアン・ブリューをリード・ギターに起用した初めての作品でもあった。サイド2は「DJ」、「怒りをこめてふり返れ(Look Back in Anger)」、賛歌的な「ボーイズ・キープ・スウィンギング」をフィーチャー。「ボーイズ」のカオス的な未来を表現した穏やかなグルーヴは、ギタリストのカルロス・アロマーをドラムスに、ドラマーのデニス・デイヴィスをベースに交代させたことにより強調されている。

 

『ロジャー』にまつわるツアーは行われなかったものの、同年12月の『サタデイ・ナイト・ライヴ』における3曲のサプライズ出演は、今日まで最もユニークで記憶に残る出演として今も生き続けている。ニューヨークの前衛的芸術家、クラウス・ノミとジョーイ・アリアスで両脇を固めたボウイは、巨大な植木鉢にプラスチックのタキシード姿で植えられたまま直立不動で「世界を売った男」を、スカートとヒール姿で「TVC15」を、そして操り人形にクロマキーで投影された(解剖学的には正しいかも知れない)浮遊する頭として「ボーイズ・キープ・スウィンギング」を歌った。1979年が終わりを迎えようとしていた頃には、ボウイは再びスタジオに入っていた。同時期には初のブロードウェイ出演作となった「エレファント・マン」のリハーサルも始まった。同作は1980年9月に公開され、大絶賛を博している。

 

80年代

同じく9月には『スケアリー・モンスターズ』をリリース。ボウイとヴィスコンティがプロデュースを手がけた80年代最初のアルバムのリリースに先駆けてリリースされ、彼にとって初の全英ナンバー・ワン・シングルとなった「アッシュズ・トゥ・アッシュズ」は、『スペース・オディティ』に登場する「トム少佐」を蘇らせ、その運命に思いを巡らせた曲だった。「アッシュズ・トゥ・アッシュズ」に続き「ファッション」を電波上に放った『スケアリー・モンスターズ』はその後間もなく始まったMTVの最初の10年間を象徴するビデオ・クリップを1つ以上もたらしている。さらにはタイトル曲、「アップ・ザ・ヒル・バックワーズ」などがリリースされ、『スケアリー・モンスターズ』はアーティスティックな野心からなる活動と商業的な成功のバランスの取れたマイルストーンとしての地位を確立した。ギターにはフリップが復帰。ゲストにはピート・タウンゼントらが登場している。また、本作はアロマー、デイヴィス、ベーシストのジョージ・マレーからなる1976-80年のボウイのリズム・セクションが参加した最後の作品となった。

 

『ロジャー』と同様ボウイは『スケアリー・モンスターズ』を引っさげたツアーを行わず、比較的沈黙を保っていたが、10月の「アンダー・プレッシャー」のリリースによってそれを中断した。クイーンとスイスで録音し、最終的にはクイーンのアルバム『ホット・スペース』に収録されたこの曲は世界中で驚異的なスマッシュ・ヒットとなった。ボウイは2度目の全英1位を獲得した他合計3ヶ国でトップの地位を達成し、他9ヶ国でトップ10入りを果たしている。

 

1982年のボウイは様々な映画プロジェクトに携り、『ハンガー』では男性の主役を演じ、第2次世界大戦を舞台にした魅力的な物語『戦場のメリークリスマス(Merry Christmas, Mr. Lawrence)』ではセリアズ役としてトム・コンティや坂本龍一と共演し、映画「キャット・ピープル」のテーマ・ソングを手がけた。新しいベスト盤『チェンジストゥーボウイ』(ChangesTwoBowie)はこの年リリースされている。

 

1983年4月に沈黙を破ったのが『レッツ・ダンス』。ボウイにとってEMI移籍第1弾となった『レッツ・ダンス』はあっという間に彼のキャリア史上最も大きな商業的成功を収めたアルバムとなり、全世界で約700万枚を売り上げた。タイトル曲は数ヶ国で1位となり、続いて「モダン・ラヴ」と、共作者イギー・ポップのオリジナル・ヴァージョンが1977年の『イディオット』に収録された「チャイナ・ガール」のボウイのヴァージョンの2曲が全世界でトップ10ヒットとなった。ナイル・ロジャースがプロデュースを手がけ、バーナード・エドワーズ、オマー・ハキム、トニー・トンプソンといった面々が刻むリズムをバックにギターを奏でる故スティーヴィー・レイ・ヴォーンをフィーチャーした『レッツ・ダンス』は世界的ヒット以上の存在になった。豊かで滑らかなブルース/ロック・ギター、かっちりとタイとなファンクのグルーヴ、そしてたまらなく魅力的なヴォーカルのサビの融合が与えた影響は、デュラン・デュランらの作品においても日を見るより明らかであり、最近ではザ・キラーズ、フランツ・ファルディナンド、LCDサウンドシステムといった新ミレニアムに続出したアーティストたちの作品にも感じられる。

 

『レッツ・ダンス』の発売の1ヶ月後、ボウイは『シリアス・ムーンライト』ツアーによってステージへの凱旋を果たした。『シリアル・ムーンライト』はすべての期待を凌駕する内容となり、ボウイはスタジアムのヘッドライナー公演を世界中で行うアーティストとしての地位を確立した。すべての日程がソールド・アウトとなった。ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンやイギリスのミルトン・キーンズ・ボウルなどでは連続公演を行い、アメリカ、ヨーロッパ、ニュージーランド以遠のスタジアムや催事会場で行われた単独公演は、5万人、8万人、さらには10万人以上もの観客を動員した。12月に香港で最終公演を迎えた頃には、『シリアス・ムーンライト』ツアーは15ヶ国で250万枚以上のチケットを売り上げていた。その最終公演に先駆けた同年10月、ジギーとスパイダーズの最終公演のエネルギーをとらえたアルバム『ジギー・スターダスト:ザ・モーション・ピクチャー』がRCAから発売された。その後間もなく、1973年に撮影された同作の映画もリリースされている。

 

『レッツ・ダンス』に登場したアップビートなロマンティシズムが『トゥナイト』(1984年)にまで及んだとはいえ、やがて訪れるイスラム教徒とキリスト教徒の間の緊張感の高まりを歌ったシングル「ラヴィング・ジ・エイリアン」は今にしてみれば不気味なほどに予知的である。

 

(幼い息子に「ヒーローズ」を捧げた)「ライヴ・エイド」への生出演、ミック・ジャガーとのデュエット・シングル、(ピーター・フランプトンがリード・ギターを務めた)舞台色の強い「グラス・スパイダー」ツアーにより、ボウイは高い人気を維持し続けたが、1988年には最大のサプライズをもたらす。ボウイが唐突にソロ・スターとしてのスポットライトのスイッチを切り、新バンド「ティン・マシーン」を結成するという、またもや急旋回である。(トッド・ラングレンの『ラント』やイギー・ポップの『ラスト・フォー・ライフ』などに参加したリズム・セクションにして[訳注:コメディアンの]スーピーの息子たちであるハントとトニーの)セイルス兄弟と、ボストンで発掘したホットなギタリスト、リーヴス・ガブレルスを起用したボウイは、これがスーパースターのソロ・プロジェクトではなくフル・タイムのバンドであると頑なに主張した。百万枚以上の売り上げを記録した2枚のアルバム(と、限定発売のライヴ盤)において、ティン・マシーンは無駄なものをそぎ落としたギター・サウンド、新曲、そして真のサプライズ(ピクシーズのカヴァー!)少々により、モダンなオルタナティヴ・ライヴ・バンドとしての根性を発揮した。大いに気に入ったファンもいれば困惑したファンもいたため、ティン・マシーンは1991年の2作目のLP発売後間もなく活動を休止してしまった。

 

90年代

ボウイは1990年の『サウンド・アンド・ヴィジョン』ツアーで次の10年間の幕を開いた。結束力の固い4人組のバンドのリード・ギターにエイドリアン・ブリューを迎え、ラ・ラ・ヒューマン・ステップスのエドゥアール・ロックがアート・ディレクションを手がけた『サウンド・アンド・ヴィジョン』は、ボウイのグレイテスト・ヒッツに別れを告げるのに相応しい内容だった。何曲かはこのツアーを最後に演奏されなくなっている。『サウンド・アンド・ヴィジョン』は最終的に『シリアス・ムーンライト』や『グラス・スパイダー』の各ツアーの動員数を超え、27ヶ国で108回の公演が行われた。今日におけるセットリストのクラウドソーシングの前触れとなる動きとして、ファンたちは1-800-BOWIE-90(訳注:アメリカのフリーダイヤル番号。同国では電話番号の数字に割り当てられたアルファベットで電話番号を表すことがあり、BOWIEは26943を表す)に電話をかけて聴きたい曲に投票することを奨励された。このツアーでは、同名のアルバムが贅沢なデラックス・エディションとなってRykodiscレーベルから発売されている。

 

ボウイは1993年に待望のソロ・アーティストとしてのカムバックを果たし、『ブラック・タイ・ホワイト・ノイズ』と、「ジャンプ」と題されたロック界初のCD-ROM作品の一つをリリース。ナイル・ロジャースが再びプロデュースを手がけた同作は、ボウイの各時代に音的アップデートを施したもの。『ロウ』時代のサウンドをダンスとハウス風にしトーンを明るくしたオープニングのインストゥルメンタル曲「ザ・ウェディング」(自身がモデルのイマンと結婚したことにインスピレーションを得て書かれた)、ファンキーな時代に回帰したシングル「ジャンプ・ゼイ・セイ」、『ジギー』時代の相棒ミック・ロンソンと待望の再コラボレーションを果たしたクリームの「アイ・フィール・フリー」のカヴァー(残念ながらロンソンはその後間もなく他界してしまった)などを擁した『ブラック・タイ・ホワイト・ノイズ』は全英アルバム・チャートで1位を獲得し、ボウイのクリエイティヴな好奇心が相変わらず留まるところを知らないことをファンに保証した。

 

 

ボウイとイーノは1994年にはスタジオでコラボレーションを再開していた。その結果生まれたコンセプト・アルバム『アウトサイド』は、ヴァージン・レコーズ移籍第1弾としてリリースされた。この複雑なプロジェクトは、アートとしての人体切断への日々強さを増す強迫観念と、西洋社会の異端化に言及したもの。架空の人物ネーサン・アドラーの日記からカット&ペーストで作り上げた歌詞、耳に残る荒廃したサウンド、アートと殺人とテクノロジーが繰り広げる非線形のストーリーにより、『アウトサイド』はその後間もなく音楽のみならず映画、文学、そして芸術全般にまで浸透するダークで新しい感性に先駆けた作品だった。ファースト・シングル「ハーツ・フィルシー・レッスン」は、同年最大のヒットを博し最もダークな映画となったデヴィッド・フィンチャーの『セヴン』のサウンドトラックに登場した。一方、2年後に大幅に編集された「アイム・ディレンジュド」は、デヴィッド・リンチの映画『ロスト・ハイウェイ』のオープニングとエンド・クレジットの両方に用いられた。

 

『アウトサイダー』ツアーはアルバム・リリースのほんの数週間前に始まり、ナイン・インチ・ネイルズと共演するというただでさえ対立的なシナリオを激化させた。ボウイとバンドはこの5年前に『サウンド・アンド・ヴィジョン』によって葬られたモンスター・ヒットを避けたのに加え、最初の数週間は発売前のアルバムの収録曲が多数を占めるセットを演奏していたのだ。ボウイにとっては珍しさから程遠かったこのツアーは、NINとボウイのパフォーマンスを組み合わせ、オーヴァーラップから移行させたことから、『ヒーローズ』収録の「ライオンのジョー」や急進的なアレンジが施された「世界を売った男」などの珠玉の名曲を発掘したことまで、振り返れば大胆で前代未聞の内容だった。1996年夏の日本、イギリス、ヨーロッパにおける『アウトサイダー』のツアーに続き、サンフランシスコで行われた1996ブリッジ・ベネフィット・コンサートでは見事なアコースティック曲をひと組披露し、また違った激しさを見せた。同じく1996年夏にはジュリアン・シュナーベルの伝記映画『バスキア』に出演。ゲイリー・オールドマン、クリストファー・ウォーケン、デニス・ホッパーと共演し、自身が1972年に発表した曲の中で永遠性を与えたアンディ・ウォーホルの役を演じた。

 

1996年9月の奇しくも11日、ボウイのできたての新曲「テリング・ライズ」が史上初めてオンライン配信された。オンライン時代初期の這うようなスピードにも関わらず、「テリング・ライズ」はその秋のシングルとしてのリリースや、1997年初頭にリリースされたアルバム『アースリング』に先駆けて30万人以上にダウンロードされた。

 

『アースリング』収録曲のプレビューが次に行われたのは、10月25日のVH1ファッション・アワーズ。ボウイがリリース直前のアルバムのオープニング曲「リトル・ワンダー」を初披露したのだ。「リトル・ワンダー」は1997年1月にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行われ、スターたちが一同に会した50回目の誕生日コンサートでも、依然としてリリース前だった『アースリング』のほぼ全収録曲とともに演奏された。この夜ボウイは今はなきレジェンドのルー・リード、ピクシーズのフランク・ブラック、ドラムスにはフー・ファイターズのデイヴ・グロール、ソニック・ユース、ザ・キュアーのロバート・スミス、ビリー・コーガンといったスペシャル・ゲストや盟友たちと共に新曲、名曲、カヴァーの演奏を共にした。このコンサートは全体的に見てデヴィッドの人生で最も印象深い公演となっただけでなく、マディソン・スクエア・ガーデンの歴史においても最も忘れ難い音楽の夕べのひとつとなった。

 

『アースリング』は1997年2月にリリース。ひと目を引くカヴァーはいささか非現実的(不適切?)なイギリスの田園風景をバックに、アレキサンダー・マックイーンのデザインしたユニオン・ジャック柄のコートをまとったデヴィッドをフィーチャーしたものであり、ボウイの昔ながらのメロディを、終末論後のインダストリアルなドラムンベースのテクスチャと衝撃的に並列させる同作に相応しいヴィジュアル表現となっている。『ダイアモンドの犬』以来のセルフ・プロデュース作となった『アースリング』には、ゲイル・アン・ドーシー(ベース、ヴォーカル)、マイク・ガーソン(キーボード)、リーヴス・ガブレルス(ギター、シンセサイザー)、ザカリー・アルフォード(ドラムス)からなるボウイのツアー・バンドのコア・メンバーがフィーチャーされている。ハイライト曲は心をかき乱す内省的な「デッド・マン・ウォーキング」、嘲りのユーモアにつられてしまいそうになる「アイム・アフレイド・オブ・アメリカンズ」。イーノとの共作である後者には、ドム&ニックの手による、トレント・レズナーがグリニッジ・ヴィレッジでデヴィッドを追い掛け回すという自然体のビデオが伴った。続いて行われた『アースリング』のワールド・ツアーは1997年5月に始まり、1997年10-11月に行われた南米スタジアム・ツアーにまで及んだ。

 

1998年にはBowieNet (www.davidbowie.com)を開設。BowieNetは世界初のアーティストによるインターネット・サーヴィス・プロバイダーとなり、1999年度WIRED賞のベスト・エンタテインメント・サイト・オブ・ザ・イヤーにノミネートされた。

 

1999年、ボウイは多忙の合間を縫って、『天使といた夏 (Exhuming Mr. RiceまたはMr. Rice’s Secret)』の主役を演じたほか、名誉博士号をボストンのバークリー音楽院から授与され、B.B.キング、スティング、ジェームズ・テイラー、ディジー・ガレスピー、クインシー・ジョーンズというそうそうたるリストの仲間入りを果たした。またアートの世界にも進出し、ロンドンのコーク・ストリート・ギャラリーで行った個展は話題となり大成功するとともに高い評価を得た。さらにはフランスではレジオンドヌール勲章を授与されている。また、1999年にはま毎年恒例のBRITアワード授与式において、デヴィッドはプラシーボを従えてマーク・ボランの名曲「20センチュリー・ボーイ」を演奏した。この演奏が大好評を博したことにより、ミラー紙ではこの曲のシングル・カットを求めるミニ・キャンペーンを展開。7月にはザ・サン紙の投票により、デヴィッドがミック・ジャガーやノエル・ギャラガーを抑え、音楽界における20世紀最大のスターに選ばれた。同月にはQマガジンとその読者が選ぶ「今世紀最高のスター」の6位にもランクインしている。この投票において、デヴィッドは存命中のスターとしては3番目の地位を獲得した。

 

最も重要なのは、1999年10月に現時点でデヴィッドの最も自伝的なアルバム『アワーズ…』がリリースされたことである。長年のコラボレーション相手リーヴス・ガブレルスとふたりきりで曲作りが行われた『アワーズ』は、ボウイの唯一無二のソングライティングのスタイルと、それを後にろ過することになるペルソナの形成をつかの間隔てる『ハンキー・ドリー』時代における、美学的に骨までそぎ落とした生々しい自然体のパーソナリティが表れたサウンドを彷彿とさせた。「サーズデイズ・チャイルド」、「サヴァイヴ」、「プリティー・シングス・アー・ゴーイング・トゥ・ヘル」といった感情的な楽曲において、『アワーズ…』は大胆な内観により、パーソナルかつ究極に普遍的なインパクトを与えている。『アワーズ』のツアー・スケジュールはデヴィッドが2000年度グラストンベリー・フェスティヴァル最終日のヘッドライナーを務め、推定15万人の前で演奏するという華々しい形で終わった。この公演は1971年の第1回開催時に数千人の前でホークウィンドと共演したときとは大違いの、約15万人という同フェスティヴァル史上最大の動員数を記録した。

 

2001年以降

世紀が変わるとデヴィッドは世間の目を離れた日々を楽しみ、時折大規模なライヴ・パフォーマンスに出演する程度だった。彼は2年連続でニューヨークのカーネギー・ホールで行われたチベット・ハウス支援チャリティ・コンサートに登場し、フィリップ・グラス、パティ・スミス、モービー、ビースティ・ボーイズのアダム・ヤウチ(安らかに…)ら著名人とともに出演者に名を連ね、チベットの自由化を推進するキャンペーンを支援した。デヴィッドは各年全く毛色の異なるパフォーマンスを披露。1年目はギターにモービーを起用し、「ヒーローズ」のロック色の強いヴァージョンを演奏したほか、仏教にインスピレーションを得た「愚かな少年(Silly Boy Blues)」のレアなパフォーマンスを披露。翌年はクロノス・カルテットをフィーチャーするとともにベースにアダム・ヤウチを迎え、「スペース・オディティ」をユニークなアレンジメントで演奏した。

 

デヴィッド・ボウイの人生において“静かな”時期は存在しない。この時期も、デヴィッドはNME誌で史上最も影響力の高いアーティストに選出されるという栄誉にあずかった。それに加え、人生を変える新たな出来事が起こる。デヴィッドとイマンの第一子、アレクサンドリア・ザフラ・ジョーンズの誕生である。ボウイはこの時期を利用して父親業を満喫するとともに、のちに新作の基盤となった一連の曲を書いた。

 

2001年9月11日、デヴィッドはニューヨークに滞在していた。その後デヴィッドはマディソン・スクエア・ガーデンで開催された「ザ・コンサート・フォー・ニューヨーク・シティ」に出演し、短くも感情に訴えるパフォーマンスを披露することにより、第2の故郷へのサポートを表明した。彼はサイモン&ガーファンクルの名曲「アメリカ」の生々しいカヴァーでパフォーマンスを開始し、続いて自身の曲「ヒーローズ」で元気を与えた。この公演を観た者やライヴ放送をテレビで見た者たちは、デヴィッドが演奏した両方の曲で表現した感傷に心を動かされた。

 

その感動的な夜に続き、デヴィッドが取り掛かり始めていた一連の新しい曲がトニー・ヴィスコンティとの再結集に繋がったことが大々的に報道された。素材が形成されてくるにつれ音楽業界に対する展望が変わった彼は、自身のレーベルIsoレコーズを立ち上げる。同レーベルはこの度米コロンビア・レコーズ(ソニー・ミュージック)と提携し、彼のキャリア史上最も熱望されたものになるであろうアルバムをリリースすることになる。ボウイは間もなくヴィスコンティとスカウトの旅に出、ニューヨーク州北部のアレーア(Allaire)という名前の新しいスタジオに魅了されたあまり、アルバムが完成するまでニューヨークに戻ってこなかった。彼は敷地内に家族と暮らし、早起きの習慣を有効に活用しながら、アルバム制作にますます没頭していった。

 

『ヒーザン』は2002年6月にリリースされた。それに先駆けたファースト・シングル「スロー・バーン」では、旧友ピート・タウンゼントがリード・ギターで参加している。ニール・ヤングのカヴァー曲「アイヴ・ビーン・ウェイティング」では、デイヴ・グロールが同じ役を担っている。しかしゲストはさておき、『ヒーザン』には記憶する限りボウイの楽器演奏が最も多く収められている。ピクシーズのカヴァー「カクタス」では自分の作ったループの上でドラムスを叩いたほか、ほぼすべてのシンセサイザー、また一部のピアノ演奏も担当した。アルバム・タイトルについては当時こう語っていた。「ヒーザニズム(異教の信仰)というのは心理状態の一つなんだ。自分の世界が見えない人について言っている、と解釈してもらっていい。彼の心には光がないんだ。彼は無意識のうちに破壊する。彼は神の存在を感じることができない、21世紀の男なんだ。『ヒーザン』にはテーマもコンセプトもなく、曲が並んでいるだけだけれど、私のテーマのあるアルバムと同じくらい強い筋が通っている」。

 

『ヒーザン』のリリースに伴い、ヨーロッパやアメリカでは一連のコンサートが行われた。中でも特筆すべきが、デヴィッドがキュレーターを務め、イギリスで2週間にわたって行われたメルトダウン芸術祭。ザ・レジェンダリー・スターダスト・カウボーイ、スエード、コメディアンのハリー・ヒル、コールドプレイ、テレヴィジョン、ザ・ダンディ・ウォーホルズら多彩なアーティストが名を連ねた。デヴィッドはフェスティヴァルの一貫として『ロウ』と『ヒーザン』を全曲演奏した。

 

1年後、世界最大のインタラクティヴな「衛星ライヴ」イベントと同時にアルバム『リアリティ』が発売された。またもやボウイとヴィスコンティがプロデュースを手がけ、曖昧にして不滅の「ニュー・キラー・スター」というワン・ツー・パンチと、モダン・ラヴァーズの「パブロ・ピカソ」のカヴァーで幕を開ける『リアリティ』は、音楽的にも哲学的にも単刀直入で妥協のない内容だった。同作は現代社会の理性的な基盤の存在や、さらには21世紀における知識自体の本質そのものに大胆な疑問を呈し、BBCからピッチフォークまであらゆる媒体の琴線に触れると共にポジティヴなレヴューをもたらした。後者は『リアリティ』について「今後何年にもわたり、生気あふれる現代のアーティストとしての彼の役割を引き続き確固たるものにさせるであろう作品」と評している。アルバムのリリースには『リアリティ』の世界ツアーが行われ、熱狂的な歓迎や高評価を博した。現時点ではこれがボウイにとって最後の長期にわたるツアーとなっている。

 

その後数年間、チャリティ事業にたまに顔をみせるかパパラッチに時折写真を撮られた以外、デヴィッドは非常に目立たない生活を送っていたが、2005年にはアーケイド・ファイアと共演し、2度の見事なパフォーマンスを披露した。ひとつはセントラル・パークの『サマーステージ』、もう1つはニューヨークのラジオ・シティ・ホールで行われた『ファッション・ロックス』のチャリティ・コンサートである。2006年にはピンク・フロイドの伝説的存在、デイヴ・ギルモアと共に、シド・バレット(「アーノルド・レーン」)とギルモア(「コンフォタブリー・ナム」)時代のピンク・フロイドの名曲をロイヤル・アルバート・ホールで演奏した。ボウイはまた、2006年にはクリス・ノーラン監督による「プレステージ」(興行収入1位)で俳優にも復帰している。

 

2007年5月、ボウイはニューヨークで10日に渡って行われた「ハイ・ライン」芸術音楽祭のキュレーターを務めた。6月にはアートとテクノロジーの境界線を押し広げた実績をたたえられ、第11回ウェビー賞(「インターネット界のアカデミー賞」として知られる)の「ウェビー生涯功労賞」を受賞。2007年後半には、リッキー・ジャーヴェイス監督の人気HBOドラマ「エキストラ:スターに近づけ!」(Extras)で本人役を演じている。

 

2012年には『ジギー・スターダスト』やデヴィッド自身の与えた影響の大きさを記念し、ロンドンのへドン通り(『ジギー・スターダスト』のジャケット撮影場所)に額が寄贈された。式典にはメディアとファンが大勢詰めかけ、ゲイリー・ケンプの感動的なスピーチで歓迎された。「ジギーは究極の救世主のようなロック・スターでした。そしてデヴィッド・ボウイは彼と共に、男と女の境界線だけでなく、彼自身とその創作物との境界線を曖昧にすることに成功したのです。ボウイは私たちを救いにやってくるジギーでした。そして私は彼にホックとアイライナーとヘアカットを買ってあげたのです。ファンの少年がやるべき正しい行為だったと思います。とても光栄に思っています」

 

2013年、デヴィッド・ボウイ・アーカイヴは権威あるヴィクトリア&アルバート美術館の単独キュレーションによる展示会『デヴィッド・ボウイ・イズ…』の開催という前代未聞の許可をV&Aから得たと発表した。美術館がデヴィッド・ボウイ・アーカイヴへのアクセスを初めて許されたこの展示会は、その後アメリカ、ベルリン、フランスで開催され、動員の新記録を打ち立てた。『デヴィッド・ボウイ・イズ…』は現在オーストラリアで展示中。次は2015年暮れにオランダで開催される。

 

2013年1月8日。自身66歳の誕生日に、デヴィッド・ボウイはファンファーレもなく突然、「ホェア・アー・ウィー・ナウ?」と題されたニュー・シングルをリリースし、『ザ・ネクスト・デイ』というタイトルのニュー・アルバムのリリースを発表した。インタビューやライヴ・パフォーマンスが一度も行われず、従来のプロモーションが完全に欠如していたにもかかわらず、ボウイにとって27作目、10年ぶりのスタジオ・アルバムはイギリスの他18ヶ国で1位となり、全米チャートではキャリア史上最高の初登場2位を記録した。「ザ・スターズ」、「ヴァレンタイン・デイ」、「ラヴ・イズ・ロスト」といった一様に素晴らしい楽曲に押された批評家たちは、『ザ・ネクスト・デイ』がボウイの往年の名盤と同様の価値があると口を揃えた。ニューヨーク・タイムズ紙は「人生の黄昏時を迎えたボウイの名作」と呼び、インディペンデント紙は「ロックンロール史上最高のカムバック・アルバム。…(中略)…彼のこれまでのどの作品にも劣らない」と評した。ボウイは『ザ・ネクスト・デイ』がチャートに留まり続けている間もラジオ的には沈黙を保ち、時折ヴィジュアルな解釈に登場するのみに留まった。フローリア・シジスモンディが手がけた「スターズ」(デヴィッドとティルダ・スウィントンが、郊外に暮らす夫婦を演じた)や「ザ・ネクスト・デイ」(ゲイリー・オールドマンが堕落した司教を、そしてマリオン・コティヤールが…演じたのは…それを解明するためにYouTubeがあるのですよ)などが、アルバムにまつわるミステリーのヴェールに穴を開けてくれた。アルバムからの5作目にして最終シングルとなった「ラヴ・イズ・ロスト」は2013年10月にリリース。同曲のビデオは12.99米ドル(ボウイが映像をカメラに保存するために購入したフラッシュ・ドライヴの代金)という予算で制作され、同月開催されたマーキュリー賞授与式で初上映された。このときは『ザ・ネクスト・デイ』がアルバム・オブ・ザ・イヤーにノミネートされている。2013年11月には『ザ・ネクスト・デイ』のエクストラ・デラックス・エディションが発売された。LCDサウンドシステムのジェームズ・マーフィーがリミックスを手がけた「ラヴ・イズ・ロスト(ハロー・スティーヴ・ライヒ・ミックス・フォー・ザ・DFA)」が目玉となったこのエディションは他にも『ザ・ネクスト・デイ』のセッションから数々のボーナス・トラックを収録し、「ホェア・アー・ウィー・ナウ?」、「ザ・スターズ」、「ザ・ネクスト・デイ」、「ヴァレンタイン・デイ」などのビデオを収録したボーナスDVDが同梱された。

 

2014年にはデヴィッド・ボウイの音楽活動50周年を記念し、コンピレーション『ナッシング・ハズ・チェンジド』がリリースされた。ヒット曲や無名な曲をキャリア全体にわたってまとめたアンソロジーである。ボウイは『ナッシング・ハズ・チェンジド』のCD3枚組デラックス・エディションのオープニングを、マリア・シュナイダー・オーケストラをフィーチャーした7分間のジャズによる殺人劇のバラード「スー(オア・イン・ア・シーズン・オブ・クライム)」で飾り、再び慣例を打ち破った。ボウイはこの50周年の年を「ティズ・ア・ピティ・シー・ワズ・ア・ホア」のデモ・トラック公開という控えめな形で締めくくった。この妥協なき楽曲は、未来がさらに実験的なものになる可能性を示している。

 

2015年春には、オフ・ブロードウェイ歌劇『ラザルス』の制作が発表された。ボウイと著名な脚本家エンダ・ウォルシュとのコラボレーションであるこの作品は、イヴォ・ヴァン・ホーヴが監督を手がける。ウォルター・テヴィスの小説『地球に落ちてきた男 (The Man Who Fell To Earth)』にインスピレーションを得て生まれた『ラザルス』は、映画版をボウイが演じたことで有名なトーマス・ニュートンのキャラクターに焦点を当てる。劇中ではボウイの新曲や、彼のバック・カタログからの楽曲に新鮮なアレンジを施したものがフィーチャーされる予定。

 

2015年10月6日、ボウイの全く新しいオリジナル曲「ブラックスター」からの抜粋が、『ザ・ラスト・パンサーズ』のオープニング・クレジットの中で公開された。この大規模な新作犯罪ドラマは、11月12日にスカイ・アトランティックから全欧に向けて初放映されている。

 

10月25日には、「ブラックスター」がデヴィッド・ボウイの来たるべきシングルとアルバム両方のタイトルになることが確定した。シングルは11月20日、続いてデヴィッドの誕生日である2016年1月8日にアルバムが発売される。

 

50年にわたるキャリアを通じて、デヴィッド・ボウイの作品は常に人々を驚かせ、心を掴み、活気づけてきた。2016年も例外にはあたらない。